遊牧夫婦

第65回 番外編 被災地を訪ねて

2011.05.11更新

いつも『遊牧夫婦』を読んでいただきありがとうございます。

先々週アップの第64回で、上海生活の最後までたどり着きました。連載を始めて2年弱で、日本を出てからのほぼ4年分(2003―2007年)を書いてきたことになります。
そしてここまでを、すなわちインドネシアから中国までの3年ほどの分を、これから再度書き直し、練り直して、『遊牧夫婦』書籍版の続編を完成させる予定です。刊行予定日はまだ決まっていないものの、夏ごろを目指してできるだけ早く読んでいただける形にできればと思っています。

連載はしばらくお休みさせていただき、書籍版の完成に力を集中させるつもりです。ミシマガ連載を読んでいただいた方もいただいてない方も、一冊の本として紙で読む魅力を存分に引き出せるものにしたいと思っておりますので、完成の際には是非手にとっていただければ幸いです。

ミシマガで連載することで、一度書いたものを再度、吟味・咀嚼・再構成できるので、それが自分にとってはありがたいです。また、ミシマガ読者のみなさまからの率直なご意見をいただくことができれば、書籍を仕上げるに当たって本当に大きな力となります。もし何かみなさまからのお言葉をいただけるようであれば、本当にうれしいです。
では、楽しみにお待ちいただければ幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。


話はまったく変わりますが、5月1日から5日まで、東北の方へ行ってきました。震災が起きて以来、おそらく多くのみなさまと同じように、いろんなニュースを読み、映像を見て、さまざまなことを考えて過ごしてきました。
でも、ニュースを見てもいろいろと想像するばかりで、どうしても自分の実感として今度の出来事を捉えることができずにいました。そしてもやもやした気持ちのなかで想像する被災地や被災者の状況は、ただ大きく膨れ上がっていくばかりでした。
被災地を見なければ、被災者と話さなければ。そう思ったのは、その虚像を打ち破るためだったのかもしれません。とにかく行かないと、という気持ちになり、5日間だけだったけれど行ってみました。

仙台まで新幹線で、そして仙台で車を借りて、東松島、石巻、女川町、南三陸町、気仙沼、陸前高田という具合に、海岸沿いを見て回りました。ときに内陸に入ってうろうろしたり、また南三陸町の志津川の避難所には一日泊めてもらってボランティアに加わりました。仙台以北を見た後は、仙台の南、山元町や岩沼市の海岸沿いを見て回りました。
被災地の様子は、テレビで見る光景そのままでした。
でも、生活感あふれる品々が無残に散らばり、しかしそこに生活の音はなく、ただ、鳥が空に響くように鳴き続けて旋回する風景の寂寥感は、行ってみてはじめて実感することができました。
いたるところから潮のニオイが立ち上り、ときに油のニオイが混ざり、または有機物のニオイが混ざる、あの空気の感触もやはり行ってみてはじめて身体で感じることができたものでした。

被災地を回ってみると、地震での被害は思っていた以上に少なく、大きな被害のほとんどが津波によるものであることを感じました。志津川の人たちと話しても、ほとんどの人がそう言っていました。すべては津波だった、と。
津波の被害は、どこでも線を引いたかのように突然始まっていました。内陸から車で海岸に向かって走ると、たとえば南三陸町・志津川に向かって登米の方から国道398号を走っていくと、南三陸町に入ってしばらくしても、のどかでまったく何事もなかったような美しい緑の風景が続きました。
内陸から海へ、山の間に切り開かれた道の両側には、緑の木々が立ち並び、ポツリポツリと家や集落が見えてきます。家には一見、まったく地震や津波の被害は感じられず、畑にも野菜が整然と並び、また桜が見事に淡い桃色に開いているのも見えました。カーナビがもうあと数キロで海だと示しているあたりまでそんな風景が続いていました。

しかし、もう間もなく海というところで、カーブを曲がった瞬間に、突然、凄まじい津波の被害が始まっていました。
まったく無傷のように見えていた風景が、あるところを境に急に、壊滅的な姿になっていました。無残に折れ、鋭い切っ先をむき出しにした木材が散らばり、グニャリとまがった鉄骨が散乱し、船や車がまったく想像もできないような姿で、道の脇でじっとしていました。
そんな風景に圧倒され、言葉を失いながら、車をさらに走らせると、海が見える平地へと道が延びるあたりからは、もはや現実とは思えない光景が延々と続いていました。

そのように陸続きで被災地に入っていくことによって、被災地の大きさや実態が少し、自分の感覚としてわかるようになりました。
テレビで見るような凄まじい破壊にさらされたのは、決して東北全体ではなく、海岸線の町や村だけであること。もちろん、破壊されていないところも、ライフラインを断たれ、避難生活を余儀なくされている人も多く、被害は見ため以上に大きいことは間違いないものの、そのような津波被害の境を実際に見ることによって、空間的な被害の大きさをより実感をもって感じることができました。

その一方で、被災者の方々と話すなかで、恐怖や悲しみが、人々のなかに深く重く沈みこんでいるのを感じる瞬間がありました。
避難所となっていた志津川小学校の体育館で、夜、わずかな光で照らされたなかで、灯油のストーブの前に腰掛けながらひとりのおじさんと話しました。

・・・津波のときは、街のなかで残った数少ない建物、高野会館で他の数百人ととも演芸を見ていた。地震後、雪が降るなか、建物の一番高いところまで上がって津波が来る様子を呆然と見ていると、そばにあった自分の家が根こそぎ流されるのが見えた。高野会館と近くの病院とふたつの建物の周りに大きな渦ができていて、自分の家は、その渦のひとつに巻き込まれていった。津波のあまりの力に震撼しながらその様子を見つめた。渦に飲み込まれた家は、あっという間に建物の角に押しつぶされ、瞬時にバラバラになって消えていった・・・。

「ただただ、おっかねえ。それだけですよ」

長い間をおいた後に、ゆっくりと息を吐き出すかのように、静かにそうつぶやいたのが印象的でした。

その絶望の深さ、直面する問題の大きさが、あまりにも甚大で、ぼくはただ黙っていることしかできませんでした。人々が抱えるものの大きさも、そのときにはじめて実感として感じられたことでした。
その一方で、人々のなかにある明るさ、「すべてがなくなったけど、まあ、仕方ないさ。自然が相手だからな。とりあえず生き延びることができてよかったっておもわねえと」という前向きなエネルギーの強さ、現実を受け入れる力強さもいろんな場面で感じました。

行くまでは、ぼくの頭では、もやもやと東北全体に「被災地」が広がっていましたが、行ってみることによって、被害の様子はよりクリアに、具体的な人や地域として捉えることができるようになりました。
被災者に対して、ただただ悲惨で絶望に満ちた状態で、自分たちがなんとかしなければ、というイメージだったものが、やはり実際に会って話して、一緒に酒を飲むことで、決してそうばかりではないことがわかりました。生活や状況は大変だけれど、被災された人たちは決して無力な存在ではなく、個々人が知恵と生命力を奮い起こし、大勢が力をあわせて、力強く動き出しているようでした。

仙台へ向かう新幹線では、東京から、宇都宮、福島、仙台と北上するに連れて、見るものすべてを震災と関連づけて考えていたのを覚えています。
でも、帰りの新幹線ではそんなことはなくなりました。窓から見える風景を、ありのままに眺めることができていました。そしてその一方で、新聞に、たとえば南三陸町の話が載っていると、これまで以上にその中身に意識がひきつけられました。そして、「ああ、○○さんはいまどうしてるかな」と、個人の名前で被災者のことを考えられるようになっていることを感じました。

第65回遊牧夫婦

実際に現場に行ってみることは、その土地を具体的な固有名詞で思い浮かべられるようになるということです。そして自分のなかに固有名詞を得ることによって、その土地への、そして人への気持ちはぐっと近づきます。旅をしているときからのそんな実感を、今回東北に行くことで改めて体感することができました。これをスタートに、これからも自分なりに動いていきたいと思っています。

被災地のみなさまが、一日一日、一時間一時間、一分一分、少しでも楽しく、笑顔の多い時間を過ごせますように。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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