遊牧夫婦こぼれ話。

第26回 自分の力ではどうにもならないことがある、ということ。

2016.07.08更新

 先日、島根県の海士町(あまちょう)を訪れる機会がありました。
 海士町は、島根県の本州部分から北に60キロほど離れた隠岐諸島の島の一つ、中ノ島の全体をなす町です。本州(本土)から船で2、3時間。800年前に後鳥羽上皇が島流しにされた島だけあって、容易に本土に戻ることはできない隔絶された場所にあります。
 地理的な難しさもあり、高度経済成長期ごろには一気に過疎が進みました。その後も人口流出は止まらず、一時は町の存続が危ぶまれるほどの危機的な状況に陥ります。しかし町全体の再起を願って多くの人が努力し、さまざまな取り組みを始めた結果、ここ10年ほどの間に大きな変貌を遂げることになりました。島は活性化し、いまでは他の地域から少なからぬ人が移り住んでくる町になったのです。

 海士町は、「地方活性化」や「移住」といったテーマにおいて必ずと言っていいほど「成功例」として名が挙がります。全国各地からの視察や取材も絶えません。しかし、おそらく、表にはあまり出てこない問題点もあるのではないか。その率直なところを聞こうというのが今回の取材のテーマでした。
 実際に行って話を聞いてみると、島の人はおそらく誰も、「成功した」などとは考えていないようでした。
 大きな変化があったことは間違いない。多くの移住者が来て島が賑やかになっていることも確かである。しかし問題は相変わらず山積し、または新しく生まれ、島の人たちはそれぞれにそうした問題と向き合いながら暮らしているようでした。
 その詳細についてはここでは触れませんが、海士町を訪れ、多くの人と会って話を伺う中で、ひとつ強く感じたことがありました。今回はそのことを書きたいと思います。それは、「不便であるということの大切さ」です。

 すでに書いたとおり、この島は隔絶された環境にあります。島の人が本土に渡ろうとすれば船に乗るしかありません。しかし船は天候が悪ければ動かない。ぼくらのような外から来た人間も、帰る予定の日にもし船が欠航すれば、延泊するなどして天候が回復するのを待たなければなりません。
 都会から海士町に移住した人が、海士町についての本の中で次のような意味のことを言っていました。
 天候が悪ければ予定が崩れてしまうのは困る。そう考えていた自分に対して、島の人がこう言ったと。「しかたがない、そういうものだから、待つしかないよなあ」。

 実際に船に乗って島に行き、緑の木々と青い水面に囲まれた土地に身を置き、島の人と話していると、その言葉が自分の中でだんだんと鮮明な響きを持って迫ってくるのを感じました。そして自分が普段、知らず知らずのうちに、望んだことはなんでもすぐに実現するのが当然だと感じていることに気づかされました。
 いまの時代、誰にでもその場ですぐに連絡ができるし、知りたいと思ったことは何でも瞬時に調べることができてしまいます。行ったことのない場所に行く場合でも、何時何分に家を出ればいいかが正確にわかるし、雨がこれから何分ぐらい降り続きそうかも把握できる。ちょっと時間が空いたり手持無沙汰になったとしても、秒単位の時間まで、人に連絡をとったり用事を済ましたりに使うことができる。
 ぼくは、そのような、生活の中において不確定で未知な部分が極端に減っている状況に、ときに違和感を覚えます。また、あまりの連絡の行き来の速さや目の前に提示される情報量の多さにうんざりしてしまうこともよくあります。

 それでも、自分が必要な連絡についてはすぐに返信をもらえることを期待してしまうし、すぐに調べる必要があることが何らかの理由で調べられないと、「ああ、全く......」と思ってしまう。パソコンの速度がちょっと遅くなったりしただけでも、いままで以上にすぐ「遅いなあ」と感じてしまいます。
 結局自分も、便利すぎたりスピードが速すぎることを「いやだなあ」と言いつつも、身体にはそのスピード感が刻み込まれ、必要な場合にはそれを求めていることに気づきます。ものごとが速く進んで当然、自分の思うように進んで当然だと、どこかで思ってしまっているのです。

 もしかすると、20年前学生だったころの自分がいまの自分に会って話す機会があったとしたら、「なんでこの人はこれくらいのことが待てないのだろう」と思うかもしれないなと想像します。
 人間は便利さを手に入れることで、何でも思うようにできて当然という万能感を持つようになるのだと感じます。すると我慢することができなくなり、待つこともできなくなる。さらには謙虚さを失わせ、寛容さも失わせ、感謝する気持ちも確実に持てなくなっていくように思うのです。便利さを得ることによって私たちが失ってきたことは想像以上に大きいのかもしれません。


 『遊牧夫婦』の旅のとき、インドネシア・レンバタ島のラマレラという村を訪れました。伝統捕鯨で知られる小さな村で、400年前とほとんど変わらぬ方法で20メートルにもなる巨大なクジラを捕獲している人たちが住んでいました。市場も物々交換によって取引がされているような、本当に異次元の場所でした。
 その村で漁に参加させてもらった体験は、5年半の旅の中でも最も印象に残っていることの一つですが、ラマレラでは、他にもいくつもの風景がいまも鮮明に記憶の中に焼きついています。その一つが、村を出るときに乗ったトラックの中でのことです。
 ラマレラを出るためには、トラックの荷台に四時間ほど乗る必要がありました。道なき道を走って山を越え、島の反対側に行く。そこまで行かないと他の島へ渡るための船に乗ることができないのです。
 それゆえぼくらは、早朝まだほとんど真っ暗な中、村を出るトラックに乗りこみました。道は全く舗装などされてなく、大きな石がごろごろ転がる山道を進むので猛烈に揺れます。しかもトラックは、現地の人や子どもたちでいっぱいです。学校を始めとする様々な施設がラマレラにはなく、みな生活のために島の反対側に行かないといけないからです。
 行きにも経験したものの、いや、経験していたゆえになおさらだったのかもしれませんが、「これで四時間はありえないなあ......」と絶望的な気持ちになりました。まだ日差しのない時間帯である上に、強い風が吹き込んできて、寒さも厳しかったように記憶してます。
そんな中、同じトラックに乗っている子どもたちの姿がとても印象に残りました。
 小学校低学年ぐらいの子や、さらにはもっと小さな子がお母さんと一緒に乗っていたりしたのですが、みな、文句一つ言うでもなく、いやそうな顔をするわけでもなく、ただ静かに正面を向き、荷台の端などにじっとつかまっているのです。
 荷台の端に据えつけられた長いすにお母さんと一緒に座っていた小さな子は、あまりの揺れにぐったりしてお母さんの膝の上に横たわって、もどしました。そのとき、お母さんはその子の吐しゃ物を手に受けて、手を外に出してそれを投げ捨てました。その間、お母さんも子どもも一切声を出すことはありませんでした。
 おそらく同じように気分が悪かった子どももいただろうと思うのですが、みな四時間という間、だまって立ち続け、または座り続け、目的地に着くのをじっと待っていました。
 ぼくはその光景を見て、本当に驚きました。
 この子たちはなんて我慢強いのだろう、と。一切文句を言うでもなく、ただこの状況を受け入れて、静かに到着の時を待ちつづけているのです。

 海士町に行って、ぼくは10年以上前にラマレラで見たこの時の風景をふと思い出しました。
 便利さを手に入れたことによって自分たちはどれだけ我慢ができなくなり、謙虚さを失い、身勝手になり、わがままになっているのだろう。
 自分は便利さを積極的に求めるタイプではないとは思うものの、便利であるに越したことはないという気持ちはありました。しかし、便利であることは、私たちにとってときに有害ですらあるかもしれないことに、海士町で気づかされました。


 自分の力ではどうにもならないことがある。 
 そのことを認識することはじつはとても大切であろうことを、ぼくは今回、非常に強く感じました。自然に対して畏敬の念を抱いたり、他の人に敬意を払ったり、日々のちょっとしたことに感謝したりという気持ちの少なからぬ部分は、自分の力ではどうしようもないことがあるという実感から生まれるように思います。

 最近、『ラサへの歩き方〜祈りの2400km』という映画(7月下旬公開予定)を見る機会がありました。チベット人たちが、五体投地という方法で祈りながら2400キロもの距離を進んで、聖地であるカイラス山に巡礼する様子を描いたロードムービーです。その中で、チベット人たちは常に落ち着いて、寛容さを持って世界と対峙しているのが感じられます。自分がチベットに行ったときに彼らに持った印象とそれは同じものでありました。
 なぜ彼らがそのようにいられるのか。そこには間違いなく、彼らの暮らす厳しい環境があるに違いありません。人間の力ではどうしようもないすさまじい自然の力と常に対峙していることが、彼らの寛容さと落ち着きを生む。そしてさらに、その自然への畏怖の念が信仰へとつながっていったのだろうと想像すると、彼らが五体投地という厳しい方法で巡礼を続けることが理解できるような気がします。
 映画の中で、ものすごい速度で走ってきた車によって彼らが事故に巻き込まれる場面があるのですが、そのときも、彼らは決して相手を責めることなく許します。そしてそのシーンもとてもすんなりと理解することができました。というのも、先のラマレラのトラックに乗っているときも同じようなことがあったからです。それは、ラマレラへ向かうときのことでした。ぼくらが乗るトラックが山道でバイクと接触し、バイクの車輪が一つ大きく破損するということがありました。バイクは走れなくなりました。しかし、もめごとが起きることはなく、バイクの運転手とトラックの運転手、その他周りにいた人たちがみなで相談しながら一緒にバイクに応急処置を施しているのです。そしてその作業が終わり、なんとかバイクが走れる状態になると、バイクはそのまま、「じゃあ」という感じでゆらゆらと走り去っていったのです。


 不便であることの大切さ、と書きました。
 しかしここまで書いて、「不便」という言葉もまた、便利な世界に慣れた人間の言葉であることに気づきました。
 自分の力ではどうにもならないことがあることの大切さ。
 この言葉を頭の中で反芻し、書いた文章を読み直しながら、ふとそれが、とても当たり前のことのようにも思えてきました。
 しかしそんな当たり前のことにすら自分は新鮮さを感じている。そのことに気づかされ、いま、はっと驚かされたのでした。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

遊牧夫婦

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