遊牧夫婦

第69回 ユーラシア大陸へ向けて

2012.03.05更新

 上海での日々が1年半ほどになろうとしていた2007年7月、ぼくらはこの定住生活に終わりを告げた。
 上海を出ようと思った理由はいくつかある。単純にマンネリ化してきた生活に飽きてきたというのはふたりともにあった。
 そしてモトコにとって、もう出たいという思いが決定的になったのは、会社の同僚が信じられない、という気持ちが強くなってしまったからだった。あるとき彼女がふと同僚に話した営業の情報が、ライバル会社に漏れていることがわかった。いろいろ考えた結果、どうもその同僚が情報を流して見返りを得ているらしいことに気がついた。同じく中国人である上司にやんわりと相談するとこう言われた。

 「そういうものだから、気をつけなさい」

 もちろん、そんな同僚ばかりではないし、またそういう文化のなかでは、話してしまったモトコが悪いとも言える。ただ彼女は、そんななかではもう仕事はできないと思ってしまった。
 この件に関して、ぼくが、知り合いの会社経営者の中国人に話してみると、彼はこう言った。

 「そりゃ、当然だよ」

 同僚の情報を売る人間なんてどこにでもいるさ、と。のみならず、社員が会社のお金をちょろまかすなんてことも、経営者としては最初から計算に入れなければならないのだと彼は言う。

 「社員に買い物をまかせたら多めに請求されるのは当たり前なんだ。もちろんその額が異常に大きかったら問題だけど、1割増しぐらいで言われるのは仕方ないよ」

 中国では領収書すらも偽物が出回っていて、そこに書かれている金額も信用できない。大きな駅などでよく、「発票! 発票! (ファーピャオ!)」と叫びながら領収書を売っている人を見かけ、最初、あれはなんだろうと思っていた。それはどうも偽の領収書を売っている人のようなのである。

 ぼくは、日本人はそういう感覚にはなかなか馴染めないということを言うと、その会社経営者は何を言ってるんだ、という顔で笑いながら言った。

 「日本人の方がよっぽどひどいじゃないか。上海に来ている日本人は、みんな平気で悪いことしてるからね・・・。いろんな例を知ってるよ」

 具体的にどういうことを指していたのかは思い出せないものの、彼は確信を持ってそう言っていた。向こうから言わせればあるいはそういうこともあるのかもしれない。文化とはやはり相対的なものなのだ。

 いずれにしても、ここで重要なのはモトコが中国を出たいと思ったことだ。しかし残念なのは、中国で中国人とともに働く日本人のうち、少なからぬ人が、中国に対していい思いを持たなくなってしまうことである。ぼくの場合は、取材をするという形で多くの中国人と接してはいたものの、一緒に働くという経験はしていなかった。自分がもし一緒に働いていたらどういう思いを持っていただろうか。それはわからない。でも、とりあえずぼくの中国のイメージは、上海に住んだことによって決して悪くはならなかった。

 それでも、ぼくもそろそろ出てもいいころだと思っていた。もともとは1年と考えていたのがすでに1年半。昆明時代も入れると、中国滞在は2年半にもなっていた。移動したいという気持ちがそのころには十分ボルテージを高めていたのだ。

第69回遊牧夫婦

上海

 出よう。動こう――。
 そう決めてから、そのルートがユーラシア横断へと固まっていくのに、そう時間はかからなかった。
 最初モトコは、「私はキューバに行きたい」と言った。太平洋の島々を渡りながら東に行くのはどうやろう。イルカやクジラをみながら島を渡り、東へ進む。そして、キューバにしばらく住めたら・・・。
 ぼくもキューバには興味はあった。次に住む場所としても面白そうにはちがいない。中国という社会主義の世界に住んでみて、また別の社会主義国というものも見てみたいという気持ちも起きていた。それに、ラテンの陽気さ、海、太陽。チェ・ゲバラに、ブエナビスタ・ソシアル・クラブ・・・。そんなイメージへの単純な憧れもあった。実際に住めるかどうかはわからないけれど、とりあえず行ってしまえばどこでもなんとか方法はあるはずだ、そう思えるようになっていたことも大きかった。

 しかしぼくがどうにも気になったのは、ルートの問題だ。上海から東に行くとすれば、太平洋の島々を経由したとしてもその行程の多くが飛行機で飛ぶことにならざるを得なそうだからだ。もちろん船という選択肢もあるだろう。しかしこれまでの経験上、船は案外値が張る上に、その単調さと自由度の低さから考えると、自分にとっては陸路での移動に比べて魅力はぐっと小さかった。やはり移動するのであれば、陸続きのところを動きたい。東南アジアを北上したときのように、ひとつひとつ国境を越え、少しずつ人の顔、土地、気候、食べ物や文化が変わっていく移動がしたかった。中国からそのような道を考えたとき、考えられるのは西に行くしかないのである。

 こういうとき、大抵モトコの案の方に軍配が上がるのは、ぼくら夫婦のパターンであったが、このときはなぜだったか比較的すんなりとユーラシア横断へと話がまとまっていった。押しと引きを巧みに使うぼくの作戦勝ちだったのかもしれないが、いや、モトコにもユーラシア横断をしてみたいという気持ちも強かったのだ。

 ざっくりとしたルートとしては、いくつかある。
 シベリア鉄道で一気にロシアからヨーロッパというのはなしとして、王道なのは、インド→パキスタン→イラン→トルコという南方のルートだろう。『深夜特急』でよく知られる最もメジャーなコースといえる。

 そしてもうひとつは、中央アジアを抜けるルート。中国→中央アジア→イランという流れだ。中央アジアには、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンといった国があるのだが、自分にはそれらの国の位置関係もわからなければ、どんな国なのかも想像がつかなかった。

 「中央アジア、通れるのかな・・・。でも、通れたら面白そうだなあ」

 それら旧ソ連の国々のビザ事情もわからないし、行った人の話もあまり聞いたことがない。ぼくらは状況をまるで知らなかった。しかしだからこそ、惹かれるものがあった。
 再び訪れたいと思っていたインドやまだ見ぬパキスタンを通る南方のルートにも興味はあったけれど、未知の度合いでいえば中央アジアのほうが圧倒的だった。ちょっと調べて中央アジアが普通に抜けられることがわかると、ぼくらのざっくりとした旅の行程は決まった。
 中央アジアを抜けて、ユーラシアを横断して、ヨーロッパへ行く。そしてヨーロッパで住める国を探すのだ――と。

 2007年7月。住み慣れた上海の街をいよいよ発つ。
 友だちと別れ、近所の麺屋や花屋と別れ、部屋を整理して、増えすぎた荷物を日本へ送る。自分たちが抱え込んだモノの量を確認して、ここに確かにぼくらの生活があったことを改めて実感する。もともといくつかのバックパックのなかに入るだけの荷物しかなかったのに、定住するとこんなにも増えるのだ。これらから取捨選択しながら、必要なものだけをバックパックのなかに収めていく。移動の旅をすることは、結局は自分に本当に必要なものが何なのかを知ることなのかもしれない気がした。

 ついに中国を離れるんだ。ぼくには若干の未練があった気もする。モトコにはまったく未練はなさそうだったように思う。そして、新たな大きな移動を始める前に、ぼくらは一度日本に戻った。

 日本に帰ると、懸案事項はいくつもあった。モトコの叔父が末期のがんであることが2月にわかり、かなり厳しい状態であったこと。まだ50代でモトコの実家の近所に住む叔父はモトコにとっても身近な存在で、彼女の家族は揺れていた。2月に膵臓がんが見つかったときには、すでに肺、肝臓にも転移していて、それ以来いつ何があるともわからない状況なのだった。モトコは、叔父のがんがわかってからすでに何度か帰国していた。しかし今回、ユーラシア横断に出るとすれば、現実的に考えて、おそらくこれが最後に会う機会になるという意識は強くあった。

 一方、ぼくが東京の実家に帰ると、母親の体調が悪かった。いろんな状況ががんを示唆する雰囲気だった。急激な体重の減少が何よりも気になった。これは本当にがんかもしれないな、とぼくは覚悟を決めるべく自分に言い聞かせた。またぼく自身も、念のためにと、久々に大腸の内視鏡検査を受けると、これまでになかったポリープが複数見つかり、細胞検査ということになる。もしこれが悪性だったりしたら、さすがにそのまま旅に出るわけにもいかないなと、検査結果を緊張しながらぼくは待った。

 結果は良性だった。
 母親ががんであれば、ここで旅をやめるか、少なくとも延期すべきだと考えていた。でもそれがはっきりとわかるにはもう少し時間がかかるという。

 「このまま行ってしまっていいのかな・・・」

 ぼくもモトコも、少なからずそんな気持ちを抱えていた。もしかしたら、ここで旅を終えるべきなのかもしれない、とも思った。もう日本を出て4年もたつのだ。自分たちのしたいことは十分にやった、と思わないといけないのかもしれない。でも、だからといってここで旅をやめたら自分たちは後悔しないか。そうも思った。いろんな人のことを考える大切さを実感しながらも、人は結局、それぞれがそれぞれの人生を思うように生きるしかない。人生は誰にとってもいつまでも続かないからだ。旅するうちにぼくにはそんな気持ちも強くなっていた。

 「なんかあったら戻ってこよう」

 出発後に母親のがんが確定したりすることがあれば、もう旅を終えて本格的に帰国しようと決めた。そうなれば、きっとそれがこの旅の運命であるにちがいない。
 モトコの叔父のことも気になった。しかし自分たちにできることは限られている。いろいろと考えた結果、ぼくらはやはり出発することにした。

 京都のモトコの実家から、関西空港に出発する朝、80代後半のモトコの祖母が、「もう一度あんたたちの顔を見るまでは死ねへんなあ」と、笑いながらも寂しそうにぼくらを見送った。モトコは寂しさを押し殺すように、静かに家族に背中を見せて家を出る。家族もぼくらも、ともにいろんな思いを抱えながら、互いに別れを告げたのだった。

 同じような光景はここ数年の間に何度かあった。でもきっとこれが、最後の日本からの出発になるなとぼくは思った。今度帰ってくるときは、本格的に帰国するときになるはずだ――。

関西空港から、上海へ。そして上海で北京行きのチケットを買って、その足で国内線用の空港へ移動して、その日のうちに北京へ飛んだ。2007年8月6日のことである。
ここからぼくらの、新たな旅が始まった。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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