遊牧夫婦

第93回 交差点でのひと悶着

2013.03.26更新

 ぼくらがイランを訪れた2008年は、ちょうどこの国が核開発問題でアメリカと緊迫した関係になっていたときだった。2007年10月にパキスタンとの国境に近い南東部で日本人が誘拐される事件が発生したこともあり、イランは不穏なイメージで覆われていた。

 そのため、イランに行くことに対して多少不安がないこともなかった。反米意識が強まっていて、その同盟国である日本に対してもいい感情は持たれていないかもしれない。厳格なイスラム教国だから異教徒にとってはいづらい世界なのかもしれない。そんなことも頭をよぎった。ただ、これまで旅をし続けた経験から言えば、そういう不安は、行ってみると見事に裏切られることがほとんどであることも実感していた。

 そもそも自分たち日本人をはじめ、多くの非イスラム圏の人間がイスラム教国に対し不穏なイメージを持っていたのは、この時期に限ったことではないだろう。2001年のアメリカの同時多発テロ以降、イスラム教はほとんどいつもテロやテロリストと関連付けて語られてきたからだ。「イスラム教徒=自爆テロ」といった見方を、「日本人=ニンジャ・ゲイシャ」的な偏ったものだとわかっていながらも、どこかでその刷り込みを払拭できずにいることは否めなかった。

 しかしイランを訪れてみると、そのイメージはみるみるうちに変わっていった。メディアから得たイメージとはまったく異なるこの国の顔が次々に見えてきたのだ。そして、市井の人々と話すうちに気づかされた。メディアでは生身のイラン人についてはほとんど何も語られていないということを。

 イランで最初に人の家に泊めてもらったのは、マシュハドの次に訪れたネイシャブールという小さな町でのこと。イランの小さな町を見たい、そして願わくばそこで現地の人のうちに泊まってみたい、と厚かましいことを考えて向かったのがここだった。

 ネイシャブールを選んだのは、マシュハドの電車の駅で職員の女性にすすめられたからだった。「マシュハドからテヘランに向かうまでの間で、どこか小さな町で現地の人の家に泊まりたいのですが」と聞いてみると、彼女は「じゃあ、ネイシャブールがいいわ」と言って、紙にペルシャ語でこんなことを書いてくれたのだ。

 「この二人の日本人はイランの村の生活を見てみたいと言っています。誰か泊めてあげてください」

 その紙を持って、ぼくらは電車に乗りこんだ。そして2時間ほどでネイシャブールに到着した。確かに小さな駅だった。駅の外は人もまばらで、すでに葉を落とした寒そうな木々が通り沿いに並ぶ、小さな町らしき風景となった。「さて、どうしようか」と考えて、ぼくたちはまず通りがかったタクシーの運転手に話しかけ、書いてもらった紙を見せた。すると運転手は、おそらくこんなことを言ったのだろう。

 「じゃ、うちに泊まっていけよ!」

 そんな感じで走り出した。
 運転手は、口ひげを生やした40代ぐらいの男性だ。見るからに善人という雰囲気でもなかったけれど、悪い人にも見えなかった。ついていっても大丈夫だろうと判断した。いや、というか、ぼくらはそんな疑念を持つ前に、感謝しなければならない立場だ。そもそも向こうだってこっちがどんな連中かわからない。それなのに快く家に招いてくれようとしているのだから。いずれにしても、ぼくらは彼を信頼して、家に連れて行ってもらうことにしたのである。

 運転手の家があったのは、ネイシャブールから5キロほどのアブサディという村だった。村には土壁の家が並び、遠くには大きな雪山が見える。チャドル姿の女性たちが何やら忙しげに通りを歩いているのに対して、男たちは何をするでもなく壁際に座ってダラダラと話し込んでいる。そんなすごい男社会っぷりがまず印象に残った。

第93回 遊牧夫婦

ネイシャブールのそばのアブサディ村。タクシー運転手の住んでいる場所。このように、男たちが道の角などに何するでもなくたまっている

 運転手の家は、彼の子どもたち夫婦やらで賑わう大家族だった。ぼくらが「こんにちは!」と入っていくと、当然ながら子どもたちも大人たちもみな、「え、誰?」と驚いた顔でこっちを見る。

 若い女の子が多い家で、彼女たちは家のなかでは頭の布を取っていたようだったが、ぼくが入ってきたことで、あわてて布で頭を覆った。みな若干警戒している感じだったけれど、運転手に紹介されてなんとなくニコニコ笑っていると、すぐに打ち解けることができた。言葉は全然通じない。ただ、16歳の少年が話すわずかな英語と、ぼくらの知ってるペルシア語10単語ぐらいでも、想像力を働かせれば結構会話はできるものだ。誤解しまくりながらではあろうが、楽しく話が弾んでいく。

 モトコは若い姉妹たちと一緒にご飯作りを手伝う一方、ぼくは家族の男衆と、やれ水タバコだ、やれメシだ食え食え、あとは座ってろ、がはははー、という男中心の世界にどっぷりと浸からせてもらうことになった。モトコは女の子たちと本当の姉妹のように仲良さげになり、ぼくもおじさんや少年たちと、言葉が通じないながらも笑い合い親しくなった。
 驚いたのは、食後のことだ。運転手がぼくにジェスチャーを交えながらこういうのだ。

 「お前もやるか?」

 出てきたものを見ると、アヘンのようだった。そして彼は、おもむろにそれを吸い出した。アヘン自体はそれ程珍しくはないものの、イランで、ということに驚いた。イランでは麻薬の所持などは死刑だと聞いていたからだ。

 「大丈夫なのか?」

 そう尋ねると、「いや、見つかったら死刑だよ」みたいなことを、笑いながら言ってくる。しかし誰も気にする様子もない。この国では酒も何もすべてご法度と思っていたが、実態は全然違うのかもしれない――。そんなことを肌で感じた夜だった。

第93回 遊牧夫婦

アブサディで連れて行ってもらった近所の人の家。布をかぶった女性が奥で祈っていたのが印象的。泊めてもらった家もこんな感じ

第93回 遊牧夫婦

イランで広く飲まれるチャイ。角砂糖は、チャイに入れるのではなく、 直接口に入れる。そしてチャイを飲みながら「食べ」進める

 翌朝9時に運転手に駅の近くまで送ってもらって彼と別れた。そしてなぜだったか、ぼくらは早くもその日、ネイシャブールから首都のテヘランまで夜行列車で行くことにしていた。

 だが、テヘラン行きの電車が夜11時半発だったため、とりあえず荷物を駅に預けて、町へと散策に出た。見つけた食堂に入ると、金額が予想以上に高い。「これ、ボられているんじゃないか?」と思い、店の主人と交渉する。すると主人は、「いや、そんなことはない」と言いつつも、薄笑いで明らかに「ボリました」って顔している。しかし、こちらもうまく意思を伝えられないので、暇にまかせてこう言ってみた。

 「同じメニューを頼んだ客がいくら払うかを見ることにする。それまで待ってるからね」

 そして二人で見学した。するとそのうち、目当ての客が現れた。見ていると確かにぼくらが言われた値段と同じ料金を払っている。そして主人は「な? おれは嘘をついてないだろう」という顔をするが、その客が外で待ってたり、そのお金だけレジにしまわなかったりと怪しい状況証拠がたっぷりあった。しかしどうしてもそこをちゃんと突っ込めない。そのうちに、そこまでして頑張ってボろうとしている主人が何気に愛すべき人物に見えてくる。そしていよいよぼくらは折れた。「まあ、いいか」と言われた通りの金額を支払うと、主人は満面の笑みを浮かべて札を数えだす。そして「はははー、おれの勝ちだ」って表情をするのだ。最後にはなんだか笑えて来たりもしたのだった。

 夜まではまだ相当に時間があったので、ぼくらは町をぶらぶらし続けた。賑わっている繁華街らしき場所までやってきたけど、特に目新しいものがあるわけでもない。「ああ、どうしようか。ちょっとバスにでも乗って遠出してみようか」。

第93回 遊牧夫婦

ネイシャブールのマーケット。チャドル姿の女性であふれる地元の風景

 そんなことを話していたときのこと。事件は突然降ってわいてきた。気づいたときには、ぼくらは渦中の人物となっていた――。

 大きな交差点で、突然、パトカーがすごい勢いで近づいてきた。そして「キキキーッ」と大きなブレーキ音を立てて、ぼくらの横に停車したのだ。なんだろう、事件かな、と思って見ていると、口ひげを生やしたスーパーマリオのような警官が、こちらに向かって走ってくる。なんと目的は自分たちらしかった。え、なんでだ? と唖然としていると、マリオはぼくが手に持っていたカメラを指差してこう言うのだ。

 「ノーフォト! カム・トゥー・ポリス!」

 まったくわけのわからない展開にびっくりしたが、彼が自分を連行しようとしていることはすぐわかった。町中の写真を撮ってはいけないということはないはずだし、そもそもそのときは写真を撮ってもいなかった。しかし、雰囲気からしてやっかいなことになっていることは確かだった。イランでは、警官と称してパスポートや金品を奪って逃げるやつがいると聞いていたので、これがそのニセ警官なんじゃないかとすぐに思った。

 「パスポートを見せろ!」

 そう言われたが、「なんでだ?」と聞き返し、ぼくはコピーしか見せなかった。すると、「それじゃだめだと、実物を見せろ」と迫ってくる。コピーのままではどうにも話が進まなそうだったので、どうするべきか考えた。ただ、交差点にはすでに50人ぐらいの大きな人だかりができていたため、これだけ人がいればこの男もそんなに無茶はできないだろうと判断して、パスポートを見せることにした。しかし、渡してしまえば、それを「人質」に警察まで来い! と言われかねない。だからぼくは、パスポートから手を離さなかった。

 するとマリオは、「かせ!」とばかりにパスポートを激しく引っ張る。

 「いいじゃないか、見せてるじゃないか! これで見えるだろ!」

 そう言っても納得しない。そしてそのうちに、警官はパスポートを引っ張りながら、なんと握りつぶしてしまったのだ!

 それには本気で頭にきた。「おい! ふざけんな!」と、ふたつに折れたパスポートを取りあげた。そして言った。

 「ちょっと待て。わけがわからないから日本大使館に電話させろ!」

 しかし警官は英語交じりのペルシャ語で「だめだ、警察まで来い!」の一点張り。まったくらちが明かなかった。なんなんだこのマリオ野郎は・・・と思いつつも、いったいどうすればいいのかわからなかった。群衆がどちらの味方なのかもわからない。自分の行動次第で一気に取り巻きの男たちに取り押さえられないとも限らない。

 「これはまずい展開になったな」と緊張が走った。しかしそのとき、群集のなかから英語を話せる一人の若い男の子が出てきてくれた。彼はぼくらに同情的な顔をしているのが見て取れた。そして彼が「ぼくは英語が少しわかる」といって、通訳を始めてくれたのだ。

 そのおかげで、少しスムーズに会話が成立するようになると、「じゃあ、電話してみろ」とマリオも折れ、公衆電話があるところへと移動して、日本大使館へ電話をかけられることになった。

 しかしなぜか電話が通じない。「まったくこんなときになんでだよ・・・」と思いつつ、電話を諦めると、「それならとりあえず署まで来い」とマリオは言う。絶対に行かないと言い続けると、そのうちに、位が高そうな私服警官が現れた。ただ、この人物も怪しげだった。何しろ「外国人担当」だということなのに、ひと言も英語を話せないのだ。そしてそのまま、「パスポートを渡して警察に来い」「いやだ」という会話が延々と2時間近くも続いたのだ。

 そうこうするうちに、今度はやたらと英語堪能なおっさんが登場した。彼はどうも警察官の友だちだとかいうことらしかった。英語要員として呼ばれたのだろう。しかしなぜか彼は一番の決定権を持っていそうだった。彼が来たことで一気に状況が前進したのだ。

 「イランへようこそ! イランではどこに行ったんだい? 何も問題はないから大丈夫だ、安心しなさい」

 と、凄まじく友好的なオーラを出してまとめにかかった。そして彼に一気に状況を伝えると、「そうかそうか」と、ついにぼくらが何も悪くないことをわかってもらえた。そうして無事に解決したのだった。

 結局最後までなんだったのかはわからないままだった。だがとにかくほっとした。最後まで見守っててくれた高校生に、お礼を言って、ようやくその場は解散となった。

 「とんだ展開だったなあ・・・」

 ぼくもモトコもぐったりとしてしまい、喫茶店のような店に入ってしばらく休んだ。そのうちにだんだん暗くなってきて、「そろそろ駅に行こうか」と、店を出て駅に向かった。するとすーっと近くに車が止まり、なんだろうと思っていると、なんと驚いたことに、現れたのは、先の英語堪能なおっさんだった。

 「さっきは大変だったね。よかったら今日、ぼくのうちに泊まりに来ないか」

 と彼は言った。物腰が穏やかで感じのいい人だったが、登場のタイミングがあまりに不思議で、なんだか気味が悪くなった。偶然なんだろうか? それともつけられてたのだろうか? そのうちに彼は、自分の素性を少し話した。彼は指が確か1本か2本なかったのだが、それがなぜなのかを説明し出した。

 「イラクとの戦争で、ぼくはこの指をなくしたんだ」

 本当かもしれななかったし、そうではないかもしれなかった。しかしこのときは直感的に、ぼくもモトコも、危険なニオイを察知した。そして、こう言って断った。

 「ありがとう。うれしいけれど、今日テヘランに行くことになってるんだ」

 すると彼はすんなりとわかってくれた。「わかったよ。残念だけれど、元気でな」。そう言って車に乗って去っていったのだ。

 彼が去っていくのを確認しながら、ぼくは考えていた。

 「彼に付いていったらどうなっただろう」

 と。あの車に乗りこんだら、何か思わぬいい経験ができたかもしれない。それとも本当に大変な展開になっていたかもしれない。ただ確実に言えるのは、選ばなかった道のことはいつまでもわからないということだけだった。

 旅のなかのひとつの選択が人生を大きく変えるかもしれないことをぼくは改めて実感した。それこそが旅の醍醐味でもあり、また危険性でもある。ただ、そのときどういう選択をするかこそが、それぞれの個性であり人生に違いない。危険な展開を考えると、ぞっとする。しかしその一方で、そうした選択のなかに常に身を置きながら生きられる日々は、ある意味とても幸せなことなのだとも感じるのだった。

 その後、夕食も終えてから駅まで戻ったが、まだ7時だった。11時半まではかなりある。そこで、駅の待合室で列車を待ちながらパソコンを開き"Super Size Me"という映画を二人で見た。マクドナルドのハンバーガーを朝昼晩30日連続で食べ続けたらどうなるか、というアメリカの実験的ドキュメンタリーで、見ていると自分たちがイランの小さな町にいることを一瞬忘れそうにすらなった。

 が、そんなとき、今度は一人の若者が、ぼくらを現実に戻してくれた。「ユウキ」と呼ばれたので、パソコンから顔を上げてそちらの方を見てみると、通訳をしてくれた先の高校生がそこにいたのだ。

 「二人に会いに来たんだよ」

 まだ顔に幼さの残るハミッドという名の彼は、あのときからぼくらに強く興味を持ってくれていた。あの出来事のあと、これからどうするんだ、どこに行くんだ、とぼくらに熱心に聞いてきた。ゆっくり話しでもしたいところだったけれど、そのときはぐったりと疲労していたため、適当に別れてしまっていた。その彼が、ぼくの列車の出発の時間に合わせて、駅までやってきてくれたのだった。そして手にはプレゼントを持っていた。それは、イスラム教徒がお祈りのときに使うという数珠のようなものだった。

 「ああ、二人に昨日会えて、うちに泊まってもらえたらよかったのに・・・。お母さんも二人をぜひうちに招待しなさいって言ってたんだ」

 本当に残念そうにハミッドは言った。彼のやさしい気遣いはとてもうれしかった。このときは、彼が心からそう言ってくれているのがよく伝わってきた。彼にとっては、日本人のみならず、外国人と話すこと自体がとても珍しいことであるらしい。イランの外の世界を見たい、知りたいという気持ちに溢れているようだった。

 「今度ネイシャブールに来てくれたら、ぜひうちに泊まってほしい」

 そう言ってくれた言葉を、ぼくらはありがたく受け止めた。自分たちがこの町にもう一度来ることがあるかはわからない。でも、ハミッドには気持ち通りの言葉を伝えた。

 「うん、今度来たときは、絶対に泊めてもらうよ。本当にありがとう」

 いつか、ハミッドがいるからこそこの町を訪れるときが来るかもしれない。
 列車が来る時間まで、待合室で一緒に待った。そして列車がやってくると、彼はとても名残惜しそうに、ぼくらを見送ってくれたのだ。

 「また会おう」

 そう言ってぼくらは、暗闇のなか、テヘラン行きの列車へと乗り込んだ。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

バックナンバー