遊牧夫婦

第85回 無言のふたり

2013.01.22更新

第85回 無言のふたり

朝、ゴンパで会った巡礼中のチベット人たち。彼らは未明にタルチェンを出て、日が昇るころにはすでに、ぼくらが1日かけて到着したゴンパにたどり着いていた。

 カイラス巡礼2日目の朝――。
 標高5200メートルのゴンパ(=寺)で目覚めたときにはもう、昨日来た道を戻ることを決めていた。1周52キロある巡礼路のまだ半分も来ていないし、標高5600メートルにもなる最高地点「ドルマ・ラ」があるのもこの先だ。ドルマ・ラこそ、巡礼路最大の難所でありクライマックスであるらしいため、ここを越えずに戻ることは残念だった。しかしぼくらは雪が降り始めた時点で、そこまで行くことをあきらめていた。「雪が降ったらドルマ・ラ越えはほとんど不可能だ」。地元のチベット人にはそう言われていたし、最近、インド人の巡礼者がドルマ・ラの辺りで吹雪に遭って亡くなったとも聞いていた。さらに本音を言えば、昨日の経験を思い出すと、あれよりきつい行程などとてもじゃないが行きたくはなかった。

 ぼくもモトコも、幸い、昨日寝るときにひどくなっていた頭痛も寒気も朝にはおさまっていた。しかしいつまた高山病のような症状に襲われるかわからない。体調がいいうちに動き出そう。そう思い、カップラーメンを食べて10時過ぎに出発した。昨日来た道を逆に歩き出した。

 地面に雪は積っていたが、空はすっかり晴れ渡っている。頭上にいつも太陽が見える上、知っている道を戻っているだけだったから、昨日とは全然違う余裕があった。昨日苦しんだ場所の景色を、この日は時々立ち止まりながらゆっくりと眺めることができた。険しい岩山の上に降り積もる雪が、この日は、ケーキの上にまぶされたパウダー状の砂糖のように柔らかく見えた。

第85回 無言のふたり

帰り道はずっと天気がよかった。青と白と茶色の風景の中を歩きつづけた。

 ただそれでも、後半はかなり疲れた。まったく楽ではない。ふたりとも足取りは重くなり、疲労は目に見えて増してきた。

 5時間ほど歩いた。それから1時間ほど登りが続き、登り終えるとついに帰るべき村タルチェンが見えてきた。「あともう少し」。そのことに確信が持てて気が楽になった。そして、「少しだけ休もう」と5分ほど石の上に座って休憩した。だが、そのときふたりの間の空気が一変した。発端は、ぼくが何の拍子にだったか口走ってしまったこんな言葉だった。

 「おれ一人だったらもっと速く進めてたと思う」

 この直前の1時間ほどの登りのとき、モトコに「リュックを持ってくれへん?」と言われ、渋々持つことにしたら、予想以上に疲労した。そのことにぼくはなんとなく納得のいかなさを感じてしまっていた。そんな自分の小ささを存分に発揮した結果の言葉だったのかもしれない。

 だがその言葉に、モトコは猛烈に反応した。疲れきった顔を歪ませてこう言った。

 「はあ? 私の方が歩くの遅かったのってさっきの登りの1時間だけやろ? 疲れてるからって、当たらんときや!」

 確かにモトコの言うとおり、最後の1時間以外はどちらが速いということもなく、場合によってはモトコの方が速いこともあった。だが、意地になったぼくはさらにこう返した。

 「その最後の1時間が重要なんだよ!」

 我ながらほとんど言いがかりに近かった。モトコが「意味わからない・・・・・・」と呆れたのも、当然だ。そうしてしばらく不毛なやり取りを繰り返したあと、ぼくは先に歩き始め、その100メートルほど後ろをモトコが歩いてくることになった。一本道でなかったら他の違う方向に向かって歩きたい。モトコはそう思っていたようだ。

 最後の最後になぜこうなるのか――。モトコもぼくも、おそらく同じことを考えていた。

 旅をしながらケンカが絶えたことはほとんどない。毎日のように新たな小さな火種が目の前に現れる。特にユーラシア横断を始めて毎日ほとんどの時間を一緒に過ごすようになるとさらに顕著になった。だが、夫婦と言えども、話せばわかることよりも話してもわからないことの方が多いという現実は、すでに理解できるようになっていた。だからこのころには、話して解決を求めるより、静かに距離を取り時間が解決してくれるのを待つことが増えていた。それがいいのか悪いのかはわからない。しかしそれは、他人が一緒に生きる上で自然に身につけていく処世術であるようには思った。

 旅立ってすでに4年半が経とうとしていた。結婚生活はいよいよ5年近くになろうとしていた。ふと、日本に帰ったあとはどうなるのだろう、と考えることが多くなった。結婚以来、ほとんどずっと旅のなかを生きてきた自分たちにとって、日本に帰ってふたりで暮らすという生活は、まだ具体的にはほとんどイメージできなかった。ただ、確実にそのときが近づいているという感触はあった。うまくやっていけるのだろうか。そのときはどんな原因でケンカをするのだろうか。

 タルチェンの村に向かってひとりで歩き、後ろにいるモトコの様子をちらちらと伺いながら、ぼくはそんなことを考えていた。帰国したら、いったいどんな生活が待っているのだろうか――。

 あれこれ考えながら歩き、だんだんと冷静になってくると、自分の言ったことがまったく理不尽だったような気もしてきた。しかし、そう直接言うのは気恥ずかしい。相変わらず、大人になれない情けない状況のまま、いつもどおり、なんとなくうやむやにこの気まずさが過ぎ去っていくのを待っていた。そして、タルチェンの入り口あたりで、腰掛けて、モトコを待った。村のなかまで一人で先に行ってしまっては、その後も長くこの気まずさが続くような気がしたからだ。

 モトコがやってくると、また無言のまま一緒に歩き出した。けれども、どうもモトコは靴擦れがひどくなっているらしく、なかなか前に進めない。ぼくは何事もなかったかのようにこう声をかけた。

 「もうちょっとだからがんばろう」

 するとモトコが言う。

 「私、足が痛いから自分のペースで行きたい。先に行ってて」

 なんだよ、それ。ならいいよ。ぼくはそう思い、また一人先に歩き出した。気まずさが元に戻った。

 カイラス巡礼はそんななかで終わっていった。気持ちのいい終わり方では決してない。しかし、こうしていつもどおりのつまらないケンカが起きることが、平時の場所に戻ってきたことを感じさせたのだった。


 カイラスから戻った晩、ぼくらは任さんの宿に泊まった。
そのときちょうど、中国南東部の大都市、深センから来たという中国人旅行者がいた。彼は自分の車でここまで来ていた。これから西に向かうという。ぼくらもまた、明日にはタルチェンを出て西へ移動しようと思っている、と話すと、彼はすぐにこう言った。「それならぼくの車に乗って行きなよ。アリまで乗せていくよ」。

 好意に甘えて、翌朝、彼とともにぼくらはカイラスをあとにすることになった。出発前、宿代を払おうとすると、任さんは言った。「お金はいらないよ」。彼がなぜそういったのかは思い出せないが、なんらかの理由はあったはずだ。だが、ぼくらとしては当然支払うべきだと思っていた。どうしようかと考えていると、任さんの姿が見えなくなった。毎日の日課である水汲みに行ったのかもしれない。もう別れを告げることができそうになかった。迷った挙句、手紙とお金を置いておいた。そうするべきだったのかはわからないが、とにかくひと言彼にお礼を書き残してから、ぼくらは任さんの生きるこのカイラスの地を発ったのだ。

 車に乗る。運転席の男性は中国に住む中国人であるものの、ぼくら以上にカイラスまで来られたことに感動していたようだった。中国にはほんとにいろんな世界があるんだ。もっといろんな場所に行ってみたい。自分はこの広大な土地の、まだほんの一部しか行けてないんだ・・・・・・。そう言って彼は、いま、休みの間に中国をひとりでドライブできていることを大いに喜んでいた。

 窓の左右には延々と荒野が続き、その遠く後ろには白い雪をかぶった山々が見える。この土地に来ることが一生のうちにもう一度あるかどうかはわからない。旅をしながら土地を去るとき、それはいつも思うことではあるけれど、この一帯、すなわちカイラスのあるチベット西部については、特に強くそう思った。この風景の外に出るのが、名残惜しかった。胸がいっぱいになった。

 アリに着く。男性に礼を言って彼と別れた。そしてアリに一泊した翌日、今度は一気にウイグルまで下ることにした。二週間ほど前、高山病になりながら30時間以上かけてランクルで走ってきた道を、再び戻るのだ。今度はバスでだ。

 小さな二段ベッドが3列にずらりと並んだその車内には、定員のおそらく2倍にはなりそうな数の人が乗り込んでいた。50人はいただろうか。ベッドとベッドの間の通路にも人が座ったり、横になったり、もはや足の踏み場もない状態で、バスは悲鳴のような大きな音と砂煙を立てて走り出した。

 その状態で3000メートルを一気に下る。高山病の苦しみがなかった分、行きとは比べものにならないほど楽だったが、夜の寒さはすごかった。窓は凍りつき、窓際においておいたペットボトルの水も完全に凍った。そして33時間後、ぼくらはついに、出発地点だった零公里(リンゴンリー)まで戻ってきたのだ。

 もう中国を出よう――。カイラスを終えたいま、迷うことなく中国を出られる気分だった。中国を出て西に向かうことは、旅がまた一歩終わりに近づくことでもある。しかし、このときぼくらはほとんど未練なく、中国を出よう、と思えるようになっていた。

 零公里に一泊した翌日、いよいよ中国の西の果ての町、カシュガルまで移動した。チベットとはまったく異なるウイグル人の世界。乾燥した空気と砂埃が、町中を黄土色に染めている。人々の顔の彫りは深く、男は帽子をかぶり、女性は頭に布をまく、まさにイスラムの世界であった。中央アジアはもうすぐそこだ。そう感じさせる風景だった。
カシュガルは、宿も町も居心地が良かったため、なんとなくだらだらと過ごしてしまい、日ばかりがすぐにたっていった。

第85回 無言のふたり

カシュガルの路上の屋台。鶏や羊の肉、それらが入ったピラフ、そしてラグマン(ウイグル風混ぜうどん?)がどこでも売られていて、どこでもうまい。

 だが、一週間ほど滞在したあと、2007年の11月ももうあと一週間で終わろうという金曜日、ついに中国を発とうと決めた。この日を逃すと、土日は国境がしまっているため、また月曜まで待たないといけないことになる。もう一度週末を越えてしまうと、いつ出られるかわからないような気がした。このままずるずると無為に過ごしてしまいかねない雰囲気があった。

 国境までのバスは、月曜と木曜しか出ていなかったが、なんとか国境まで連れて行ってくれるという車を見つけることができた。だからぼくらは金曜日に、その車に乗って国境へと向かったのだ。

 今回中国を出たら、次はいよいよいつ戻ってこられるかわからない。新たな国に行く喜びはある。だがその一方、慣れ親しんだこの国から出るのが寂しくもあった。いろんな思いが交錯しながらも、中国はいまや圧倒的に自分にとって身近な国になっていた。

 朝8時に宿を出て、4時間ほどで国境に着いた。ここを越えると、中央アジアのキルギスとなる。中国からキルギスへ向かう多くのトラックが列を成して入国を待っている。
周囲は赤茶けて乾ききった山に囲まれていた。その奥には、雪をかぶった大きな山がいくつもそびえ、空は白く厚い雲で覆われていた。

 「めっちゃ寒いな・・・・・・」
 
 モトコが体を震わせた。カシュガルも寒かったけれど、この国境の荒涼とした雰囲気は、さらに空気を冷たく引き締めていた。

 中国語の世界はここで終わりだ。ここからはキルギス語、ロシア語の世界となる。それは新鮮で楽しみでもあるけれど、やはり心細くもあった。

 でも、ここからまた新たな何かが始まるはずだった。
 行こう――。
 大きなトラックの横をすり抜け、ぼくらは白く殺風景な出国審査場へと入っていった。

第85回 無言のふたり

カイラスから零公里(リンゴンリー)を経てカシュガルへ。そしてそのすぐ西の隣国キルギス(Kyrgyzstan)へ国境を越える。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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