遊牧夫婦こぼれ話。

第29回 「違い」はあっても「壁」はない

2016.10.07更新

 9月に、家族で中国を訪れました。
 場所は内陸部の四川省成都。四川省には、昆明に住んでいた2005年に訪ねて以来だったので、じつに10年以上ぶり。中国そのものは、ぼくは2年前に仕事で上海に行く機会がありましたが、妻は2007年に離れて以来、さらに二人の娘を連れて行くのももちろん初めてだったため、新鮮な中国訪問となりました。
 目的は、友人の結婚式に参加することでした。
 友人というのは、もう15年ほどの付き合いになる日本在住の中国人男性。彼とは、学生時代に日本で出会い、以来とても仲が良く、ぼくが中国に住みたいと思うきっかけを作ってくれた人物です。彼が四川省出身だったことをきっかけに、最初は住むなら四川省にしようと思っていたものの、諸々の条件などから、その南の雲南省に住むことになったのでした。
 彼は日本に留学してそのまま日本で就職し、その後一貫してテレビの仕事をしています。ぼくが知る限り彼は、中国語ネイティブという強みを使うことなく、日本人と同じ土俵で仕事を得て、中国とは一切関係ない番組制作を行っているのですが、自分が海外で働くことを考えると、日本とすべてを切り離したところで仕事ができるとはとても思えないので、本当にすごいことだと感じています。

 2005年の夏、ぼくらが昆明に住んでいたとき、四川省のチベット文化圏を巡る一ヶ月ほどの旅をしたことがありました。そのときにちょうど彼も四川の実家に帰っているということだったので、成都の近くの彼の地元を訪れて彼に会い、実家に一泊させてもらったのでした。
 そのときのことは『中国でお尻を手術。』の中にも少し触れていますが、彼は当時すでにかなり日本になじんでいて、中国に戻ると逆カルチャーショックを受けるようになった、と言っていました。彼は日本語がとても流暢で、しかも日本のバラエティ番組の制作にたずさわるなど、ぼくから見ても感覚がじつに日本的だったため、そう感じるのも頷けました。
しかしそうは言っても、彼は決して、もう自分は日本にずっと暮らすつもりだ、という風ではありませんでした。本の中でぼくは、四川省で彼と会ったときのことを次のように書いています。

 その一方で、親孝行な彼は、一人っ子だからということもあるのか、いつも両親のことを心配し気遣っていた。彼は時折、日本から両親に送金もしていた。両親のことを考えると、やはり遠くない将来中国に帰ってこなければ、という気持ちが彼にはあった。
「やっぱり結婚して一緒にこっちに住むっていうのがいいんだろうな、って思うんだよね。そのためにも、相手を見つけないとなあ......」
   (『中国でお尻を手術。』 16 滞在一年。中国での職探し より)


 それからいまに至るまで、彼からはよく、結婚も含めて将来どうしようか、どうしたいか、という話を聞いてきました。中国に戻るのがいいか、もっと日本で暮らすのか。それともまた別の道があるのか。そうして10年以上が経った今年、彼はついに結婚することで、道筋を一つ明確にさせたのでした。
 相手は日本人で、しかももともと中国に興味があるとても素敵な方でした。それはおそらく、彼を15年ほど見てきた中でぼくが漠然と想像していた、彼が理想とする相手そのままのような人でした。今回は、その彼女と、彼の地元四川省で結婚式を挙げるという、自分にとってもとても感慨深い機会だったのです。

 彼の結婚式では、ぼくにとってもう一つ大切な再会がありました。彼らの式の司会者を務めたのが、ぼくと彼の共通の友人だったのです。その友人も同じく長い間日本に暮らし、かれこれ15年ほど東京で、日本と中国の架け橋になるような仕事をし続けている同年代の女性です。彼女もまた、ぼくが中国に興味を持つきっかけを与えてくれた大切な一人であり、彼女は『終わりなき旅の終わり』の中に登場します。そしてそれは、この本の中でもとても重要な箇所である、終盤のスイス編のところになります。

 ぼくらがユーラシアを横断していた2008年は北京オリンピックが開かれた年で、その5ヶ月ほど前の同年3月にチベットで大きな「暴動」がありました。中国・チベット自治区のラサなどでチベット人が暴動を起こし、その後警察によって弾圧され、多数の死者が出たのです。ぼくはそのことをトルコのイスタンブールで知ったのですが、チベットには数ヶ月前に行っていたばかりだったこともあり、とても気にかかりました。
 ネットで調べ、チベット近郊に暮らす知人に連絡を取るなど可能な限り情報を集めて考えたところ、どう見ても中国政府に非があるように見えました。しかし日本では、人権問題や平和構築などに熱心な、どちらかといえば「左寄り」なメディアがみな、この問題をスルーしていたようでした。つまり、普段どちらかといえば中国に対してシンパシーを持っていそうなメディアが、中国に非があることについて口をつぐんでいる。そう見えたのです。
 それはよくないだろうと思い、ぼくは、旅中によく記事を書かせてもらっていた、一般的には「左寄り」で、やはりこの問題に何も触れていない週刊誌に、今回のチベットの問題について自分なりに調べて感じたことを書かせてもらったのです。そのことを、この女性が代表を務め、ぼくもずっとかかわってきた日中関係の映像制作団体のメーリングリスト上で報告したら、彼女からとても強い抗議の意のこもった反応が返ってきたのでした。

 日本語で書かれたその友人の返事は八〇〇〇字を超える長文だった。
 そこには彼女の、チベット問題に関する見方や、ぼくが書いた記事についての彼女の意見が書かれていた。そのすべてをここで伝えきることはできないし、一部を引用すると誤解を招く可能性があるのであえてしない。 
 ただそこには、ぼくに対する怒りのような感情までが見て取れた。彼女のチベットに対する歴史的な捉え方や今度の問題への見方は、ぼくとはまったく異なっていた。それは、ある程度まで予想はできていたけれど、自分に対する刺々しい言葉には驚かされた。そしてぼくがこれまで中国について日本の雑誌で書いてきた記事についても、辛辣な批判がなされていた。書いた記事は表面的すぎる、中国語もほとんどわからずに中国で二年半暮らしただけでいったい中国の何が書けるのだ、と――。
 (『終わりなき旅の終わり』 24 中国の友人からの辛辣な批判 より)


 チベット問題については、中国人と意見が異なるだろうことは特に驚くことでなかったけれど、今回の件については誰が見ても中国政府が悪いことは明白だとぼくは考えていたため、正直、そういった返信は予感していませんでした。しかも、辛辣な言葉が並んでいたことには戸惑いを隠せませんでした。
 ぼくはそれを読んで怒りがこみ上げ、同様に長文の反論を書きました。そしてその後他の人も交えてメーリングリスト上で議論したのでした。
 冷静になると、彼女の言葉が自分にとって痛いところをついていたからこそ怒りがこみ上げたということにも気づかされました。そしていま思えば、自分も記事を書く上でもう少し言葉を選ぶべきだったのかもしれないとも思います。
 しかしいずれにしても、自分が中国について発言し、中国人から批判を受けるという経験をすることによってぼくは、彼女が長年日本で暮らし、中国人として日本と中国に関して発言することの大変さを多少なりとも理解できたように感じました。そしてこのことは、ぼくが長旅を終えて帰国するという決断をするうえで少なからぬ意味を持ったのでした。
 
 このことがあった半年ほど後にぼくらは日本に戻りました。そしてその後1、2年の間、彼女とは疎遠になりました。とても親しい関係だったために、それは残念なことでした。
 しかし、ぼくがちょうど『遊牧夫婦』を出したあとくらい、2010年の暮れごろ、彼女は突然連絡をくれました。そして、彼女自身が運営に関わり、日中の未来をテーマとして東京で開催される大きな会合にぼくを呼んでくれたのでした。しかもその場で、中国での経験や中国について思うことを自由に話してほしいと依頼してくれたのでした。ぼくは、あのようなやり取りをして以来ながら、彼女が自分のことを信頼してスピーチを依頼してくれたことがうれしく、是非にと、やらせてもらうことにしました。
 その当日、何年かぶりの再会を果たしました。メールでの激しいやり取りについてはお互い何も触れず、ただ、彼女に会うや否や、学生時代に一緒に映像制作の活動をし親しくしていたときの感覚を思い出して、互いにこみ上げてくるものを感じながら再会を喜びました。

 会合は大きな会場で行われ、日本の元駐中国大使などを含め、日本と中国に関係の深い方たちが200人ほど来ていたと記憶しています。その場で自分が何を話せるのか、何を話すべきなのか、とても迷ったのですが、ぼくは、自分の経験や中国への気持ちを話したあと、彼女との間にあったことについて率直に話すことにしました。
 激しい言葉のやり取りがあったこと、日本と中国という異なる立場でどうしても分かり合えそうにない問題があるということ、そしてその後彼女とは疎遠になり、今日がそれ以来初めての再会であったこと、しかし、そういうことがあっても、このような場に彼女が声をかけてくれたことに関する喜びと感謝、人と人がこうして直接つながっていることの大切さ......。そういったことを、ぼくはその場で思いつくままに話しました。
 きっと彼女は、ぼくがこの大勢の前でこんな話をするとは思っていなかったと思います。それが彼女にどんな感情を抱かせることになるのかわからないまま、ぼくは檀上で話しました。しかし話を終えてみると、彼女は満面の笑みでぼくの方を見てくれました。そして近づき、互いに言葉にならない表情で笑い合いました。意見が違うことやぶつかり合うことと、互いに信頼しあえることは別なんだ。このときぼくは、そう実感したのでした。

 彼女の司会で進んだ四川省での友人の結婚式は、日本とは全く違うスタイルのもので、ぼくにとってとても新鮮なものでした。
 新郎も、司会の女性も、日本で会うときとはまた違う表情が見られ、その姿を見ながら時折ふと、全く違った文化、言語の中で育った人間同士が、こうしてずっと親しくいられることの喜びを改めて感じました。
 華やかな真っ赤なステージの上には、文化の違いを越えて夫婦となった二人の姿がありました。
 文化や習慣の違いは厳然とある。しかし人と人の間に壁はないし、信頼し合える。
 彼らを見ながらぼくは、願いも込めて、気持ちを新たにそんなことを思っていました。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

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