遊牧夫婦

第79回 西寧の回徒

2012.09.05更新

 2007年10月。中国西部の青海省・西寧(xining, シーニン)にぼくらはいた。
まだ10月だったが、標高2200メートルを超える西寧はすでにかなりの寒さだった。泊まっていたゲストハウスは快適だったが、暖房がつけられないのがなかなか厳しい。中国の暖房は、特に大きな建物などでは政府がコントロールする「セントラルヒーティング」になっていることが多く、寒いからといって勝手につけることができないからだ。その全館暖房の利用開始日が10月15日で、それまでにはまだ4、5日あった。

 だから広々としてこぎれいなゲストハウスのラウンジでノートパソコンをつないでネットをするときも、外にいるのと同じようにダウンやコートを着込んだりしないといけなかった。
 そんな状態で、ぼくはモトコの父親から着たメールを、パソコンの画面上で見ていた。
 おっちゃんが亡くなった。モトコにとってとても身近で、まだ50代だった叔父が、がんで亡くなったという知らせだった。その報を知り、モトコはひとりだまって部屋に戻った。そしてぼくは、メールを読み返しながら今後のことを考えていた。

 もう旅をやめて帰った方がいいのかもしれない。モトコが考えていることを想像したとき、ぼくは本気でそう思った。

 彼女にとって心配だったのは、京都の実家で、幼い頃からずっと一緒に住んできた祖母のことだった。90歳近い祖母は、実の息子を亡くして、さぞかし落ち込んでいるにちがいない。どこが悪いというわけではないものの、これをきっかけに一気に弱ってしまうのではないか・・・。
 この4年の間、何度か日本に一時帰国したとき、いつも祖母は、「いつ帰ってくるんえ・・・」と寂しそうな顔でぼくらに聞いた。ぼくもモトコも、なんとも言えずにただ苦笑いするしかなかったけれど、モトコはよく、「おばあちゃんが元気なうちに帰らないとなあ」と言っていた。いよいよそのときが来たのかもしれなかった。

 ただ、ひとつ救いだったのは、叔父が亡くなる3日前に、モトコの妹に、娘が生まれていたことだ。モトコの両親にとっては初孫で、祖母にとっては初のひ孫。まるで叔父と入れ替わるようにこの世に生を受けた姪っ子は、モトコの家族を否応なしに賑やかに忙しくした。祖母も、きっとその喜びと世話の忙しさで、叔父を失った悲しみを少しはまぎらわせ、もっともつらいだろう時期をなんとか耐え忍んでくれるのではないか。そうも思った。いや、それでも今後、何が起こるかわからない。叔父の死は家族に少なからぬ影響を与えるにちがいない。そんな大事なときに、自分たちだけこんな旅をしていていいのだろうか。いまのうちに、帰るべきなのではないか・・・。

 そんな風に思っているだろうモトコの気持ちを想像し、またぼく自身も、幼いころから祖母と一緒に暮らしてきたこともあり、同じようにそう感じながら、モトコの父にメールを書いた。おばあちゃんのことを心配してます、自分たちはいつでも旅を終えて帰る準備はできているので、その方がよければどうかお知らせください、と。
 すると翌日、義父から返事が届いた。そこにはこんなようなことが書いてあった。

 「こちらは心配しないでいい。おばあちゃんも元気にしてる。だから旅を続けなさい」

 淡々とした文面だった。
 でもそれを見てモトコは、気持ちが決まったようだった。

 「うん、そうやな。たぶん、大丈夫やと思うし、このまま旅を続けようか」

 本心はどう思っていたのかわからないものの、少なくともいますぐ帰ろうと考えているわけではなさそうだった。

 「そうか。じゃあ、そうしよう」

 モトコがそういうのであれば、ぼくももちろん、旅を続けようと気持ちを固めた。
 揺れ動くモトコの気持ちを考えても、自分たちの気力、体力的にも、この旅がもういつまでも続くわけではないのは、わかっていた。4年を過ぎ、旅は完全に終盤に差し掛かっている。でも、ユーラシア横断だけはなんとか果たして旅を終えたかった。


 西寧は、じつに多くの文化が混じり合っている町だ。チベット人、回族(=イスラム教徒)、漢族・・・。チベット人は、首飾りやシルバーの装飾に、赤や青やピンクの派手な色の服を着る。その外に、ヤクの毛の、大きく温かそうなコートに片方の腕だけを通して、もう一方の腕は、コートから出して羽織るようにしている。そして色黒で屈強そうなワイルドな風貌の彼らが狭いマーケットを闊歩すると、そこは一気にチベット色に染まる。

 その一方、回族は、グレーやベージュが基調の地味な服装で、頭に小さな帽子を載っけるようにかぶっている。顔は漢族と変わらない東アジア的なつくりで、チベット人とはかなり違う。中国西部に入り、チベットとイスラムの世界がここで一気に融合したような光景だった。中国にはなんと多くの姿があるのかと改めて思わされる。

 叔父が亡くなってから3日となる10月12日、ラマダン明けの日がやってきた。その日もぼくらは西寧にいた。ラマダン明けには、西寧の東関清真大寺という青海省最大規模のモスクに中国全土から多くの回族が集まってくると聞いていたため、その日まで西寧で待っていたのだ。

 当日、モスク前の大通りは一キロほどにわたって通行止めとなり、朝8時ごろにはすでに視界の果てまで白い帽子の回族の男たちで埋め尽くされた。ある年には13万人に及んだといい、その日も10万人は下らないだろうと思われた。男たちは、それぞれ地面に絨毯を敷き、遠くサウジアラビアのメッカの方向に頭をきれいに並べ、通り全体、路地裏、ホテルのロビーなど、ありとあらゆる場所に、空間の限界に挑むように座っていた。

第79回遊牧夫婦

 中国では建前上、信仰の自由は認められているものの、当然のごとく政府の指導・監督に従うという制約がつく。そのことを考えると、イスラム教徒のこれだけの大きな集会が中国で実現していることに驚かずにはいられなかった。同じイスラム教徒でも、独立問題が絡むウイグル人の場合、決してこんなことは認められないはずだ。そう考えると、この風景は回族が中国政府と保ってきた関係について想像させた。

 その10万人が、一斉に祈り、同時に頭を地につけて静まりかえると、一帯の時間が止まり、目の前の一切のものが凍りついたように見えた。
 全員が同時に、座り、立ち、頭を垂れ、耳の後ろに手を当てる。祈りの言葉とともに、一時間ほどそんな動作を繰り返した。

 祈りが終わり、彼らが一斉に立ち上がると、見渡す限りの白い帽子たちがそれぞれ自由に動きだし、モスクからも大量の男たちがなだれ出てきた。そしてある者は談笑に花を咲かせ、また別の者は日中堂々と食べられる安堵感を胸に秘め、小さな食堂へと急いだ。この日は、多くの食堂や料理屋にとって最も大きな稼ぎ時のように見えた。

 その光景を見届けた2日後、一週間ほど滞在した西寧を離れ、さらに西へと移動した。向かうは新疆ウイグル自治区の中心都市ウルムチ。いよいよ中国も西の端が近づき、ウイグル人の世界に入る。そこから南下してタクラマカン砂漠を縦断したあと、一気にチベットへと向かった。

第79回遊牧夫婦

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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