遊牧夫婦

第78回 日本からの連絡

2012.07.19更新

 ロシアの極東部と中国は、アムール川がその国境となっている。国境として西から東に向かって流れる巨大なアムール川は、ハバロフスクあたりで、南から流れてくるウスリー川と合流し、北東に進路を向ける。そしてそのまま日本の北側に広がるオホーツク海に流れだす。

 ぼくは大学院のときに海氷に関する研究をしていて、オホーツク海は研究対象として少なからず関係があった。オホーツク海は海氷南限の海であるが、それはアムール川が流入するためだ。アムール川から大量の淡水が流れ込むことにより、オホーツク海の表面に塩分濃度のとても薄い層ができ、海は二層構造になる。すると水の対流が上の低塩分層に限られるようになり、凍りやすくなるのだ。

 まだ20代前半だった当時、研究室でそんな話を聞き続け、地図上でよく見ていたアムール川が、いま、ハバロフスクにいるぼくらの目の前にある。地図では一本の線に過ぎなかったこの川は、実際には対岸がうっすらとしか見えないほど幅の広い川だった。

 この水が流れ着く先にオホーツク海があり、日本がある。川はいつもそういう思いを起こさせる。メコン川をチベットと東南アジアの両方で見たときも同じように感じた。水はとどまることなく、国境も知らずに、どこまでも低い方へと旅していくのだ。

 一方、このときぼくらは、そのアムール川の流れに逆らって、西へ向かおうとしていた。ハバロフスクから少しだけ西へ、オホーツク海と日本に背を向けながら川を上る。そして対岸へ渡り、再び中国に上陸する。中国の北東端から入国し、いよいよユーラシア大陸を西に向かって横断し始めるのだ。

第78回 遊牧夫婦

ハバロフスク(Khabarovsk)から国境を越えて、ジャムス(Jiamusi)、ハルビン(Harbin)と中国を西へ。蘭州、臨夏(地図中に表示なし)、夏河、同仁をへて西寧へ。



 30~40人ほどが乗った船でアムール川を上る。船内からすでに中国語が通じ、すっかりホームに戻った気分になる。そして、国境の町、撫遠(フーユエン)に上陸し、ロシア語と中国語が入り混じる町並みを少し見て回ってから、その日のうちにバスに乗って、近郊の中都市ジャムス(佳木斯)へ。バスの途中で降りたトイレのすさまじさ、人々が痰を吐く音、音、音・・・。すげえな、中国、と久々のこの国のワイルドさを確認した。

第78回 遊牧夫婦

アムール川を上る船を降りて、中国側の入国審査場へ入るところ。

 ジャムスからハルビン、ハルビンから大連、大連から承徳へ。どこに行っても、着いてしまうとなんだかよくわからない無力感に襲われ、一カ所に数日ほどしか泊まらずにどんどん南西へ移動していった。

 承徳での最初の夜は、夜中腹痛で何度も起きてトイレに行った。しかも朝5時半ごろからは、なんと、誰かが痰を吐く音があまりにもうるさくて寝られないという、過去に経験したことのない騒音に悩まされる。不快だ。じつに不快な夜だった。

 「中国ってこんなにすごかったっけ?」

 と思わず記憶をたどりたくなった。中国を離れモンゴルとロシアにいたのは40日程度でしかないけれど、こうも違和感を覚えるものなのかと自分でもびっくりした。
 昆明、上海に住んでいたころは、あまりに慣れすぎて気づきもしなかったことが、いまどうも少し客観的に見えてしまっているのかもしれない。

 しかしそんなことを言っていても仕方がない。とりあえず西へ、西へと進んでいこう。
 承徳からバスで石家庄へ。そして石家庄でもやはりすぐに駅へ行って次の行き先を探していた。

 「どこまで行こうか・・・」

 買ったチケットは翌日の夜の、北京からラサへ向かう列車のものだった。
 ・・・3段ベッドの最上段に横になり、いろんなことを考える。これからのこと、仕事のこと。シベリア鉄道でも同じことを考えていたけれど、やはりもう遠くない帰国後の日々がちらついてくる。どんどん西に移動してしまいたいと思ったのは、あるいは、アムール川の先の東の果てに見えてきた日本から距離的にもっと離れたい、ということがあったのかもしれない。

 15時間ほど列車に乗って、降りたのは蘭州(ランジョウ)だ。
 このあたりは地図で見ると、ちょうど中国の中心あたりに見える。すでにかなり内陸だ。回族(フイ族)、すなわち回教徒、イスラム教を信じる人たちが多く住む地域になる。しかし大都市である蘭州はそれほど代わり映えがしないだろうと、列車を降りてすぐにさらに150キロほど離れた臨夏(リンシャ)という小さな町へと移動した。

 バスに乗って臨夏へ向かっていると、通りの途中からすでに別の世界になったかのように、小さな白い帽子をかぶったイスラム教の人々であふれていた。このあたりは、シルクロードの重要な中継点だったらしく、そのために随分とイスラムの影響を強く受けているのだろう。途中の村には、イスラム教のモスクと中国らしい寺院がミックスされたような建物がいくつも続く。バスのなかも半分ぐらい回族の人で、トルコ系の影響も受けているのか西洋的な顔つきの人が増えてくる。その上、チベットの文化も混じっているので、赤い袈裟をつけたチベタンの僧侶なんかもちらほらいて、不思議な雰囲気だった。

第78回 遊牧夫婦

臨夏。白い帽子をかぶった人たちが回族。回族はイスラム教徒というだけで、顔つきは漢族と変わらない人が多い。

 「ここも同じ中国なんだよなあ・・・」

 列車に乗る前までいた漢族中心の世界とはまったくの異なる風景にこの国の巨大さを思い知らされる。

 臨夏からは、100キロほど離れた夏河(シャーハア)へ。ここは完全にチベット人たちの世界だった。この町にはラプラン寺というチベット仏教の重要な寺院があり、各地からチベット人が巡礼に訪れるのだ。ラプラン寺は町のかなりの部分を占める巨大な寺で、寺の回りには僧侶たちが暮らす住居がびっしりと広がっている。少し高台から見てみると、町全体が大きな要塞のようにも見える。

第78回 遊牧夫婦

夏河。目の前に広がっている矩形上のものが、僧侶たちの家。右奥のごちゃごちゃしているあたりが、ラプラン寺。

 寺の周囲には、マニ車と呼ばれる、回すとお経を唱えたことになるという大きなコマのようなものが、寺全体を取り囲むように並んでいる。チベット人たちは、マニ車を回しながらひたすら寺の周囲を回り続けているのだった。

 寺の周囲の建物に住んでいる少年僧の部屋を訪ねてみると、意外に大きな部屋に冷蔵庫、ソファ、オーディオ機器もそろっていて、案外優雅にやってそうだったのが新鮮だった。またネットカフェに行けば、少年の僧侶たちが大挙してネットゲームに興じていたのも印象に残った。

 チベット世界はいつ見てもどこか別世界な空気を感じる。実際は、上のネットカフェの風景に表れているように、決して別世界でもなんでもないはずなのに・・・。

第78回 遊牧夫婦

部屋を見せてくれた少年僧。

 夏河からは、バスで同仁(トンレン)を経由して西寧(シーニン)へ。

 バスは途中、標高3000mを超えるほどにまで上がり、周囲は一気に雪景色となった。高地に延々と広がる平原にはポツポツとテントが見え、そのそばでは羊の群れが、寒さなどまったく気にすることなく悠々と草を食んでいた。

 チベットの風景はやはりすごい。厳しい自然のなかで、人が宗教を信じつつなんとか生き方を見い出して生きているという印象を受ける。その力強さと壮大な風景に圧倒されるように思うのだ。
 臨夏と夏河を経ることで、旅へのモチベーションはだいぶ上がった。そんなころに、西寧に着いたのだ。西寧は青海省の省都。ひときわ大きい大都市だ。


 ロシアから中国に戻ってから2週間少々で、一気にここまで来てしまった。ちゃんと見るならばおそらく何カ月でも時間を費やせそうな地域だ。しかしぼくらは、臨夏や夏河あたりを別にすれば、ただただ西へ移動しているだけであった。

 西寧にいたそんなとき、モトコの実家から連絡があった。メールを見たモトコがボソリといった。

 「おっちゃん、死なはったって」

 そのまま、ネットをしていたラウンジのような場所から、モトコはひとり、部屋に戻っていった。半年ほど前にがんが見つかり、闘病していたモトコの叔父が亡くなったのだ。

 いつ亡くなってもおかしくないという状況ではあったものの、やはり身近な存在だったまだ50代の叔父が亡くなったことは、モトコにとって大きなショックであるに違いなかった。

 その報を聞いて、ぼくがふと心配になったのはモトコの祖母のことだった。90歳近い祖母は、特にどこも悪くなく元気にしていたが、息子の死によって一気に弱ってしまうことは容易に想像できた。モトコにとっても、ずっと一緒に暮らしてきた祖母のことが心配であることは明らかだったし、自分も、幼いころから祖母と暮らしてきた身としては、モトコがこれを機に「もう旅をやめて帰りたい」と言い出すことも想像できた。

 モトコがそう言ったら、もう帰ろうとぼくは思っていた。このときぼくらは、決して旅に入り込めているという雰囲気ではなかったし、ここで旅を終えることにきっと悔いはないはずだと思った。
 もしかしたら、この西寧が、旅の最後の町となるかもしれない。

 ぼくはそんなことを思いながら、パソコンの画面に映るモトコの父からのメールを眺めていた。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

バックナンバー