遊牧夫婦

第77回 シベリア鉄道、ロシア横断中に見たハバロフスク

2012.06.20更新

 自分にとってこの旅はいったい何なのか、旅中、ときどき考えてしまうことがあった。自分は本当に旅がしたくてしているのか。それとも物書きとして自立するために必要な期間として旅しているだけなのか――。

 中国を出て、ユーラシア横断を始めたころ、すなわち、日本を出て4年以上が経っていたころ、ぼくはよくそんなことを真剣に考えるようになった。きっとそれは、少しずつ旅の終わりを明確に意識するようになったことと関係があった。

 このころときどき、「ああ、パソコンもカメラもすべて盗まれてしまったらいいのに」と思うようになった。手元からそういう機器がなくなったら、もはや仕事として記事を書いたり写真を撮ったりすることはできなくなる。そうなったらぼくは、わずかな収入源もなくなってしまうだろうし、自分にとってのこの旅の重要な要素を失ってしまうことになる。しかし、その一方、きっともっと純粋に旅に向き合えるようになるのではないか。

 何かを記録したり、表現するためではなく、ただ単にその瞬間を楽しみ、感動するためだけに旅をする。そうすれば感じることもまったく違ったのではないか。まったく違った4年間があったのではないだろうか・・・。

 そうしてときにこの4年間を振り返り始めると同時に、自分の今後がひどく不安になったりもした。自分はもう4年という月日を費やしながらも、何も成してはいないのではないか、と。物書きとして、まだなんら満足する仕事ができていない。旅がまだ続くのであれば、まだまだこれからだ、と言って不安を払拭することができたけれど、旅の終わりが現実のものとして見えてくると、いよいよそんな風には思えなくなる。自分はいまのままで日本に帰って文筆業で生きていけるのだろうか・・・。

 ある意味相反するそんな気持ちの間で、ぼくは揺れていた。それはすなわち、この旅を自分のなかでどう位置づけようかと、知らぬ間に考えるようになっていたことを意味するにちがいなかった。

 広大なロシアをシベリア鉄道で横断しながら、ぼくはそんなことをよく思っていた。それはもしかすると、ぼくらが東に向かっていたことと関係があったのかもしれない。
 モンゴルから国境を越え、イルクーツクを経てぼくらは東向きの列車に乗っていた。もちろんそのまま東に進んで日本に帰る、というつもりではなかったものの、ただそうして距離的に日本が近づくにつれて、少し落ち着かない気持ちが出てきているのも確かだった。

 ベッドに寝転がりながら、何度読み返したかわからない沢木耕太郎の文庫本を、開いたところから適当に読む。20代でこれだけの作品を数々残している彼のすごさに改めて衝撃を受けながらページをめくり、おれももっとやらないと、と自分を奮い立たせようとした。そして読むのに疲れたら、駅で買った「SUDOKU(数独)」の問題集をひたすら解いて時間をつぶす。しかし風景はいつまでも変わらず、シベリアは無限に続くように思われた。

 「おい、ユーラ」

 そんな声がたまにぼくに向かってかけられる。それは、イルクーツクから乗った列車で、2段ベッドのぼくの下にいたローマという中年の男の声だ。タタール人だという彼は、日本人のぼくらに興味を持ってやたらと話しかけてくる。「ユーラ」というのは、彼がぼくにつけた呼び名だ。「ユウキだ」と何度言ってもわかってもらえず、そのうち彼が、「ユーラでいいじゃないか」と、決めたのだ。もちろん「モトコ」も覚えてもらえず、彼女は「モタボ」ということに落ち着いた。いかにもロシア風の名前をつけられてぼくもモトコも可笑しくなり、そのままユーラ、モタボと名乗ることにした。

 ローマの隣には、セルゲイという40代ぐらいの男がいて、さらにはダニエルという20代ぐらいの若い男も加わった。ダニエルが少し英語を話せたため、彼に通訳をしてもらったが、しかし大した話もできず、結局は、「まあ、このビールを飲め飲め、パンも食え」となるのがオチだった。

 ロシア人は、一見とっつきにくくても話すとみな親切な印象を受けた。小さなテーブルの上でみなそれぞれが持っている食べ物を持ち寄って、ナイフでサラミやチーズを切り、まるでピクニックのようにして、みなで分け合うようにして食べるのがなんとも幸せだった。

第77回 華やかなハバロフスク

列車のなかの食事はいつもこんなもの

第77回 華やかなハバロフスク

イルクーツク(Irkutsk)からハバロフスク(Khabarovsk)への道筋。セベロバイカルスク(Severobaikalsk)、ティンダ(Tynda)で列車を降りた。

 そうして、イルクーツクから車内で2泊したのちにセベロバイカルスクに着く。そしてさらにティンダという小さな町を経て、大陸の東の端へと向かうのだ。

 セベロバイカルスクにしてもティンダにしてもかなりの僻地で、双方ともおそらく、シベリア鉄道を通すため無理やり人を住まわせることによってできた町なのだろう。が、それでも、町は開け、いつしか人の故郷となっていく。

第77回 華やかなハバロフスク

セベロバイカルスクから眺めるバイカル湖

 セベロバイカルスクでは、知り合ったウラジミールという英語の先生に授業に招待されて、高校生の前で自分たちの旅と生き方について話をした。夜は、ウラジミールの友だちの50才になる女性の誕生会にぼくらも誘われ、いきなり地元の人たちの極めてローカルな世界に入ることができた。ウォッカを何杯も飲まなければならずきつかったが、みなで陽気に歌って踊る、いかにもロシアの田舎の社交の場という感じが楽しかった。

第77回 華やかなハバロフスク

セベロバイカルスクで参加させてもらった誕生パーティ

 冬は寒いときには、マイナス60度にもなるという。もともとこんなところに人間が住む必然性はなかったはずだ。しかしこんな厳しい環境にも人が暮らし、生活や文化があることに、ぼくはある種の感動を覚えた。マイナス60度で呼吸するとは、歩くとは、いったいどういうことなのか。想像しようとしてみたがとても想像できるものではない。そんな環境のなかでも人間が確実に生き抜いていることがなんだかとても尊いことのように思えるのだった。

 ティンダでは、列車の乗り継ぎ上、1日待たないといけなかったため、ぼくらは駅の「レストルーム」という簡易宿泊施設に泊まることにした。殺風景な部屋のなかに、ただ簡素なベッドが並ぶだけの男女別のドミトリーで、そこで朝が来るのを待ち、再び列車に乗り込んだ。

第77回 華やかなハバロフスク

途中駅で休憩する

 そうしてイルクーツクから足掛け9日間、この2カ所以外のすべての時間を列車のなかで過ごし、シベリアの空気を身体になじませながら、ぼくらはハバロフスクまでやってきた。
 ロシア東部のなかでは、都市と呼べる規模であるハバロフスクは、とってもきれいな街だった。整備された町並みには、こぎれいな西洋建築が並び、通り沿いには西洋の庭園風な整った芝生が配置されていた。そしてそれが、晴れ上がった青空に美しく映えていた。

 ロシアのイメージは、ハバロフスクにきて一気に華やかなものになった。
 環境の極めて厳しいシベリアを抜けて、やっと人間が自然に暮らす場所に戻ってきたという感覚だったのかもしれない。草木が、花が、空がとても美しく見える。そして町を歩いているのは飛び切りの美人ばかりのようにも見えた。

第77回 華やかなハバロフスク

ハバロフスクの街並み

 さらにうれしかったのは、会う人がみな驚くほど親切だったことだ。
 町に着いて、とりあえずめぼしい安ホテルに行くと、部屋がいっぱいだと言われがっかりしたが、そこから他のホテルに電話しようとすると、ホテルのレセプションの女性が電話をかわりにかけてくれた。また、バスに乗ると乗客がみな、どこで降りるべきかを教えてくれるし、ネットカフェの場所がわからないで困っていると、たまたま近くにいたビジネスマンがネットカフェまで案内してくれて通訳までしてくれたりしたのだ。

 「ハバロフスクになら住んでもいいかもな」

 ぼくはそんな気持ちにさえなった。
 マーケットに行くと、アジア系のおばちゃんがキムチを売っていて、近づくと彼女は日本語で話しかけてきた。聞くとサハリンで育ち、60年代にハバロフスクへ移ってきたのだという。

 「前は日本人も複数いたけれど、10年ぐらい前にはみな亡くなってしまったわ」

 シベリア抑留の日本人がここにも暮らしていたのだろう。まさにロシアの極東まで来て、アジアが近づいてきたことを実感できた。

 ロシアにもうしばらくいたい。そんな気になった。
 しかしビザの日程的にも余裕がなく、また物価的にも安くなかったため、ぼくらはここから出国せざるを得なかった。

 出国する先は、中国だ。ハバロフスクの町に沿って流れるアムール川は、ロシアと中国との国境をなしているのだ。
 ぼくらはここから再び中国に戻ろうとしていた。言葉も通じ、勝手のわかった中国に戻ることはやはりほっとすることだった。しかしモトコは、中国の様子を思い出して、若干気が重そうにこういった。

「またあのトイレの世界かあ・・・。いややなあ」

第77回 華やかなハバロフスク

列車のなかからはこのようなタイガの風景がずっと見える

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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