遊牧夫婦

第90回 ウズベキスタンの「とんがりたいそう」

2013.03.05更新

 2007年最後の夜、ぼくたちはウズベキスタンの首都タシュケントにいた。大晦日であるにもかかわらず、町は妙にひっそりしている。

 夕食は、いつもより少し奮発して、韓国料理屋で日本食らしきものを食べた。地元のコリアンたちに紛れて、普段とは少し違った空気を味わうことはできたが、食事を終えて外に出ると、やはり町は静かなままだった。どこかで人が集まって、盛り上がっているのだろうか。それすらもまったくわからない。寒さも猛烈だった。

 「もう帰ろうか。なんかさえない大晦日になってきたなあ・・・」

 そんなことを言いながら、1時間近く歩いて宿まで戻ることにした。ひと気がしないのは相変わらずだったが、時折、人とすれ違うと、どちらからともなくこう声を掛け合った。

 「ス・ノビーム・ゴダム!」

 ロシア語の新年の挨拶だ。そうするときだけ、ああ、年明けはもうすぐなんだな、と感じられた。

 宿はタシュケント駅のすぐ隣にあった。安いけれどまだ新しいらしく部屋はとてもきれいだった。男女混合の5人ドミトリー(相部屋)で、殺風景な部屋に小さなシングルベッドが5つ並んでいたが、その日泊まっているのはぼくらだけで、ふたりでその部屋を使うことができそうだった。

 しかし別にゆっくりくつろげるという雰囲気ではない。あくまでも電車待ちの人が手っ取り早く夜を明かすためだけの簡素な部屋だし、いつ新しい客が入ってくるかもわからない。しかも、寒さのせいでお湯が出ずシャワーが使えないという。仕方なく部屋の外の共同トイレの洗面台で頭と足だけを強引に洗った。モンゴルの国境の町で列車に乗れず2日間足止めを食ったとき、駅のトイレで無理やり髪を洗って周りの人に怪訝な顔をされたことを思い出す。年越しという気分には全然ならない。

 あまりの寒さのせいか、賑わう場所を求めて外に出る気分にもならず、それぞれのベッドの上でただ寝転がりながら、年が明けるのをふたりで待った。「12時近くなったら起こしてくれる?」そうモトコに言って、ぼくは一度目をつぶった。そして起こしてもらったすぐ後に、時計を見つつ、ふたりで顔を見合わせた。

 「あ、12時になった・・・」

 テレビの音も人の声もしない中、ぼくらの2008年は、静かにその幕を開けた。

 「花火が上がってるよ」

 窓の外を見ると、遠くで申し訳程度に花火が上がるのが見えた。それを見て初めて、ああ、ほんとに年が明けたんだ、と実感できた。まばらな花火以外、窓の外には、漆黒の闇とわずかなオレンジ色の街灯の光のみが見えていた。

 思えば毎年違う場所で新年を迎えてきた。2004年は真夏のバンバリー、2005年は一時帰国していた日本、2006年は昆明のそばの町、2007年は上海だった。そしてこの年、2008年はウズベキスタンのタシュケント。今年がもっとも静かな年明けだった。

 新年を迎えるとき、いつもぼくは、同じことを考えるようになった。「次の新年はどこで迎えるのだろうか」と。はっきりと予測できたことはこれまでなかった。しかもとりわけ今年のタシュケントは、直前になるまでまったくわかっていなかった。部屋の外の花火を見ながらぼくはモトコにつぶやいた。

 「来年はどこで新年を迎えているんだろうなあ・・・」

 もしかすると、日本で本格的に腰を下ろし、紅白でも見ながら年を越すのかもしれない。そんな自分たちの姿がこれまでになくはっきりと想像できた。しかし、具体的にその姿を思い浮かべると、やはり少なからぬ怖さがある。

 本当におれたち、帰るんだろうか。帰ったら本当にちゃんと生活できるのだろうか。ライターとして自分はやっていけるのだろうか。まったく他の仕事をしなければならないのだろうか――。いや、でもまだ帰りたくない。アラスカにもヨーロッパにも住んでみたい。この旅を続けたい・・・しかし・・・。

 そんなことを考える自分に対してモトコは、なるようになるって、という顔をしていた。

 「どこやろうなあ・・・。でも、まだそんなこと考えるの早いって」

 そうなのだろう。自分は旅を始めてからずっと、半年先にどこにいるのかが見えない状態が理想だったし、そうあり続けたいと思ってきた。しかしこのころ、すでに1年先について想像し、そのイメージに縛られそうになっている自分を感じていた。1年後を想像することで、急に未来がこじんまりしてくるような気がした。

 日本に帰るにしても帰らないにしても、きっとそれは自然に決まるのだ。だからそのときの流れに任せればよい。それより、いまこの瞬間を、タシュケントでの新年を、存分に生きるべきなのにちがいない。ぼくはそんなことをぼんやりと考えていた。

 タシュケントは、地下鉄も通っている都会らしい都会だった。このころぼくらにとって無線LANの有無というのは、町の大きさのひとつの指標となっていたが、タシュケントはあらゆるカフェで無線LANが使えるという点で、都会らしい印象が強く残った。その一方で、警察や軍人の姿がやたらと目につき、ソ連時代を想像させる町でもあった。特に地下鉄の駅は、不気味な薄暗さと静けさのなかに、気難しそうな警官がいっぱいで、ちょっとでも不審な動きをしたら尋問されそうな雰囲気に見えた。

 そんな空気は、この2年半前に起きた「アンディジャン事件」の影響なのかもしれない。それは、ウズベキスタン東部のフェルガナ地方のアンディジャンで、2005年5月に起きた出来事だ。刑務所などを襲撃した武装勢力を含む一般市民の反政府デモと治安部隊が衝突し、多くの一般市民が巻き込まれ、500人とも1000人とも言われる死者が出たのだ。それは、圧政に反対した市民への、政府による力での過剰な弾圧に違いなかった。

 欧米諸国は当時、一斉にウズベキスタン政府を非難した。ウズベキスタン側も、国内にいた欧米のNGOや政府の人間をみな国外へ追放し、欧米も援助をストップした。欧米とウズベキスタンの間は大きな溝ができていった。

 ウズベキスタンでは、このころすでに多くの場所で、ロシアのキリル文字ではなく、ラテン文字(英語のアルファベット)を使っていた。また、ソ連時代に抑圧された人たちに関しての博物館があったりと、ロシア離れを意識していることが感じられた。

 しかしこの事件やタシュケントの雰囲気から想像できるのは、決してこの国が、自由な国へと変わりつつあるわけではないらしいことだ。ソ連による支配から新たな独裁者へと支配者が変わっただけに見えた。その辺の空気感は、キルギスの印象と比べるだけでも十分に感じることができた気がする。

 タシュケントがあまり居心地よさそうではなかったため、必要な用事を済ませると早々に離れ、移動した。最初に向かったのが、アンディジャンのあるフェルガナ地方だった。
このあたりはウズベキスタンの中でもウズベキ色が最も濃いと言われるところで、バザールなどに行くと、頭に何もかぶっていない女性はまさにモトコひとりだけ、という世界だった。イスラム色が強いのだ。

 フェルガナ地方は、特にシルクやコットンの生産で知られる。「シルクロード」という言葉は、まさにここのシルクを東西からやってきた人がいろいろなものに交換して、東西の交渉が成立していったからなのだという。そのシルク生産の中心だったマルギランという町こそが、シルクロードの中心地点といえるのかもしれない。

 フェルガナ地方に来ると、やはりのんびりした雰囲気のなかに人の優しさを実感できることが多かったが、なかでも特にとても印象に残る出会いがあった。それは、リシタンという町に小さな日本語学校があるということを知って、訪ねてみたときのことだった。

 こんな小さな町になぜ日本語学校が? と思いながら行ってみると、寒い部屋をみなで温めようとするかのように、10歳前後の子どもたちが元気に踊りながら日本語の歌を歌っているのだ。映画「となりのトトロ」のテーマ曲である「さんぽ」や、「ひらけ! ポンキッキ」でやっていたという「とんがりたいそう」。もともと日本に縁があったわけでもないウズベキスタンの小さな子どもたちが、どうしてこんな歌を知っているのか、とぼくらは驚きつつも、あまりのかわいさにただただ彼らの姿に見とれてしまった。

 学校の名前は「NORIKO学級」という。
 ぼくたちも授業に歓迎され、子どもたちが一人ずつ日本語で自己紹介をしてくれた。

 「8歳です。NORIKO学級の生徒です。リンゴが好きです」

 一人ずつ順番に、名前と年齢とともに好きな果物を挙げる姿が微笑ましかった。そしてそれぞれがしっかりと話すのを聞いて、彼らがみな継続的に日本語に触れ続けていることがすぐにわかった。

 「NORIKO学級」ができたのは、1999年。94~98年の間、技術者としてウズベキスタンに赴任していた大崎重勝さんが、退職後にウズベキスタンに移住して、奥さんの紀子さんと一緒につくった学校なのだという。

 だが、大崎さんはすでに亡くなられた。その意志は現地の人に受け継がれ、日本にいるサポーターたちの助けを得ながら学校は続いていった。たまに訪れる日本人のボランティアや、大きくなった現地の教え子たちが教師となって学校を支えていた。

 ぼくらが訪れたときには日本人教師はひとりもいなく、教えていたのはホシャホンさんという17歳の女の子だった。彼女の話す日本語を聞いて、ぼくもモトコも驚かされた。ずっとこの地で育った地元の子とはとても思えないほどだったのだ。

 すぐに日本語を生かせる場が近くにあるわけではない。それにかかわらず、この地の若者や子どもたちだけで日本語を学ぶ環境を保ち続けていることは奇跡に近いことにも思えた。

 「どうして日本語の勉強を始めたの?」

 ぼくは子どもたちに聞いてみた。するとそれぞれが同様に、「うーん、よくわからないけど、なんとなくNORIKO学級に通うようになって」と言った。この学校が持つ、温かくて楽しい雰囲気が子どもたちを引きつけ、知らぬ間に彼らを日本語の世界に引き込んでいるようだった。そしてそれこそが、言語を学ぶのにもっとも適した環境なのであろうことを実感した。

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NORIKO学級の子どもたち

 「うちに泊まって行ってください」

 流暢な日本語でそう誘ってくれたのは、ここで学んだ19歳の陶芸家ディヨルくんだ。リシタンはじつは長い歴史を持つ陶芸で知られ、ディヨルくんも父親にならって陶芸家になったという。彼の家に行くと、弟のドストンくんも、とても上手に日本語を話した。聞くと彼はタシュケントで日本語を使う大学関係の仕事に就いているという。このふたりの上にいるもうひとりの兄は、筑波大学に留学中とのことだった。そして彼らの一番下の妹オイデノイちゃんは、教室で、「とんがれー、とんがれー!」と元気に歌ってくれたひとりだった。ぼくもモトコも、この子たちの「とんがりたいそう」があまりにも好きで、何度も「やってやって!」とねだってしまった。そのたびに何人かでやってくれ、その何とも言えないほっこりした雰囲気に、ぼくらは本当に幸せな気持ちになれたのだった。

 単純に子どもたちが可愛かったということはもちろんある。だが同時にぼくは、自分たちの文化が、異国の地のまったく異なる文化圏の人たちに愛され受け入れられるというのはこんなにもうれしいことなのか、と改めて感じていた。

 リシタンからタシュケントに戻る車に乗りながら、頭のなかでは彼らの歌声が何度も繰り返し流れ続けた。

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リシタンからタシュケントへの帰り道。この山間を抜けていく。雪は40センチほど積もっていた様子

 タシュケントで、申請していたトルクメニスタンのビザを受け取ってから、今度は西へ、サマルカンドまで移動した。そして、サマルカンドからブハラ、ブハラからヒヴァへと、さらに西へ、ウズベキスタンの主役級の町々を隣国トルクメニスタンに向かって移動していった。日中もマイナス20度ぐらいのままの極寒の日もあるなか、何百年という時を経た壮麗なイスラム建築を見て回った。巨大なバザールも、シルクロード時代にラクダの隊商が行き来していた風景がそのまま想像できそうな雰囲気があった。

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サマルカンド

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ヒヴァのオールドタウン「イチャン・カラ」。このような大きなイスラム建築がゴロゴロしている

 あまりの寒さに旅行者などほとんどいなかったためか、ヒヴァで泊まった宿では、宿主の家族が大きなパーティをやっていた。1歳の子と84歳のおばあちゃんの誕生会だという。おばあちゃんは生誕1000か月祝い。孫が30人、ひ孫が15人もいると言い、その場に親戚だけで数十人が集まっていた。

 「今日は、私のおばあちゃんの誕生日でもあるんです」

 モトコがそう言うと、みな一斉に喜んでくれて、おばあちゃんも、それはおめでとう! と祝ってくれた。そしてモトコを呼び寄せて、ほっぺたにキスをした。そしてモトコもお返しにおばあちゃんのほっぺたにキスをすると、おばあちゃんはちょっと照れくさそうしながら、満面の笑顔で笑っていた。

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ヒヴァのオールドタウンで行われていた合同結婚式(?)。ちなみにこれは日中だけれど、気温はマイナス20度程度。そのなかを新婦さんたちは、ときに半袖のウェディングドレスで1~2時間ゆっくりと歩かせられているのに驚かされた。

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昔、奴隷市場だった場所の木の扉

 いいイメージで始まらなかったウズベキスタンも、終わってみれば人々の温かさを感じっぱなしの国だった。タシュケントで仲良くなった若い男性も、その後何度も電話をくれて、困ったことはないかと尋ねてくれた。ぼくの手元には、この彼が別れるときに渡してくれた英語で書かれたコーラン(イスラム教の聖典)がある。こういって彼はこれを渡してくれたのだ。

 「コーランはぼくたちにとってとても大切なものなんだ。よかったらふたりにも読んでもらいたいと思って。本当に素晴らしいことが書いてあるから」

 緑の表紙の小さな聖典を、ぼくは大きなバックパックのなかに大切にしまった。そして、トルクメニスタンへと国境を越えた。







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タシュケント(Tashkent)、その右にあるのがフェルガナ地方(Fergana)、サマルカンド(Samarkand)、ブハラ(Bukhara)、ヒヴァ(Khiva)


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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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