遊牧夫婦

第87回 ビシュケクのロシア語授業

2013.02.12更新

 毎日、猛烈に寒かった。

 「うわ、マイナス12度だって・・・」

 朝、泊まっていた宿の庭の温度計を見て、さらに身体が震えそうになる。庭は真っ白に雪が積もっている。庭の隅っこには、大きな雪だるまが一人立っている。ぼくはいつもながら、Tシャツ、長袖カットソー、フリース、厚手のフリースシャツ、ユニクロの薄手ダウン、ノースフェイスのインナー付ジャケットと、持っている服をほとんどすべて着込んで、白い息を吐き出しながら、モトコとともに外に出る。

 宿から少し歩いて大通りに出ると、新聞・雑誌や軽食などを売るスタンドが並ぶ一角にたくさんの人が集まっている。そこに、「マルシュルトゥカ」と呼ばれるミニバスが、クラクションを鳴らしながら次々にやってくる。フロントグラスに路線番号と行き先がある。それを見て人々は、小さなドアから黙々と乗り込む。「もういっぱいだ! 降りろ!」。ときに運転手がそんな雰囲気で叫んでいる。そうして十数人ほどが座れるバンにその倍ぐらいの人数を乗せて、マルシュルトゥカは「ブルルルルーン」と走り出す。

第87回 ビシュケクのロシア語授業

マルシュルトゥカとそれを待つ人々

 ジベック・ジョル大通りを西に走り、ソビエツカヤ大通りを南下する。古い学校のような殺風景な建物が続くなか、だんだんと中心街に入り、左手に大きな時計台が見えてくる。いつしかこの風景もすっかり見慣れた景色になった。短期間とはいえ、久々に、住んでるという気持ちになれているのがうれしかった。

 降りる場所が近づいてきたら、「止めてください!」と声を張り上げ、なんとか身体をよじらせて出入り口に向かう。覚えたてのロシア語を使おうとぼくも必死に声を上げるが、ときに間違えて「素晴らしい!」と叫んでしまうこともあった。でも誰も笑うわけでもなく、みな表情を変えずにじっとしている。

 なんとか外に出る。寒い。息が白い。滑らないように歩き出す――。

第87回 ビシュケクのロシア語授業

ビシュケクの中心部にて。このベンツのように、ビシュケクには中古の高級外車が異様に多く走ってるのが印象的。右奥にあるのが時計台

 キルギスの首都ビシュケク。
 にぎやかではあるが色彩が淡く、どこか寂しげな印象が漂う町だった。雪の白さのせいであり、寒さのせいだったともいえる。ただそれは、これから次々に訪れることになる複数の旧ソ連の町にも共通している雰囲気だった。

 1991年の独立以来まだ日は浅い。その上、まだ2年前でしかない2005年にここビシュケクを舞台にいわゆる「チューリップ革命」があり、汚職や不正にまみれた大統領が国を逃亡した。そしてぼくらが訪れたちょうどこのとき、つまり2007年12月には、初めての議会選挙が行われる予定になっていた。この国はいまなお、不安定な変革の時期にいた。そんな混沌として方向の定まらない感じが、旧ソ連の国々のもつ寂しげな雰囲気のような気もする。

 しかしぼくはその雰囲気が決して嫌いなわけではなかった。2007年11月末に着いてから、ぼくらはここビシュケクに1カ月以上滞在した。雪景色のビシュケクは、そのうちすっかり勝手知った町となっていた。

第87回 ビシュケクのロシア語授業

雪が降り出したあとは町中が銀世界に

 中国からキルギスへと国境を越え、レスラー・アリとの夜中のドライブを経てオシュに着き、そこから首都ビシュケクへとやってきた。ビシュケク滞在の一番の目的は、これから必要となるビザを取得することだった。

 まだ不安定さを残すとはいえ、キルギスは中央アジアでは唯一民主化を果たした国として知られている。ロシアの影響力の強い中央アジア5カ国のなかで、ここだけはアメリカと関係が近い。だから日本とも仲がいい。日本人は90日間ビザなしでいられるという、ぼくたちにとっては極めて滞在しやすい国なのだ。しかしこれから先に待ち受ける、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イランといった国々は、そうはいかない。だからキルギスでできる限りこの先必要となるビザをそろえておこうと思ったのだ。

 ビザの取得はたいていやっかいなものである。各国大使館のビザ担当者はなぜか決まって不機嫌そうで理不尽で不親切だ。必要な書類をそろえても、ときに何度も書き直しをさせられて、そのたびに大使館に出向かないといけないことも少なくない。しかも、申請から取得までは何日も待たされる。だからできるだけ時間に余裕のある場所で申請するのがいい。ビシュケクはまさにビザ取得にうってつけの町だったのだ。

 しかし、ビザの取得を待ってただダラダラと町にいるのも面白くない。そこで、その間にロシア語を勉強しようか、という話になった。ああだこうだで、数週間から1カ月はいることになりそうだったので、その間に語学学校に通うのもいいんじゃないか、と考えたのだ。

 短期間でもその町に生活するという意識を持つと、見えてくるものはまったく違う。それは中国でもオーストラリアでも実感していた。それに、8月に北京を出て以来ずっと移動続きだったため、ぼくもモトコも少し疲れていたということもあった。また、ロシア語自体も、この先旧ソ連圏の国は複数行くため、使い道は広そうだった。
 ただ、そんな短期間だけ調子よく通える学校があるかどうかというのは気になった。
 
 「じゃあ、今日から探しに行こうさ」

 ビシュケクに着いた翌日、まだ前日の10時間を越える乗り合いタクシーでの長旅の疲れが残るなか、モトコはすぐに動き出す。こういうとき圧倒的な行動力を発揮する彼女に引っ張られるように町に出て、必要な情報を持ってそうに見えたCommunity Based Tourismのオフィスに行くと、すぐに耳よりな情報を得た。

 「ロンドンスクールに聞いてみたらいいんじゃない? ここから歩いてもすぐですよ」

 そしてその足でロンドンスクールへ。東西に走るゴーリキー通りをしばらく西に歩き、南北に走るソビエツカヤ大通りを南に行くとすぐに着いた。

 「ロンドンなんて言ってるけど、それこそ殺風景なソ連的学校なんじゃないかなあ」。そんな気もしたが、行ってみると予想以上に雰囲気はよかった。ソビエツカヤ大通り沿いにある入り口から敷地内に入ると、落ち着いた空間が広がっていた。建物は白くこぎれいで中庭があり、なかには、図書室やカフェもあった。期せずして、再び「キャンパスライフ」なるものが楽しめそうな雰囲気でもあった。昆明での学生生活再来とばかりに楽しげなイメージが膨らんだ。

 「1カ月だけロシア語を習いたいのですが」

 と聞いてみると、全然問題ないという。そしてぼくらは、早くもその3日後に通いだすことになっていた。

 授業は1日2時間(文法と会話)を週4回、それを3週間半受けることにした。事務の人は「1日3、4時間を週4回。それを2カ月ほどするとみな結構話せるようになっていますよ」というので、本当はもっと長く通いたかった。しかし、突然の申し込みだったため、空いている先生が少なく、しかも12月後半にはクリスマス休暇に入ってしまうため、この日程が限界だった。それでも、ビシュケク到着4日後から学校に通えるのはラッキーに違いなかった。それに驚いたのは授業料だ。先生一人に対してぼくたち二人という授業形式で、一人計100ドルほど。3週間半で30時間程度になるので、一人1時間3ドル強でしかないのだ。

 授業は午後1時からの2時間。十数人ほど収容できそうな小さな教室の中央最前列に、ぼくらは並んで座り授業を受けた。

 文法はまずはキリル文字の書き方と読み方、会話は「こんにちは」「ありがとう」から始まる。語学はゼロからやると、最初は急激にうまくなったような気分になる。

 文字の読み方がわかると、町を歩いていても一気に視界が広がる。ちょっと挨拶ができるようになるだけで、人が見せてくれる表情はまったく変わる。

 昆明で中国語を勉強し始めたときもそうだったが、学校で授業を受けたあと外に出るとそこがいきなり実践の場となるのはとても貴重なことだった。学校の前後にいつも立ち寄ったカフェ「ファットボーイ」では、注文時に毎日少しずつ話せることが増えるようになるのがうれしかった。  

 「コーヒーをください」

 そのひと言がロシア語で言えるようになるだけで、一気にこの町に溶け込めた気持ちになれるのだ。そしてそんなとき、
「おお、このまま行けば3週間もしたら、結構難しいことも言えちゃうんじゃないか」
と一瞬思う。しかし、語学はそんなに甘くない。最初の3日ぐらいは、習ったことがすべて頭に入り、単語の予習復習も十分にできるものの、その先はだんだんと覚えることが多く複雑になって、ついていけなくなるのである。自分が理解できる範囲のことだけを覚えるようになり、妥協に妥協を重ねながら毎日の授業をこなしていくことになる。そして冷静に考えると自分が話せることなど、コーヒーの注文と、こんな文ぐらいでしかないことに気づくのだ。

 「こんにちは。私は日本人です」「これは椅子ではありません。机です」「この壁は白です。青ではありません」・・・。

 普通の会話ができるレベルは、あまりにも遠い。ただ、そうしたことを実感するのが昆明で中国語を勉強したときに比べて圧倒的に早いのをぼくは感じた。

 外国語を学ぶのは、ぼくもモトコも、英語、中国語に続き3カ国語目だった。何カ国語も話すことができる西洋人がよく、「語学は、やればやるほど、次の言語を学ぶのは楽になる」といっていたが、まさにそのことを実感できた。もちろん、中国語を知っているからといってロシア語がすぐわかるようにはならない。ただ、どのくらい勉強したらどのくらい話せるようになるかが想像できる。自分の中国語のレベルにいくまでには、どのくらいのことを覚えなければならないかがわかる。そんなことが10日も学ぶとなんとなく見えてくるのだ。

 その一方、ロシア語は語の活用などがあまりにも多く、覚えることが膨大すぎて、3週間で身につけられるものはそのほんの一部でしかないこともまたわかってくる。何しろ、単語に、男性、女性、中性という属性があるのみならず、「2冊」と「5冊」で本の複数形が変わったり、人や都市の名前という固有名詞まで、文脈によって形が変化するのだ! ただ、意思疎通のためと割り切れば、語の変形をそこまで厳密に覚えなくとも文脈や身振り手振りで意思は伝わる。自分はなぜロシア語を学ぶのか、自分にはどんな力が必要なのか。それを意識することが重要になる。そうすれば、どこで手を抜き、どこは力を入れるべきかがわかるのだ。それが短期間で語学を学ぶ上では重要であり、その感覚が複数の言語を学ぶうちに身についてくることにぼくはこのとき改めて気づかされた。

 ロシア語が少しずつ身についてくると、ビシュケクの町はぐっとその姿をクリアに見せてくれるようになった。毎日、宿から学校に通ううちに知ってる人も増えてくる。担当の先生はもちろん、学校でただすれ違う人とも会えば挨拶するようになる。また宿の人とも、簡単な会話ができるようになるだけで距離は急激に近づいていく。

 宿では、朝ごはんを頼んでおくと、家族が暮らす母屋のダイニングで温かい朝食を食べることができた。離れにある自分たちの部屋を出て、雪が積もった庭を横切って、朝から十分にストーブの効いた母屋に行く。「ドーブラエ・ウートラ!(おはよう!)」と言って入っていくと、いつもかわいらしい女性やお母さんらしき人が笑顔で迎えてくれる。そしてパン、ピラフ、スープ、紅茶などを出してくれる。その家族とも最初はほとんど何も話せなかったものの、ぼくらが前日に習ったことを試しにそのまま話してみると、家族はみな喜んで聞いて答えてくれた。

 キルギスでの日々はそうして旅を離れた気分のなかで過ぎていったが、そんな毎日のなかでよく行った場所のひとつに「日本センター」があった。名前の通りの施設で、日本語の本やCDなどがたくさんあり、それらを借りることもできたため、ぼくらはたまに行っては何冊か借り、宿に帰って部屋で読んだ。

 部屋に帰って食事もしてシャワーも浴びたあと、ストーブの前で洗濯物を乾かしながらそれらを読む時間が楽しみだった。読んでいた本は、村上春樹や山田詠美の小説もあったが、気候のせいか、植村直己、星野道夫といった人の本も手に取るようになった。カイラスに行った影響もあった。ぼくもモトコも、あのときの余韻をまだ残していて、だから北極やアラスカといった地を人生の舞台とした彼らの話に自然に惹かれるようになっていた。

 星野道夫の『旅をする木』を読んだときだったか、ぼくは、ふとこんなことをモトコにいった。

 「ユーラシア横断したら、アラスカに住むっていうのもいいなあ。ヨーロッパから船でアイスランドとかカナダに渡って、それからアラスカまで行くっていうのも。寒さも、いまの状態に慣れればもうそんなに変わらないんじゃないかな・・・」

 自然好きのモトコはもともとアラスカに行けたらいいなあと言っていたので、ぼくが行きたいと思えば、それは実現するかもしれない気がした。

 しかしそんな想像する一方で、いや、そんなことはきっと実現しないだろう、と思っている自分もいた。このユーラシア横断が終わったら、ぼくらの旅は終わるんだ、という気がいつもどこかでしていたのだ。

 「バンバリーが旅の第1ステージとすれば、いまは何ステージ目なんだろう・・・」

 ぼくはある日、部屋でモトコに、そんなことを聞くでもなく聞いてみた。モトコは部屋の奥のベッドに潜り込み、ぼくは窓際にあったもうひとつのベッドのなかにいた。

「・・・バンバリー、バンの旅、東南アジア、昆明、上海。で、ユーラシア横断か。そう考えると、いまは第6ステージなのかな」

 自分で答えてそう言った。随分といろんな段階があったことをいまさらながら実感する。

 バンバリーにいたころは、この生活はいつまでも終わらないような気がしていた。しかしもちろんそんなはずはなかった。確実に時間は進み、次々に異なるステージが訪れて、それらも次々に終わっていった。

 これまでの4年間を思い返せば、まだこのままの生活を続けることは無論できると感じていた。旅をしながら稼いで生活することはできることがわかってきた。しかしいろんな思いが交錯するうちに、どうも頭のなかで、その生活をこれからも続けていくという像が具体的に結ばなくなっていたのだ。

 そしてモトコにとっても、帰国はひとつの選択肢として具体的にイメージされているに違いなかった。

 「じゃあ、第6ステージでもしかすると旅は終わりになるのかな。でも、日本に帰ったらどうなるんやろう、私たち・・・」

 モトコにはヨーロッパでやりたいと思っていることもあるようだった。アラスカもいいな、ノルウェーもいいな、とも言っていた。

 けれど、本当にヨーロッパなりアラスカなりに住むということが実現するのかどうかは、ふたりともわかっていなかった。

 オーストラリアや中国は、何が何でも住む、という強い意志があったけれど、ヨーロッパに関してはそこまででもなかった。「住めたらいいよね」という話はするけれど、ふたりとも具体的に話をするほどではなかった。ぼくにはどこかで、実現しないんじゃないかという意識があったのだ。決して条件や手続き上実現できないということではなく、実現させようという意志を自分が十分に持っていないことを感じていたからだ。

 やろうと思ったらきっと何らかの方法はある。でも、そこまでの気持ちがなかったのだ。もしいろいろうまい具合に展開したらヨーロッパにでもアラスカにでも住みたいとは思っていたが、それはなんとなく自分が本当にいまとりたい選択ではないような気がしていた。そしてそんな気持ちだったら、きっと実現しないだろうな、と感じていた。それはモトコも、もしかすると同じだったのかもしれない。

 ベッドのなかに潜り込んで、窓の外を眺めると、白い雪が一切音を立てることなく黙々と地面へと降り積もっている。明日にはどれだけ積もっているのだろう。明日もまた寒いのだろうか。そう思いながら、月と雪の白さでほんのり明るく見える空を見上げた。するとその向こうに、ふと、まだ見ぬアラスカの大地を思い浮かべることもあった。

 もう日本に帰るのだろう、と思うときもあれば、いや、アラスカで第7ステージが始まるんだ、と思うときもあった。ヨーロッパの予期せぬ国で暮らすことももちろんありえた。

 この先自分たちがどんな生活を選ぶのか。ぼくもモトコも、まだまったく想像できていなかった。

 ただ、このままいつまでもなんとなく旅をしているわけにはいかない。そんな気持ちは、明らかに強くなるのを感じていた。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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