遊牧夫婦

第70回 国境の無限地獄

2012.03.06更新

 中国からのルートは、次のように考えていた。
 いきなり中央アジアに向かって西に進むのではなく、まず北上してモンゴルへ行き、さらにロシアへ。そしてロシアから再度中国に戻って来てから西に移動を始めようと。

 当初、モンゴルまでは北京から一気に列車で行ってしまおうとも考えていた。しかしチケットを探しに行くと、ウランバートル行きは月曜と火曜しかなく、ちょうどこの日が火曜日だった。もう今日は間に合わないので、乗るとすれば次の月曜まで待たないといけないことがわかる。

 「それだったら、バスで少しずつ北上していくのも悪くないな」

 そう決めて、北京を2泊したのちに出発した。まずは北京の西350キロほどの大同(ダートン)へ。そして大同から一気に国境の町、二連浩特(エレンホト)まで北上する。

 大同でも2泊した後、二連浩特に向かう。バスで10時間ぐらいだと聞く。
 しかしバス乗り場に行って二連浩特行きを見つけると、
 「二連までは7時間だ」という。荷物と人で溢れかえったすし詰めのバスは8時半に出発した。
 バスはぐんぐん北に向かって走っていく。途中延々と緑の草原が続き、最後の2時間ぐらいは、本当にまったく何もない土地がどこまでも広がっていた。全方向に地平線が見え、窓からは涼しい風が流れ込み、穏やかな心地よい気候が周囲を囲んでいた。喧騒の中国はいよいよ終わり、モンゴルが近づいている。

 しかしその緑の大地の上を、一本の道が貫いている。その上をぼくらは走っている。

 「こんな僻地まで道がきれいに整備されているのはすごいなあ・・・」

 ぼくは自分たちが走っているその道のきれいさに驚いた。周囲は明らかにモンゴルを想像させる風景だったが、中国の力がその大地を真っ二つに切り開いているように、道はどこまで北に続いていた。

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中国・モンゴルの国境までは、見渡す限りの草原が続く

 国境の町、二連浩特(エレンホト)に着いたのは、午後3時半ごろのこと。まっすぐな道路が碁盤の目のように複数通る人工的な雰囲気は、いかにも何もない荒野に人工的に開発された町に見える。幅の広い幹線道路に沿って横長の大きな建物がポツポツと建つ。道路の上をうっすらと覆う細かな砂粒と道端に続く砂地が、砂漠がすぐそばにあることを感じさせた。

 宿を決めたあと町に出てみると、多くの看板には、漢字とともに見慣れない文字が並んでいる。モンゴル文字とキリル文字だ。モンゴル文字はどこかチベット語の文字も想起させるが、それともまったく異なる、初めて見る文字だった。ただ、モンゴルで現在常用されているのは、ロシアと同じキリル文字のようであった。店にはモンゴル人やモンゴル料理も多くなる。まさに国境らしい文化のミックスされた雰囲気に包まれていた。

 しかしこんな果ての地に住む人がいるのだろうか。そんな想像とは逆に、町は少なくない人で賑わっていた。晴れて乾燥した空気のなか、大きな通りには複数のカラフルなパラソルが立てられた露店が並ぶ。ウリや柑橘類と見えるいろんな果物が大量に置かれる横を、Tシャツ姿の人々がゆっくりと品定めしながら歩いていく。週末ということもあったのか、リゾート地のマーケットのようにも見えた。

 決して暮らすのに楽そうな場所ではないものの、活気がある。マンションのような建物も複数建設中のようであり、小さな新興住宅地といった様相さえ覗かせている。

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国境の中国側の町、二連浩特(エレンホト)

 モンゴルのネット事情がまったく不明だったため、国境を越えたらネットはしばらくお預けになるかもしれない。と思い、ネットカフェを見つけたとき、ついでに日本の家族とスカイプで話そうと試みた。

 自分のパソコンをつながせてもらって、日本で買っておいた小型カメラを取り付ける。まだ使い慣れていなかったスカイプを立ち上げると、画像は悪いながらも家族の顔が画面に映った。こうして映像を見ながら話すのが初めてだったのに加え、こんな僻地の、砂漠の入口のような場所からリアルタイムで日本と映像で繋がったことにぼくは感動してしまった。

 2003年に日本を出たときは、まだ「ブログ」という言葉すら一般的ではなかった。それから4年がたち、連絡手段が凄まじい勢いで発展し、普及していることを実感した。そしていま、スカイプがつなぐ東京の母親から、うれしいニュースが入ってきた。

 「なんでもなかったみたい。心配かけたわね」

 母親がそう言った。がんかもしれない、いや、おそらくがんなのではないか、と疑っていた甲状腺を検査したところ、そうではないことがわかったのだ。モニターの小さなカメラ映像に映る母親の久々の晴れやかな笑顔を見ながら、本当にぼくはほっとした。

 一方、京都のモトコの実家と話すと、がんを患っていた叔父は相変わらず厳しい状況にあった。モトコの家族は、できる限りあらゆる手段を講じていたが、奇跡は起きてはいなかった。
 でもとりあえず母親の問題だけでも解決したことで気持ちは少し軽くなる。いよいよ明日、モンゴルだ――。

 二連浩特に2泊した翌朝10時過ぎに、ぼくらは国境に着いた。モンゴルへとつながる、空港の滑走路のような広くまっすぐな道には、車やバスがずらりと並んでいる。その先に、横に広いゲートがある。そこで簡単なチェックを受けてから、中国側の出国審査場へと行くことになる。

 「国境越えに一時間ぐらいとして、モンゴルに入ったらすぐに、その先のもうちょっと大きめな街までいってしまおう。そうすればきっとウランバートルまでの車かバスか何かがあるはずだよね」

 ぼくらはそんな想像をしながら、気楽な気持ちでゲートの前で待っていた。まさかこの国境が、蟻地獄のように抜け出すのが難しい場所だとは知ることもなく。


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国境の中国側の出入国審査場

 国境のゲートの向こうには、出国審査の建物が見える。建物まではちょっと距離がありそうなものの、ぼくらは渋滞する車を横目に、

 「歩いて行ったほうが早そうだな」

 と考えた。北朝鮮の要領だ。ぼくもモトコも、それぞれ前後に大小のバックパックを背負った姿で、ゲートを抜けようと歩いていくと、しかしそこでいきなり止められた。

 「ここは歩いては渡れない。車に乗っていないと通れないよ」

 そうか、ここは車でないといけないから、みな車で並んでいたのだ。よく見るとどの車も、人と荷物でギュウギュウ詰めになっている。それでもどれかに載せてもらえないかと、ドンドンと窓を叩き、「乗せてもらえませんか?」と交渉を試みるも、みな「だめだめ、もういっぱいだ」とジェスチャーする。どの車もまったく隙間がない。なんとか大型バスに乗り込めたのは1時間ほども悪戦苦闘したあとのことだった。

 「3人で200元(=3000円)だ」

 国境で出会ったひとりの日本人旅行者と合わせて3人分の額。国境の前後でちょっと乗るだけなのに結構な額を要求されたがもはやそれは仕方がない。
 バスに乗ってゲートを入り、途中で降りて出国審査。出国の手続きは、時間はやたらとかかったものの、特に問題なくスムーズに進む。

 そして再びバスに乗り込む。二国間の境界をなすいわゆる「ノーマンズランド」は、1キロほども続いただろうか。そのわずかな距離の間に、中国はいよいよ背後に消えていった。
 モンゴルの入国審査もすんなりと終わり、さらに5分ほどバスに乗って着いたのが、モンゴル側の国境の町、ザミンウドだった。ここは、中国からモンゴルを抜けてロシアへと続く鉄道の通り道でもある。バスを降りた場所は、この鉄道の駅のすぐ目の前だった。着いたときにはすでに午後2時になっていた。

 国境では、ポーランド人男性とオーストラリア人女性と一緒になる。中国側で出会った日本人をあわせてぼくらは5人になっていた。
 ポーランド人の男は、ゴツイ体はカーキ色の上下に包まれ、しかも頭はスキンヘッド。後ろ姿はダイハードのブルース・ウィルスそのものである。彼とオージーの女性とは一緒に行動しているようだった。

 「おれたちはウランバートルまで列車で行くよ」 

 ブルース・ウィルスは、見た目から想像するよりはソフトな声でそう言って、オージー女性と、そして手配していたらしい通訳の男とともに、チケットを買いに駅のなかへと入っていった。

 一方ぼくらは、ここから列車で一気に国の中央にあるウランバートルまで行ってしまうのは面白くないな、と話していた。できるなら、西に広がるゴビ砂漠などを経由して、車で徐々に北上したい。もうひとりの日本人旅行者もまた同じことを考えているようだった。

 「バスがきっと走ってるはずだよね」

 そう話して、バスターミナルを探し始める。駅前の広場で人を見つけては「バスはどこですか?」と聞いてみる。しかし誰もピンときてない様子だった。

 「もしかしてバスはないのかもな・・・」

 どうもそんな気がしてきてしまう。しかも誤算だったのは、まったくもって中国語も英語も通じないことだ。その上どこを見渡しても、中国語表記もないのである。
 中国とモンゴルの国力の違いを考えると、当然モンゴル側に中国の影響が強く染み出しているに違いないと想像していた。だから、モンゴルに入ったとはいえ、とりあえずは人民元と中国語でなんとかなるだろうと。しかし、違った。国境を越えた瞬間から、中国の姿は完全に消え去ってしまったのだ。

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国境のモンゴル側の町、ザミンウド。駅を少し離れるとすぐに荒涼とした風景に

 バスの存在がまったく確認できないので、その辺の車に乗せてもらうことも考えた。地図を見ると、ここザミンウドを北上して次に出てくる町らしい町は、どうも250キロほど先のサインシャンドになるらしい。その辺まで車で連れてってくれないかとこれまた無茶なお願いをジェスチャー混じりでやってみる。何人かに聞いてみたが「サインシャンドだって? うーん、それなら30万トゥグルグだ」。「マジで? それは高すぎるよ」。

 最初はふっかけているのだろうと思ったが、みな、日本円で2,3万円にもなる額を同じように提示してくるのだ。やはり本当に遠いのだろう。あきらめざるを得なかった。

 国境を越えてからすでに2時間ほどがたっていた。もう列車しかなさそうだった。「仕方ない、列車で行こうか」。そう思い、いまさらながら駅に行く。チケット売り場を探し、閑散とした窓口で「サインシャンドまで」と言ってみる。すると思わぬ言葉が返ってきた。

 「今日のチケットはすべて売り切れたよ。明日の朝7時に来なさい」

 売り切れた? まったく予想してない展開に驚いてしまった。

 「ということは今日は、ここで泊まれっていうこと?」

 ぼくはモトコと顔を見合わせた。そういうことにちがいなかった。
中国側の二連浩特とは打って変わって何もないこの国境の町で、一晩過ごさなければならなくなってしまったのだ。

 まいったな、と思いつつも、仕方なく近くにあるいくつかの安ホテルに当たってみて、ぼくらはさらに驚かされる。どこからも同じ言葉が返ってくるのだ。

 「部屋? 今日はもうないよ」

 なんとどこも満室だというのだ! そして見渡す限り、もう他に尋ねるべき宿は残っていなかった。
疲れきって駅前のカフェに入って、しばらく休んだ。いったいどうなってるんだろう。しかし、暑さのせいもあり、頭を働かす気力がなかった。

 「あの日本人はどうしたんやろう・・・」

 モトコが言う。国境で一緒だった年齢不詳の日本人とはすでに別れ、どうしたのかは知らなかったが、彼もきっと苦戦しているにちがいない、と思った。しかし、こうしてただ座っていても解決するはずがなかった。

 「ちょっともう一度駅を見てくるよ」

 ぼくはそう言って、荷物をカフェに置き、モトコに待っててもらって外に出た。駅前の広場を走り、駅の隅々まで走り回って何かないかと探してみる。陽がだんだんと陰り、駅も少しずつ閑散としてくる。時間はない。
 そうしてさらにしばらく歩いていると、突然光が見えてきた。インフォメーションルームといった感じの部屋があったのだ。入ると英語を話せる大柄の女性がいる。彼女に事情を説明して、今日の宿がないことをぼくは話した。

 「それだったら、ツーリストキャンプが近くにあるけど、そこに泊まる? 電話してあげる。迎えに来てくれるはずよ」

 やっと見つかった。ほっとして思わず顔がほころんだ。
 カフェで荷物を見ていたモトコに、「見つかったよ! 行こう!」と伝え、ほか数人のモンゴル人らとともに、ロシア製の装甲車のようなグレーのバンに乗ってキャンプに向かった。なんとか今夜はしのげそうだった。

 ザミンウドの駅から少し離れるとすぐに舗装路はなくなり、砂が舞う荒涼とした風景になる。そして駅から7キロ草原を走った先の場所に、ゲル(モンゴル式住居)が見え、そこにぼくらは泊まることになったのだ。いかにもツーリスト用のゲルではあったけれど、見渡す限りの草原に夕日が落ちていくのを眺めるのはモンゴルの初日として決して悪くなかった。

 「明日チケットが取れるなら、まあ、これも悪くなかったかもね」

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ツーリストキャンプ

 翌朝――。
 宿に居合わせた英語の上手なブルネという若いモンゴル人が、チケット購入のために一緒に駅まで行ってくれるという。ありがたくついてきてもらうことにして、ぼくらは6時半に宿を出て駅へとチケットを買いに行った。

 駅に着いてみてびっくりした。まだ7時前だというのに、すでに長蛇の列が出来ているのだ。チケットを売る建物のなかから延々と列ができ、それが外にも100メートルほど続いている。朝からこんなに並んでるなら、昨日の夕方にチケットが取れるわけなかったなあ、などと話しながら、列に並んだ。

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早朝の行列

 列は順調に進んでいくが、建物のなかに入るとみなとにかく前へ行きたがるため、列は乱れる。するとこんな音が聞こえてくる。

 「バリバリッ、バリバリッ」

 驚いたことに、警官がスタンガンで威嚇し、「オラオラ、列を乱してんじゃねー!」とでも言うように叫びながら、列をはみ出ようとする連中を注意しているのだ。
 「押すなよ!」「おめえだろ!」
 とでも言い合っているのだろう、口論も絶えずなかは騒然としていた。それを見て、「モンゴル人、ワイルドだな」「将棋倒しになったらマジでやばいな」などと話しながら、野次馬気分で気楽に眺めていた。しかし、その気楽さが消えたのは、ブルネがこんなことをぼくらに伝えたときだった。

 「いま放送で、『○○行きのチケットは売り切れた』って言ってるよ・・・」

 え、もう売り切れが出てるのか――。 
 建物の2階にまでたどり着き、窓口が見えるところまでやってきていたので、まあ、なんとか大丈夫だろうと思っていたが、ブルネは次々に不吉な情報を伝えてくる。×○も、△×も売り切れだって、と。それらの放送を聞いて、並んでいるモンゴル人たちももちろんざわめき、誰もが一歩でも窓口に近づこうとする。この階にはすでに警官もおらず、スタンガンの音も階下から遠く聞こえるのみ。みな、われ先にと窓口を目指す。そうしていつしか列も何もなくなり、完全に中国的な、おれだおれだ状態になったときブルネが言った。

 「いま、ウランバートル行きもすべて終わったって・・・」

 マジで・・・? なんと、窓口の目の前で売り切れてしまったのだ。
 そのときまだ朝9時前。ぼくらはまたしてもこの国境から抜け出す術を失ったようだった。これにはモトコもぼくも、完全に意気消沈してしまった。何しろ、明日もう一度並ぶとしても、また同じ展開になりかねない。まさに蟻地獄のような国境に絡め取られてしまったようだった。

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各チケットの完売が知らされていく最終段階、列はなぜかイモムシ状にも

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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