遊牧夫婦

第75回 車窓から見たロシア

2012.04.17更新

 早朝4時すぎ、まだ外が真っ暗のなか、列車はきしむような音を立てながらスピードを落とし、小さな駅に停車した。
ああ、もう着いたのか・・・。

 それまでぐっすり寝られたとはいえ、さすがにこんな早朝に暖かな列車のなかから外へ追い出されるのは辛い。でも仕方なく、ぼくらは大きなバックパックをそれぞれ背負って列車を降りた。列車から外に出ると、閑散とした広いホームの横には薄っぺらな駅舎があり、そこにキリル文字で大きく駅名が書かれていた。

 「スフバートル」

 モンゴルとロシアの国境のモンゴル側の町だ。モンゴルももうここで終わりとなるのだ。
スフバートルにはかつて、シベリアに抑留されて亡くなった日本人の墓地があった。その墓地の跡地に行くために、この町に一泊した。

 町の中心から1時間ほど歩いた先の丘の斜面に墓地跡はあった。すでに墓地としての役割は終え、荒廃していたが、「日本」というキリル文字が残る記念碑のようなものと、金色に輝く観音像が建っていた。町を見渡せる静かな草原の上にあるその場所で、亡くなっていった日本人たちのことを想像すると、シベリア、ロシアは目の前なのだということが強く実感できた。

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スフバートルの日本人墓地跡にある観音像

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スフバートルからの出発を待つロシア行きの列車。 <窓の内側の表示>赤字:イルクーツク 青字:ウランバートル

 そして翌朝。7時半ごろに駅に戻り、ぼくらは列車に乗り込んだ。そのなかで出国の手続きを終えたあと、予定通り10時45分に列車はロシアへと出発した。

 列車は、進行方向に向かって左側にコンパートメント(部屋)が並んでいる。ひとつのコンパートメントに二段ベッドがふたつあり、4人が寝られるようになっている。
ぼくらのコンパートメントには、ぼくら以外にふたりのモンゴル人がいた。身体がごつく人のよさそうなふたりは、興味ありげにニコニコしながらぼくらを見る。「どこからきた? どこの人だ?」と聞かれ、「ヤポンだ」と答える。

 そして彼らについて聞いてみると、彼らは「私たちはレスラーなんだ」と、身体がごつい理由を明らかにした。
ふたりのうち、20代前半ぐらいに見える若い方は、上半身裸になり、もうひとりの30代後半ぐらいの男は、レスリングのときに使うらしい、頭のてっぺんに角が生えたような帽子をかぶって「ほら、写真を撮ってくれよ」と、おどけた。

 言葉は通じないけれど、同じ空間で寝ることになると、なんとなく笑いあうようになり、親しみが増してくる。ロシアに試合に行くのだろうか。長いソーセージかサラミのような肉を3本、ベッドの横にかけてふたりはどっしりとベッドに座り込んだ。

 一方、そんな新たな出会いが各々繰り広げられているだろう各コンパートメントを出るとすぐ、列車の前から後ろまでつながる通路となる。その通路に立ち、通路沿いの窓より外を眺めながら、モンゴルからロシアへと土地がどうやって変化していくのかを目で追った。

 列車が出てすぐのあたりは、低い灌木や木々が茂り、穏やかだけれどどこか荒涼とした雰囲気を残す風景が広がっている。ときどき、ポツリポツリと家屋がある。そして手前に目をやると、線路から数十メートルほど行ったところに、線路と平行に延々と有刺鉄線が続いている。そこがロシアとモンゴルの境に違いなかった。別に誰が監視しているわけでもなく、ただ動物を来させないようにするためだけにあるような随分と簡素な境界線だった。しかし、その向こうには、ロシアという別の世界が広がっていると思うと、やはり国境線というのは不思議な境界線に思えた。

 ガタガタッ、ガタガタッと、古い車体が大きな音を立てながら走っていく。ぼくは窓の外を眺め続け、ときどきカメラのシャッターを切った。
 川沿いを走ったあと、しばらくは岩壁や丘に沿って走り続け、視界は丘に妨げられた。それがあるところでぱっと開ける。

 現れた風景は、それまでと何も変わらない。水色や白色で明るく塗られた簡素な建物も変わらない。しかしそこに現れた国境警備員のような人間の姿を見ると、見事にみな白人だった。

 「ロシアだ!」

 とぼくは心のなかで叫びたくなった。モンゴルからロシアは、少なくとも国境の前後においては、アジアから急に西洋に変わったように見えた。

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モンゴル側から望むロシア側。柵が国境のはず。

 列車が止まり、パスポートのチェックを受ける。そのために列車のなかに乗り込んできた職員も気難しそうな白人で、どことなく緊張を強いる。少しドキドキしながらも、おお、ロシアっぽいなあ、と思いつつ、その職員と対峙する。そしてみなのチェックが終わると、12時前に列車動きだした。

 何事もなく国境は越えられ、ナウシキという国境の町にしばらく止まってから一気に
北上していく。
 ロシア――。

 ウランバートルにいて、ロシアのビザを取るためにあれこれしていたとき、自分たちは、ああだこうだでロシアには入れないんじゃないか、と思っていたこともあったので、いま実際にロシアという国に足を踏み入れていることが実感できないところもあった。

 またそれは、ロシアを北上していくにあたって見えてくる風景のためでもあったかもしれない。人家が密集して立ち並ぶ村のような場所を通過すると、そこはかなり貧しげな雰囲気がする。木の板を並べただけのような壁にトタンの屋根の家が並ぶ。先に降りたナウシキという町でも、粗末な木の小屋が並んだマーケットで、白人たちがものを売っているのが印象的だった。

 2003年から始まったぼくらのこの旅において、白人中心の国というのは、オーストラリア以来だった。そのためか、こういう粗末な界隈に白人が住んでいるというイメージがつかなかった。あとから考えると、このあたりにはブリヤートというモンゴル系の人たちが住んでいる地域であり、必ずしも白人が住んでいるわけではなかったのかもしれないが、漠然と持っていたロシアのイメージは、車窓からの風景でも少しずつ変わっていった。

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ロシアに入ってからも、質素な村落が車窓から見える。

夜9時、ウランウデという大きな駅に着き列車はしばらく止まった。
 外に出られるのがうれしく、とりあえず目的もなく外に出た。駅舎に入ってみると、売店に売られているピロシキが目についた。

 そこで、ロシア初となるピロシキを買った。初めて食べた本場のピロシキは、じつに味気なく単調な味だった。ピロシキと言えば、ひき肉に野菜に春雨、というイメージがぼくにはあったが、そんなに充実しているはずもないどころか、なかはイモだけだった。
 「やっぱり春雨なんて入ってるはずないよな」
 妙な期待をしていた自分がちょっと可笑しくなり、この大味な感じがむしろロシアらしい気がした。

 モンゴル人レスラーふたりは、この駅で降りたので、コンパートメント内はぼくらふたりだけになった。少しゆったりとした気分になって眠りにつくと、翌朝、朝日が出るか出ないかのうちに列車は大きな駅に入っていった。

 暗い空のなか、陽が地平線から上がってくると、太陽の手前に町の建物がくっきりとそのシルエットを浮かび上がらせる。その上にかかる白い朝靄が、まるで工場から上がる煙のようにも見えた。
 建物の影と白い煙状の朝靄が、大きな都市に着いたことを感じさせる。アナウンスも何もないまま、列車はギギギギギーッといった大きなブレーキ音とともに停車する。長旅を終えた列車が呼吸を整えるかのように各部の音をギコギコ、ギギギー、シューシューと鳴らすのを聞きながら、ぼくらは降りる準備をした。

 自分の部屋のように散らかってしまった荷物をとりあえずバックパックに押し込んで、列車を降りるころには、すでに外は明るくなっていた。降りるとそこは、すっかりの西洋らしい世界だった。
 「中学のときに地理で習って以来、なんとなくこの町の名前は印象的だったんだよな」
 そんなことをモトコに話しながら、緑色の列車を降りた。降りると、ホームを足早に歩き行く大勢の西洋人の姿があった。

ぼくらは、イルクーツクに着いたのだった。

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イルクーツクの朝

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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