遊牧夫婦

第95回 強気の旅人たち

2013.04.14更新

 「あっちがアゼルバイジャンで、向こうがアルメニアだ」

 タクシーの運転手が雪山に囲まれた直線道路を走りながら、左手を指してそう言った。
イラン北西部のタブリーズから乗り合いのバンとタクシーを乗り継いで3時間ほど。タブリーズから北上すると、まずはアゼルバイジャンの飛び地にぶつかる。そしてアゼルバイジャンの大地を見ながら国境に沿って80キロ以上東に行くと、アルメニアとの国境にたどり着く。

 ぼくらはいよいよイランを出国しようとしていた。
 国境に沿って走る川の向こうにはアルメニアがある。いまから1700年以上も前に、世界で最初にキリスト教を国教としたことで知られる国だ。その国が、イスラム教国であるイランと川一本で接している。

 「川の向こうは、まさに別世界なんだろうな」

 そう思いながら、ぼくは川の向こうに見える雪山の連なりを眺めていた。
 車を降りて国境に入り、出国審査をスムーズに終えて建物を出ると、目の前には橋がある。そこを渡って川の北側に行くと、いよいよアルメニア側となる。

 橋の右端を歩きながら中ほどで止まり、ぼくは右を向いて川の方を見た。川幅は50メートルほどだろうか。川の右手がイラン、左手がアルメニアだ。
 中国から、ずいぶんと遠くまで来た気がする。アルメニアに入ると思うと、いよいよ西洋に近づいてきた気持ちになった。

 「アルメニア側に人の姿も見えるね。向こうはキリスト教世界になるんだな。ロシア語が通じるのはうれしいなあ」

 大して話せるわけではないものの、ペルシャ語のイランに比べたら、ロシア語圏ならぐっと意思疎通が楽になる。しかし、この細い川を隔てただけで一気に世界がそこまで変わることがなんだか不思議でならなかった。そして毎度のことながら国境という境界の奇妙さに興味を引かれながら、ぼくは国境に関する連載記事のために、目立たないようにカメラをかまえ、川とその両岸を正面から写真に収めた。

第95回 強気の旅人たち

イラン・アルメニアの国境。右岸がイラン。左岸がアルメニア

 橋の向こうのアルメニア側の大地には、歩哨というのだろうか、ふたりの男が立っている。彼らはずっとこちらを見ている。ぼくが写真を撮ったことにも気づいたに違いない。 しかし何も言ってこないし、動く気配もない。とりあえず大丈夫なのかな、と思いつつ、また何気なくカメラをバッグの中に戻して、再び橋を渡り出した。しかし、橋を渡り切ってアルメニア側へと着くと、ふたりの兵士は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。そして目の前までやって来ると、穏やかな口調でこう言った。

 「ここで写真を撮ったらだめだ。フィルムを出しなさい」

 アルメニア語かなと思っていたらロシア語だった。聞きなれた響きに懐かしくなり、身近な場所に戻ってきたような気にすらなった。しかしそう思いつつも、まずはこの場を乗り切らないといけない。国境の写真をすべて消させられたら、記事に使う写真がなくなってしまう・・・。

 フィルムではなくデジタルだということをジェスチャー交じりで伝えてから、「わかった、いまからここで消すから」と、ぼくは撮影した写真をカメラの小さな液晶ディスプレイに再生して彼らに見せた。そして、再生のダイヤルを逆に回した。すると、最初に出てきた一枚以外は、すべてイランの写真になったので、一枚を消しただけで「ほら、もうないよ」と言ってみた。すると納得してくれた。対応も紳士的で、結局その一枚を削除させられただけで済んだのだった。

 「うまくいったよ。消さないで済んだ」

 と、得意げにモトコにいいながら、出入国審査の場所へと歩いた。
 入国審査を済ませ、持っていた米ドルの一部を現地の通貨ドラムにかえると、いよいよアルメニアが始まった。客を探していた車に乗り込んで、国境から10キロほどらしいメグリという町まで行ってもらうことにした。

 「布、かぶらないでいいのは楽やなあ」

 モトコは久々に頭髪を出した状態でそう言った。自分も、車の中から人の姿を見たときにまず目を引かれたのは、女性が髪の毛を出していることだった。坂の多いメグリの町で、長い黒髪の女性の後ろ姿を最初に見たとき、見てはいけないものを見てしまったような気にすらなった。自分の感覚がイランにいたわずか3週間ほどの間に、ずいぶんと変わったことを気づかされた。

 メグリにはホテルもレストランもほとんどないらしいので、ホームスティさせてくれると聞いていた家族の家を訪ねてみる。すると、いきなりの飛び込みにもかかわらず、まるで親戚が来たかのような具合で、「さあさあ、いらっしゃい」と、夫婦と娘さんが温かく迎えてくれた。奥さんのカリーナはドイツ語の先生で、旦那のゲボルグは栄養士か何からしい。カリーナは英語を話し、ゲボルグも娘さんもロシア語は流暢だった。

 荷物を置いて外に出る。携帯電話にいれるシムカードを買うなど所用を済ませながら、近場を少し歩いてみた。
 古い石造りの家が並ぶメグリの街並みは、中世のヨーロッパを想像させる雰囲気だった。寂しげだが美しい。斜面にへばりつくように家が並び、17世紀にできたという石造りの教会が、景色に自然に溶け込んでいる。そしてどちらの方向を見ても、後ろには山がそびえ、その上にうっすらと、お菓子にまぶされた砂糖のように白い雪がかぶさっていた。

第95回 強気の旅人たち

メグリの町。中世のヨーロッパそのままのような風景

 家に戻ると、すでにカリーナは食事の用意を始めていた。
 「さあ、食べて食べて」
 そう言いながら、リビングのテーブルに次々と料理を並べてくれる。
 「うわあ、すごい豪華やなあ・・・」
 モトコはうれしそうな笑顔を浮かべてそう言った。
 チーズ、赤ピーマン、キャベツ、トマト、豆、胡桃、パン、カキ、ナシ、カボチャ・・・。そして桃のコンポート、ワイン、ウォッカまでがテーブルの上に並んでいる。

第95回 強気の旅人たち

メグリで泊めてもらった家

 「これすべて手作りなのよ」

 カリーナが言う。ワインやウォッカまでもそうだというので、驚いた。ケバブばかり食べていたイランでのことを思い出すと、びっくりするほどのごちそうだったし、一つひとつの料理自体を見ても、国が変わったことを実感できた。ぼくもモトコもうれしくなり、遠慮なくいただいた。味もとてもおいしかったし、豊かな食生活だなあと心から思った。 しかし、カリーナはこうも言った。

 「食べ物が十分に買えないから、自分で作っているのよ。アルメニアの田舎はいまもとても貧しいの。私たちには、首都のイェレバンで大学に通う子どもの学費もあるしね」

 カリーナは日中、学校でドイツ語を教えたあと、家で家庭教師をしているという。ゲボルグはすでに退職したのかいまは運転手をして小銭を稼ぎながらやりくりしているとのことだった。二人合わせて月収は300ドル程度。ぼくらがアルメニアまでやってきた経路をざっくりと話すと、「旅行もしたいけど、私たちにそんなお金はないし、いいなあ」とカリーナはうらやましそうにいった。

 ひっそりとして重厚なメグリの風景は、アルメニアの第一印象として心に残った。
 そしてカリーナたちの家に2泊したあと、早朝にメグリを出て、乗り合いのバンで北上した。

第95回 強気の旅人たち

メグリからゴリスへ乗り合いバンで移動中。早朝に山間に見えた雲海

 次にたどり着いたのはゴリスという、メグリよりは大きそうな町だった。ここでぼくらには懐かしい再会が待っていた。

 「久しぶり~」

 日本語で、照れたような笑いをうかべながらぼくらの前に現れたのは、牛山さんという人物だった。彼との出会いは2007年8月、モンゴル・中国の国境にまでさかのぼる。国境を越えてモンゴル側に入ったものの列車の切符が買えなくて、国境で2、3日足止めをくらったときに一緒にいたのが彼だった。

 ぼくらより3、4つほど年上の彼は、小さなバックパックひとつで中国からユーラシア大陸を横断してここまで来ていた。なんとなく気が合ってモンゴル以来連絡を取り続けていて、ちょうどアルメニアでタイミングが合いそうだったので、「メグリで巡り合おう」などと言いながら、タイミングを見計らっていたのだ。そしてついに再会を果たせることになったのだ。

 「うわあ、すごいワイルドになりましたね・・・」

 半年前は短かった髪が、ひどく長くなっている。まるで落ち武者のようなのだ。頭髪が少なく月代のようになっている部分の周りを、激しいロン毛が取り囲んでいる。髭もすごい。さらに、着ているコートは前に泊めてもらった家でもらったものなのだとも言った。

 モンゴルでも、ぼくらが宿を探して泊まっていたのに対して彼はばったり出会った人の家に泊めてもらうという荒業をやってのけていたが、彼はその旅のスタイルをますます強烈に押し進めていたのである。

 そしてゴリスでの再会からしばらく一緒に過ごすことになったのだが、ぼくらはここで牛山さんの旅のすごさを垣間見ることになった。それはその後、ぼくらの旅に大きな影響を与えていくことになるのである。

 「タテフに行こうよ」

 再会した数時間後、ぼくらはゴリスから30キロほど離れたタテフという村に一緒に行くことになった。30キロなのにバスで2時間かかるという険しい山道の先にその村はある。
一日に一本だけ、タテフまでのバスが出ているらしかった。当然これに乗って行くつもりでバス乗り場となっている通りまで行き、乗り込もうとすると牛山さんはニヤニヤと笑いながらこう言った。

 「ぼくはバスには乗らないから。じゃ、タテフで会おう」
 「え、バスに乗らないってどうやっていくの? これしか交通手段ないでしょ?」
 「いや、これだよ、これ」

 そう言って彼は親指を立てるポーズをした。なんと、ヒッチハイクで行こうというのである。どこでもヒッチハイクで行っているとは聞いてはいたけど、さすがにここでもとは思わなかった。車がたくさん通っているとはとても思えない道のりだからだ。しかし牛山さんは、そんなことはまったく意に反してないようだった。

 「いや、大丈夫だよ、たぶん。無理だったら明日、バスに乗っていくから」

 そう言って笑い、バスに乗った僕らを見送ってくれたのだ。
 牛山さんに別れを告げ、バスが出る。タテフへの山道に入っていくと、道は雪に覆われ、思っていた通り車もほとんど通っていない。ぼくらのバスも、ウィーンウィーンと言いながら力を振り絞って走っている。

 「やっぱり、これじゃさすがの牛山さんもヒッチなんて無理だよな。バスに乗ればよかったのに・・・」

 モトコと顔を見合わせてそう話した。しかし、それからしばらくしたときのことだった。後ろから小さな赤い車がやってきて、一気にバスを抜いていった。お、たまには車も通るんだな、と思いつつその車を眺めたとき、ぼくは目を疑った。

 なんとその赤い車の後ろの窓には、牛山さんの姿があるではないか。満面の笑みでこちらを見ながら、「イェーイ!」と親指を立てているのだ!

 「うわ、牛山さん、乗ってるよ!」

 これにはさすがに驚かされた。数少ないチャンスをものにする彼のヒッチハイク技術には脱帽だった。結局、赤い車はタテフまでは行かなかったらしく途中で降ろされてしまったものの、そこからタテフまで、夜になるとオオカミが出るという山道を15キロほども歩いて、牛山さんはタテフへと到着したのである。

第95回 強気の旅人たち

タテフの教会。1000年以上前に建てられたものがそのまま残る

 そして、今度はタテフからの帰り道。一緒に帰ることになり、ぼくらは彼のテクを間近で見せてもらうことになった。まずはタテフから、強引な交渉によってぼくら3人とも、ゴリスまで車に乗せてもらえることに成功する。

 そしてゴリスに着いてからは、「今晩はどこに泊まろうか」と考えているうちに、通りがかった車の運転手が車を止めて声をかけてきた。「あんたたち、どこから来たんだ?」と。そこですかさず牛山さんは、合わせた両手を顔の横に持っていき、眠るポーズをしながら、怪しい英語でこう言った。「今日、泊まるところがないんだけど、泊めてくれないか。ホテルは高くて、お金がなくて・・・」。いきなり本題を突きつける様子に、「強引だけどすげえ・・・」と衝撃を受けつつ、自分も一緒にお願いした。もちろんうまくいかない時もあるのだろう。運転手はこう返してきた。

 「金がないのか? それだったら道路で寝なさい」

 そして今度は、教会に行って「泊めてください」と頼んでみる。すると、「残念ながら、あなたたちを泊められる場所はここにはないよ、アーメン」といった具合でまた断られる。

 ああ、もう宿に泊まろうか。ぼくとモトコはあきらめだしたが、牛山さんはくじけない。「じゃあ、こないだ泊めてもらった医者の家に行ってみよう」。聞くと、2日前に泊めてもらったもののあまり歓迎されていない空気を感じたという医者の家をもう一度訪ねるというのである。一人でも嫌がられたのだったら3人じゃさすがに無理だろう、と思ったが、牛山さんは「大丈夫、大丈夫! とりあえず行ってみよう」と臆することを知らなかった。

 ピンポーン、と呼び鈴を押すと、でっぷりした体つきの奥さんがドアを開けて現れた。牛山さんの顔を見ると、「ああ、ウシか」と苦笑いを浮かべつつも、ぼくらがそろってアルメニア語で「バレー部です!」と笑顔で言うと、奥さんは「おお、バレー部です! バレー部です!」と、中に招き入れてくれたのである。

 唐突に出てきた「バレー部です」とは何なのか――。それは「こんにちは」という意味のアルメニア語なのだ。片仮名で書くと「バレヴゼス」となるようだが、まさに「バレー部です」で通じてしまう。日本語ユーザーだけにわかるこの奇妙なネタでテンションも上がり、家の中にも上げてもらって、奥さんとああだこうだと話しているうちに、家の主人が帰ってきた。聞くと彼は、アルメニアで一番手術数が多い外科医らしい。そして彼が大の日本文学ファンであることが発覚すると一気に話は盛り上がり、「アクタガワはすごい、バショウが好きだ。飲め飲め、食え食え、今日は泊まっていきなさい、ガハハハー」という展開になったのだった。まさに牛山さんが得意とする展開に違いなかった。

 牛山さんは、このような感じで毎日どこかに泊めてもらっているようなのだ。
 彼は激しく厚かましくはあるものの、それだけではいろんな人に泊めてもらい続けることはできないだろう。しかも風貌が極めて怪しいにもかかわらずこんなことができてしまうのは、彼の細かな気遣いと人柄の魅力に違いなかった。

 こんな旅の仕方があったのか――。それはぼくたちにとってとても新鮮な経験だった。同じようにはとてもじゃないけどできないだろうとは思いつつも、新たな可能性が広がった気がした。

 また打算的な考えも頭に浮かんだ。アルメニアからすでに物価が高くなり、これからヨーロッパに向かってさらに高くなるに違いない。もっと民家に泊めてもらうことができれば・・・。

 「おれたちもやってみようか?」

 そんなことを考えながら、ゴリスから、首都イェレバンへと旅は進んでいったのである――。

第95回 強気の旅人たち

ゴリスで泊めてもらった家族のうちで。右端が牛山さん

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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