遊牧夫婦

第68回 北朝鮮出入国審査場

2012.02.22更新

(国境の朝鮮側から出られなくなり、青ざめていたときに、突然ネイティブの日本語が聞こえてきた――)

 「あなたたち日本人? どうしてこんなところにいるの?」

 その日本語を聞いて、その人が日本人であろうことを確信してびっくりした。どうしてこんなところに日本人がいるのだろう、と相手と同じことをぼくらも思った。しかしまず、自分たちの状況を説明した。

――中国側で、北朝鮮をちょっとだけ見てみたいって頼んだら、いいよ、って入れてくれたんです。それで、ちょっとだけ見て帰ろうと思ったら、なんと国境が閉まってしまって・・・。

 「え? 招聘状とか持ってるの? そういうのなしでどうやって中国側を出国できたの?」

――招聘状? やっぱりそういうのがいるんですよね。もちろん何もそういうものは持ってないんですけど、いろいろと交渉したら、なんだかんだで通してくれて、橋渡ってここまで来ることができちゃったんです。

 「そうなの? なしでここまで来れるのか・・・。それは知らなかったよ。びっくりしたなあ。まさか旅行者がこんなところまで入ってくるなんて思わなかった。それに、知ってる? 昨日北朝鮮が核実験をやるって宣言したんだよ。もうそれで、日本もどこも大騒ぎですよ」

――え?!

 そうなのだ、これは2006年10月4日のことである。その前日10月3日に、北朝鮮が核実験を実施すると宣言したというのだ。僻地にいてろくにネットも見ていなかったため、核実験のことなどまったく知らなかったのだ。まさかこのタイミングで、そんなことになっていたとは・・・。驚いた。そして一気に緊張感が増幅した。こんな日に、わけのわからない入国未遂のようなことをしでかし、しかも写真を撮っているのがばれたりしたら・・・。でもいまは待つしかなかった。

 そして今度は、そのおじさんの話を聞いてみる。

――ところで、どうしてこちらにいらっしゃるのですか?

 「私は在日なんですよ。日本で育ったけど、もともとはこっちの出身でね。今は仕事でよくこっちに来てて、もう北朝鮮には50回以上来てるんですよ。今回も仕事で中国から北朝鮮に入ってきたんだけど、橋渡ってから、いまは昼休みだから2時間待てって、ちょっとひどいですよね」

 ・・・と、そんな話をしている間に、ぼくの携帯が鳴った。メールだな、と思ってぼくが携帯を取り出そうとすると、おじさんはびっくりした顔をしてこう言った。

 「今のは、携帯? それはまずいよ! 携帯は持ち込み禁止だからね。携帯持ってたらほんとは中国側で預かってもらってから入国しないといけないんだよ。見つかったらまずいから、すぐに電源切って!」

 そう言われてぼくは初めて、ちょっと甘く考えすぎていたかもしれないと思い至った。写真も撮っていたところを見られたりしていたら本当にまずかったかもしれない・・・。
 急いで携帯のメールをチェックしてから、電源を切った。先に延吉に向かった友だちからだった。

 「カメラも隠しといた方がいいよ」

 とおじさん。しかし小さなバッグに一眼レフを隠すのは難しく、とりあえずCFカードを抜き取り、空のCFカードに入れ替えた。
 そこまですると、もうあとは国境があくのを待つしかない。それに、このおじさんとの出会いが貴重に思え、ぼくはいろいろと話を聞き始めた。

 「弟が北朝鮮に住んでるんですよ。もうかなり前に向こうに行ったんだけど、あのころは北朝鮮っていうのは、ある意味『理想の国』って思われててね。そして実際にそう言える側面もあったんです。弟には、私がこっちに来るときに少しお金を持っていったりしているので、それなりに不自由なくやっているようですよ」

 さらにいろんな話を聞いた。北朝鮮入国に必要なものについて。また彼は北朝鮮のパスポートを持っているのにもかかわらず、これまで監視人なしでは北朝鮮に入れなかったこと。でも最近、在留許可証のようなものを手に入れて、やっと監視人なしである程度自由に動けることができるようになったとのこと・・・。

 そうして2時間ほど話すと、そろそろ国境が開くはずの1時半(北朝鮮側は2時半)に。これで北朝鮮側への正式入国に向けても交渉ができるかもしれないものの、おじさんと話してからそんな意欲は完全になくなり、もうぼくもモトコも、とにかく中国に戻ることばかり考えていた。

 「やっと開くね。大丈夫だと思うけど、無事に中国側に戻れるといいね。じゃ、元気で。また何かわからないことあったら連絡くださいよ」

 といって、おじさんと別れ、ぼくらは再び国境の橋に向かった。確かに橋の小さな門は開いている。少し軽くなった足取りで橋に向かって歩きながら、その周囲を見て、写真に撮れないこの景色をずっと記憶に焼きつけておかないと、と思った。

第68回遊牧夫婦

中国側から北朝鮮を望む

 川沿いにはきれいに整った畑がある。数百万人が餓死しているというようなニュースの内容がまったくイメージできないほど青々とした野菜が育っているのが印象的だった。 

 「子どもたちが歩いてるよ!」

 とモトコが言うのと同時ぐらいに、その畑のそばを集団で歩く子どもたちの姿が目に入った。赤や青や白などきれいな服装をした彼らは、お互いにふざけあいながら元気に楽しそうに歩いている。
 結局、北朝鮮を見たと思えるのはこの風景だけだね、と話しながら、ぼくらは橋へと近づいた。そして、例の少年兵が今度は爽やかに通してくれるのだろうと期待して近づいていくと、なんと立っていたのは別の人物だった。言葉が通じないなかでこの状況を再び説明するがやっかいだなと思いながらも、彼に「北朝鮮に入国できなかったので、中国に戻ります」と中国語で言う。すると彼は、とにかく手を横に振り、

 「不行(ダメだ)」

 という。え? 中国に戻るんだよ、いいでしょう?
 と言っても、やはりだめ。予想もしなかった展開に愕然としながら粘ったものの、まったく交渉の余地がなさそうである。・・・どうも出国のためにも書類がいるらしいのだ。

 何をどうしていいものやらまったくわからない。しかし意気消沈しながら、また橋を離れ、出入国審査場へと戻らざるを得なかった。この面倒な状況で、言葉もあまり通じないのにちゃんとそんな書類がもらえるのだろうか。

 そうだ、頼めるのは、あのおじさんしかいない! おじさんが入国してしまう前に捕まえて助けてもらわないと!
 そう思ってふたりで走って再びあの建物のなかへと駆け込んでいった。

 なかに戻ると、幸い、彼とその同行者の朝鮮族の中国人と思われる人物が書類を出したり、荷物を検査していたりしていた。ただ、おじさんはすでに奥で荷物検査をしていたので、まだ近くに残っていた人の良さそうなその同行者に助けを求めた。彼が中国語と朝鮮語の両方を話すのが救いだった。

 「どうも中国に戻るのに書類が必要らしいんです。でも、ぼくらが朝鮮語が話せないので、通訳してもらっていいですか?」

 中国語を駆使してそうお願いすると、快諾してくれた。とりあえず必要な書類をもらってくれたので、ペンを借りて必要事項を記入。すると、荷物検査をしていた先のおじさんが、ぼくらを見てびっくりしてこっちにやってきた。心配そうに、

 「どうしたの? 橋、渡れなかったの?」
 「そうなんですよ。書類が必要だとかで・・・」

 書類を記入し終わり、窓口にそれを出す。審査官がかなり感じが悪く、しかも書類を出してもまったく反応がない。状況も状況なため、ぼくがびくびくしていると、おじさんが横から一言。「文章を書いてるとか、ライターだとかはいいなさんなよ」。

 そうこうしているうちに、なんとかハンコを押してもらえた。

 「これから2階に上がって、もうひとつハンコをもらわないといけないので、この階段を上がって」

 と言われ、ここで、ついにおじさんらともお別れとなる。

 「気をつけて帰ってね」
 「ほんとにお世話になりました。お仕事がんばってください」

 などといった会話を終え、ぼくらは2階へ。おじさんとはたった2時間話しただけだったのに、この状況のせいで妙に親近感を覚え、彼が奥に入っていくのを見送った。
 2階。出国審査をしている人物が仕事をしている個室に直接おもむき、ハンコをくれ、という。その人物は明らかにぼくらのこれまでの状況を何も知らなそうだし、ぼくらもイレギュラーな場所から話しかけているため、これはまたわかってもらうのに一苦労かな・・・と思いつつも、とりあえず中国語で

 「1階の人が状況知ってるから、電話して聞いてみてくれ」

 といってみると、通じたようだった。そして彼が1階に電話をかけるのを見てほっとした。彼は電話を切るとすぐに、もうひとつハンコをくれたので、さらに安堵感が拡がった。そして、もう一目散にそこを離れようとすると、また別の横柄な感じの係官が寄ってきて、ぼくらの紙を見て、ここにサインがいるからちょっと待ってろ、といって奥に消えていった。

 そのままその係官は、奥に消えたきり帰ってこない。

 「もしかしてここで1時間待たされるってこともあるのかな」

 モトコもぼくも、一つひとつの展開に緊張した。待ちながら、何か失敗はしてないだろうかと考えていると、携帯がポケットに入ったままであることに気がついた。もし荷物検査されたらまずいんじゃないだろうか。そう思い、ほとんど意味がないものの、すかさずバックパックの横ポケットに入れ替えた。

 そんなことをしていると、さっきのサインの人物が奥をうろうろしている。もう早くしてくれ、という気持ちが高まり、思わず

 「早くしてくれませんか? まだですか?」

 と声をかける。すると、ぼくらの隣で、同じく係官が来るのを待っていた中国人の夫婦らしきふたり(彼らは北朝鮮から中国に戻ってきたところ)が、ぼくをこうたしなめた。

 「あまり余計なことを言わないほうがいい」

 中国人である彼らも、出国できるか緊張しつつ待っているようだった。
 サインをもらえたのはそれから数分後のこと。係官が来て、ぼくらの紙をみると、サインをしながら何か聞いてきたものの、よくわからないのでとにかく、「北朝鮮には入国していない、いまから中国に戻るだけ」と言って、さっさとその場所に別れを告げ、急いで階段を下りて建物を出た。

 「やった・・・。もう早く出よう!」

 誰かに呼び止められたりしないかとまだビビっていたが、今度こそ、本当に出国できるんだと確信できた。
 相変わらずの晴れ空の下で身体がぐっと軽くなった。逃げるように橋に向かうと、建物の前に止まっていたバスのなかの人に呼び止められる。

 「橋はバスで渡るんだ。歩いちゃ渡れないよ」

 その言葉で、やはり自分たちが橋を歩いて渡ってきたのも何かがおかしかったらしいことがわかった。
 そうか、とそのオンボロバスに乗りこんだ。橋で恐る恐る書類を渡すと先の番人が確認する。問題はなかった。

 そしていよいよバスは中国に向かって、バババババッと重く大きな音を立てながらゆっくりと橋を渡り始めた。たった数百メートルの橋の向こう側があまりにも遠く感じられたが、このときやっとその向こう側に戻れることが確実となった。

 中国側の大地に下りると、故郷に戻ってきたような気分になった。再び中国の入国審査を済ませると、外には、待たせっぱなしにしていたタクシーの運転手が予想外の笑顔で迎えてくれた。きっと怒ってるだろうな、と思っていたのに、そんな様子はほとんど見せず、どうだった? と言いながら彼はエンジンをかける。「五菱」車がブルンブルンと音を立てて、再び西に向かって走り出す。このときほど、中国に対して急激な親近感が湧き上がってきたことはなかったかもしれない。
 国境というものがなんなのか、このときやっと少しわかった気がした。

 そして、この一件から10カ月ほどがたった2007年8月――。ぼくらはいくつもの国境を越えて、中国からヨーロッパまで行くべく、新たな旅を始めたのだ。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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