遊牧夫婦

第80回 阿里への過酷な道

2012.10.04更新

 中国西部・新疆ウイグル自治区の中央には、広大なタクラマカン砂漠がある。南北400~500キロ(東京―京都程度)、東西1000キロ(東京-福岡程度)にも及ぶこの砂漠の名「タクラマカン」の由来には諸説あるが、もっともよく知られているのが、「入ったら出られない、生きては戻れない」とする説である。

 青海省・西寧からウイグルの中心都市・ウイグルをへてから、ぼくらはこの砂漠を北から南へと縦断した。舗装された縦断道路が通っているので、何も特別なことではない。バスとヒッチハイクによって、途中2泊しながら、南側へと抜けた。
 
 この砂漠は、先の説を疑いなく信じられるほど、どこまでも果てしなかった。見渡す限りパウダー状の細かい砂が続き、踏んだ感触はふわっとしていて足が吸い込まれる。大きな砂丘は高さ300メートルにもなるという。道路沿いには、防砂のための木が植えてあったが、ここで砂嵐が起きるときの恐ろしさは想像すらできない。

第80回 遊牧夫婦 阿里への過酷な道

タクラマカン砂漠。このような砂漠らしい砂漠は、延々東西に1000キロも続いている。

 そのタクラマカン砂漠の南西の角あたりに零公里(リンゴンリー)という場所がある。ここはほとんどただのT字路の交差点で、通り沿いに食堂、宿、商店がぽつぽつと並んでいるに過ぎないが、ここは新疆とチベットを結ぶ起点である。新蔵公路(新=新疆、蔵=チベット)のスタート地点、つまり「0キロ」であることから「零公里」(公里=キロ)と名づけられた。

 砂漠の南側へと抜けたぼくらは、ここからチベットに行こうと思っていた。チベットは、この砂漠の南東方向にあり、この道が、標高4000メートル以上となるチベットへとつながっているのだ。

 ただ、零公里からチベットまでの旅は極めてハードだと聞いていた。チベットの玄関口となるのはアリ(阿里)という町だが、そこまで零公里からは1100キロ。もちろんすべての道が舗装されているわけではなく、30時間もかかるという。その上、なんといっても、標高1400メートルの零公里から、たった30時間の間に一気に4000メートルを超えるところまで上がるのだ。途中5000メートルを超える箇所もあるというから、高度順応しないで一気に行くのは普通ではあり得ない。まず間違いなく高山病にかかりそうだ。でも、現地の人はこれで行き来してるわけだし、まあ、死にはしないだろう・・・。

第80回 遊牧夫婦 阿里への過酷な道

新疆ウイグル自治区の零公里から、チベット自治区のアリ(阿里)へ向かう。目指すはその先にあるチベット聖地の山カイラス。黄色の部分がタクラマカン砂漠。

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タクラマカン砂漠の南側のニヤという町で突然訪問したウイグル人の大家族。写真を撮らせてほしいというと、みな服装を整え、記念写真に。誰ひとり中国語は話せなかった。

 零公里の前に泊まっていたホータンという町から、4時間ほどの移動のあとに零公里に着いた。その夜のこと。すでに7時すぎだったが、とりあえず情報集めのためにバスターミナルまで行くと、
「今夜8時にチベット行きのバスが出るよ」
という。バスは1日おきだというから、これを逃すと明後日となる。「乗っちゃおうか?」とも話したが、モトコが風邪気味だったため、無理をするのはやめておいた。「体調いいときにいかないと、ほんとにひどいことになりそうやしなあ・・・」。
とりあえず、零公里の宿に泊まって、明後日を待つことにした。

 しかしこんな辺鄙な場所の道端なのに、泊まることになった安宿が案外快適なのには驚いた。
「シーツ、大丈夫そうやな。ちゃんと洗ってあるで」
モトコは、僻地の宿の汚さはすでにあきらめていたが、シーツが洗ってあるかどうかだけはいつも厳しくチェックしていた。零公里で見つけた道端の宿は、その「モトコジャッジ」もクリアして、「ここ、悪くないなあ」と言わしめるぐらいの状態だったのだ。

 ちなみに、タクラマカン砂漠縦断中に泊まった宿ではこんなこともあった。部屋はまずまずで、ちゃんと掃除をすればそれなりのクオリティが保てそうなのに、掃除をしてない。そしてシーツがかなりウェットで、しっかり体臭も残っている。それに顔をしかめたモトコが、
「シーツを替えてください」
と頼むと、スタッフはしぶしぶ交換に応じてくれる。掃除もしてくれと言うと、「好的(ハオダ、わかりました)」と言い、しばらくすると掃除係の女性が現れた。

 しかし彼女がトイレでモップを洗う様子を見てモトコは絶句した。なんと便器の中に直接モップを入れて、流しながらジャボジャボと洗い、それでそのまま床を掃除しているのだ。「ありえへん・・・」と、あわてたモトコが、「その水は汚いから、掃除に使うのはやめて」と言うと、女性は不思議そうにこう言い返す。「この水はきれいよ」。その言葉にモトコはさらに声を失った。翌日トイレが詰まると、その水のなかには大便やらが所狭しと浮き上がってきていた。

 もちろん、砂漠で水が足りないということも考慮しないといけないとは思ったが、それにしてもという状況だった。そんなことも中国の宿ではあり得るのだ。
だからこそ、それなりの覚悟を決めて宿探しに臨んだ僻地で、そこそこきれいな宿に出会ったときの驚きと喜びはまた格別なのだ。

 一方、零公里のこの宿で、ぼくにとって驚きだったことには、なんと部屋に無線ランまで入っていたことだ。こんな場所から、ケーブルにもつながっていないパソコンを通じて、世界と連絡が取れてしまうとは・・・。日本を出た2003年にはまだブログという言葉すら一般的ではなく、コンピューターにかなり精通している友人のメールに「最近、『ブロッグ』っていうものがあってね・・・」と書かれていた時代だったのに、この4年での変化は目覚ましい。(そしていま、2012年の現状を考えると、2007年の状況ももはや石器時代のようにすら見えてくるのがすごい)。

 ぼくはこの前日泊まっていたホータンのネット屋で、締切が近い原稿を、ネットがつながるうちに送ってしまわないと、と慌ててメールで送信したばかりだったので、なおさら驚きだった。

 いずれにしても、その日はゆっくりして、翌日は零公里のそばの叶城(イエチャン)という町に行ったり、高山病対策の薬を探して薬局に行ったりしてすごした。

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零公里のそばの叶城という町のウイグル人の家。

 そしてその宿に2泊した翌朝、いよいよ夕方のバスでチベットへ出発だ、と思っていたとき、宿の主人がぼくらのところにやってきて、こう聞いてきた。

 「1時間後にアリまで行くトヨタがあるんだけど、乗っていくか?」

 じつはバス以外にも、こういう選択肢はあった。「トヨタ」というのは「ランドクルーザー」のことで、その所有者が適当に乗客を集めて金をとってチベットまで行くのだ。この仕事は結構いい稼ぎになるようだった。(もちろん、ランドクルーザーを買うのが大変だけれど。)

 バスの出発は夜だったので、昼ごろに出られるのだったら時間もぐっと節約できる。それにランドクルーザーで行く方が速そうだし快適そうだ。そして何よりも安いのだ。バスだと一人600~700元するところ、ランクルだと400元が相場なのだ。ちょうどいいタイミングで現れたこの機会を逃す手はない。
「うん、乗っていくよ」
すぐにそう返事をして、荷物をまとめてチェックアウトした。そうしてチベットへの長い長い旅が始まった。

 ランクルの旅は、出だしからつまづいた。
「昼12時に出発するから」と言われたが、運転手の親戚や友人を拾ったり、さらにメシを食ったり、その他よくわからないグズグズな時間がいっぱいで、零公里を出たときにはすでに2時だった。さらに1時間ほど行った先の村で3人の親子を乗せるためにまた停車。そして何を思ったか運転手はここで、「車にVCDを入れるからちょっと待ってくれ」と、車内のオーディオ部分をいじりだし、複雑そうな分解を始めたのである。やっとVCDのデッキが入り完成かと思ったら、映った画面は反転しているし、音も出ない。「なんでだ、なんでだ」とみなで相談が始まり、ようやく話がまとまって出発できたのは1時間半後のこと。そのときすでに4時半だった。

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チベットに向かうランクル。いままさに、VCD設置中。

 車内は8人(+赤ちゃん)。なかなかきつい。みなウイグル人なので、会話はまったくわからない。そのうち何人かが片言の中国語を話すため、彼らを通じてぼくらは状況を把握することに努めた。運転手はその後もVCDのことが気になってしょうがないらしく、とてもこれから30時間のハードな運転する男の顔には見えなかった。

 危なっかしい状況のまま、数時間もするとすでに標高はぐっと上がっていた。3000メートルぐらいにはなっていただろうか。周囲も暗くなり、道はどんどん険しくなる。そしてひどく寒い上に頭痛が始まった。「もしかしてもう高山病かな? これがあと25時間とか続くのか・・・。夜はどうするんだろう・・・」。

 急激なカーブが続き、身体を支えながら「この移動、マジでキツイな」と思っていると、後ろに座っていた親子3人のなかの母親が、途中で激しく嘔吐した。しかも、その10分後ぐらいには隣の旦那がもらいゲロ。「グゲグゲーッ」というすごい音に思わず後ろを振り返ると、黒いビニール袋になみなみと液体がたまっている。それだけでは終わらず、その後も、もらいゲロ、連鎖ゲロが後ろで続く。そして先の母親と話していた女性Aが、今度は一緒に吐いた。ふたりともぐったりしたものの、しばらくすると回復し、饒舌なAが母親になにやら熱弁を振るい続けた。聞き上手な母親は、「うんうん」と必死に聞いているが、さすがに耐え切れず3度目の小ゲロ。しかし驚かされたのは、吐いている母親を前にしても話をやめないAの弾丸トークっぷりであった。

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ランクルを降りて、夕食のひととき。ほとんどがウイグル人と思われる。ラグマン(ウイグル風皿うどん)とスープあり麺を食べて15元(230円ほど)

 途中一度晩飯休憩があったものの、出発から10時間ほどがたつと、さすがに車内は、疲労感たっぷりとなった。道は未舗装のデコボコ道、外は一面真っ暗闇。車のヘッドライト以外は星の光と雪の反射だけが頼りという道程なのだ。しかも10時間経ってもまだ半分も来ていない。「ホントにきついな・・・」。モトコと顔を見合わせながら、何度も無意味な嘆きを繰り返した。

 しかし、そんななか、ぼくはそんな苦しさを忘れるほどの光景を目にすることになる。
小便休憩となり、漆黒の闇のなか、ぼくは車を降りた。おそらく気温はマイナス10~20度ぐらいにはなっていたのではないかと思う。頭痛もあり、「やべえ、これじゃ立ちション厳しいな・・・」と厚着の服をほどくのも憂鬱に思いつつ車のライトだけを頼りに外に出た。しかし顔を上げたとき、ぼくは目の前の光景に文字通り息が止まりそうになった。巨大な雪山が、本当にすぐそこに、そびえていたのだ。それは、同じ世界のものとは思えないほどの強烈な存在感だったのに、なぜか手を延ばせば届きそうな身近さが同時にあった。

 「なんだよ、これ・・・。これが山なのか」

 とぼくは声をあげたくなった。自分がどこにいるのかまったくわかってなかったけれど、標高は5000メートルぐらいあったのかもしれない。
 吸い込まれて落ちてしまいそうな真っ暗な空のなかに、満天の星と、山の白雪が、周囲をほのかに照らしていた。山は凄まじい迫力で迫ってくるのに、まったく音がしない。その静寂が、不気味であり美しかった。

 「すげえ・・・」と言葉にならない言葉が自然に出てきたが、声も吸い込まれそうな気がした。この光景を見ただけで、ぼくはここまで来た甲斐があったと思った。
 車が動き出してからもぼくの興奮は冷めやらなかった。これから向かうのはどんな世界なんだろう・・・。

 しかしその一方、車内の状態はますます厳しくなっていた。
 あまりにも疲れ切って、運転が危なっかしい運転手の様子を見かねたのか、ぼくの隣に座っていた、運転手の親戚の男が「おれが交代するから休めよ」とでも言ったのだろう、運転を交代した。ぶっ通しで運転し続けていたドライバーは、もはやだれが見ても危なそうだったので、彼がついに休憩できることになり、ぼくもほっとした。これで少しは安心だ、と。

 が、その矢先のこと。交代して10分ぐらいで、親戚の新ドライバーが運転しながら寝てしまったのだ。うわっ! と身体が大きく横に引っ張られたと思ったら、車の片側のタイヤが浮き、車内は「ひえー!」と悲鳴に包まれた――。

 「横転する!」

 ぼくは覚悟した。今度こそ、本当に息が止まるかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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