遊牧夫婦

第96回 入れないレストラン

2013.04.21更新

 ゴリスから5時間ほど乗り合いバンに乗って首都イェレバンへ。
 さすがに都会らしい賑わいで、人と車が溢れていた。地下鉄も走っている。大きな石造りの重厚な建築がヨーロッパを想像させた。一方、通りにはまだ雪も残り、寒さも厳しかった。その冷たい空気がロシアやキルギスを思い出させ、旧ソ連圏にいるということを感じさせた。

 イェレバンに着いた翌日が大統領選挙の日だったこともあり、またそう意識したせいもあったかもしれないが、町全体が落ち着かない雰囲気に見えた。

 選挙がどんな状態だったのかは、当日にはよくわからなかった。だが、その2日後に街中を歩いたときには、不正を訴える大規模なデモや集会がそこかしこで開かれていた。暗い色のコートを着た男たちが通りや広場を埋め尽くし、シュプレヒコールをあげていた。

 アルメニアは90年代に独立して以来、アゼルバイジャンとも戦争をした。隣の大国トルコとも非常に関係が悪い。経済的にも政治的にもいまなお不安定そうだった。隣国の、同じくソ連から独立したグルジアでも2007年末に大統領選挙があり、そのあとは大荒れになったと聞いていた。グルジアにしてもアルメニアにしても、ソ連崩壊後から現在まで問題は山積なままのようだった。

第96回 入れないレストラン

大統領選挙の2日後のイェレバンで。選挙の不正を訴えて集まっているらしい人々

 ゴリスで一泊した宿の女主人に「ソ連時代と比べていまはどうか?」と訊いたとき、こう言っていたことを思い出す。

 「ソ連のときは、仕事の心配をする必要がなかったのよ。明日も明後日も必ず仕事があって、何も心配せずに、ただ毎日職場と家を往復すれば生きていけた。病院もタダだった。でもいまは、子どもの学費も、病院も、すべてお金がいるでしょ。それに今月いくら稼げるかもわからないし・・・」

 ソ連時代について、自分は漠然と暗黒社会のようなイメージを持っていた。しかし実際にソ連解体前後の両時代を経験している人にとっては、そう単純なものではないのだろう。

 一方、イェレバンで会った若いアルメニア人たちからは、これから新しい時代を作り上げようとするエネルギーを感じた。

 ぼくらは牛山さんに紹介してもらったステファンという若い会計士の家に泊めてもらっていたが、選挙が終わった翌日には、選挙の監視人としてアルメニアに来ているというノルウェー人、デンマーク人がステファンの家に集まった。その他、アルメニア在住のドイツ人、スロバキア人、インド人など、そしてステファンら地元アルメニア人も複数いて、大きなパーティのようになった。

 こういう場で出会う同年代のアルメニア人と話していると、彼らがじつに都会的で洗練された雰囲気を持っているように感じられた。みな英語を流暢に話し、欧米に目を向けている。ステファンの家の壁には、様々な絵がストリートアートのように描かれていて、まるで自由を目指す若者たちを象徴する空間のようにも見えた。

 そういえば、知り合ったアルメニア人の一人は、村上春樹の大ファンだと言った。村上春樹の作品に、正直そこまで感動を覚えた経験がない自分は、彼にあえて聞いてみた。「村上春樹ってどういうところが魅力的なの? 自分にはいまいちわからないんだ」。すると彼は言った。
 「何も意味がないところがいい。それが本当に素晴らしいんだ」
 
 イェレバンには5日ほど滞在した。何を見るわけでもなく、町を歩き回ったり、知り合ったアルメニア人たちと話したりということも多かった。しかしそれでも、イェレバンで強く印象に残ったことと言えば、1週間や1カ月一つの国に滞在しても結局その国については何もわからない、というこれまで度々感じてきたことを再確認したことぐらいだったかもしれない。

 ぼくはいつも、何か雑誌に書けることはないかと思っていたこともあって、できるだけ人と話したりする機会を積極的に持とうとしてきた。連載させてもらっている記事もこのときには3つほどあり、また他にも各国の事情について取材して記事を書くことも、ぽつりぽつりとはやっていた。

 回数を重ねるうちに、ひとつの場所に短期間滞在するだけでも、ネットを使って資料を調べ、人に話を聞くことで、それらしい記事を書くことはそれなりにできるようにはなってきていた。そうした技術は少しずつ身についている実感があった。しかし、そうして記事を形にするたびに、いつもどこか違和感があった。

 読者には、自分が取材した内容からそれなりにその国の様子は伝わるだろう。あるいは面白いと思ってもらえているかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。わかったようなことを書いてはいるけど、自分は結局その国のことなんてほとんど理解はできていないのだ。自分の書いた記事をもし現地の人が読んだとしたら、どう感じるだろうか。日本の媒体に日本語で書いている限りおそらくそんな機会はまず訪れない。そう考えると、外国のことを書くというのはある意味ずいぶんと気楽なことのようにも思えてくる。何を書いても誰が何を言ってくるわけでもないのだから。

 それでいいのだろうか。ぼくは度々自問した。自分は極めて薄っぺらなことを書いて、ただ自己満足しているだけなのではないだろうか・・・。その国に行っただけで何かわかった気になってしまいそうなのが怖かった。アルメニアについても自分は何もわかってない。少なくともそのことには自覚的でなければならない。そんなことを考えながら、ダラダラと時間だけが過ぎていった――。

 グルジアに行こう。そう決めるとすぐに、チケットを買った。そして列車に乗り込みグルジアの首都トビリシへ向かった。
 シベリア鉄道のような車両に懐かしさを感じながら、シーツ代500ドラムを支払って早めに寝た。ぼくもモトコも、特に何をしているわけでもないのに、なんだかけだるい疲れを感じていた。

 朝6時半ごろ、国境に着いて起こされて、列車から降ろされる。寒い中待たされて、その間に風邪を引いた。
 列車に戻り前に座っているおばちゃんたちと話していると、そのおばちゃんがモトコを見て、真剣にこう言った。

 「あなたは何歳? 14歳?」

 モトコは「え? まさか!」と笑って、言った。「32歳です」。
 おばちゃんは、目を丸くして心底驚いていた。
 アジア人が若く見られるのはいつものことだ。しかしこのとき、本気でそう言っているらしいおばちゃんの顔をみながら、ずいぶん西に来たんだなあという気持ちになった。

 昼12時ごろ、トビリシに着いた。丘の上から町を見下ろすと、建物と緑の山がほどよく調和した美しさを持っていた。グルジアは世界一の美人大国だということも言われていた。それだけで少し心が浮き立つところも正直あった。

 しかしその一方、トビリシは治安が悪く旅行者を狙った強盗事件が頻繁に起こるというのも聞いていた。少し緊張感を持ってトビリシに降り立つと、そんな雰囲気を確かに感じた。じっとにらみつけてくる柄の悪そうな若者が多かったのだ。

 「ヤンキー高校の校内に紛れ込んでしまった感じだな・・・」

 そんなことを話しつつ、目立たないように気をつけながらモトコと歩いた。しかし、予想通りというのだろうか、こんな声が何度もぼくらに投げかけられる。

 「ジャッキー・チェン!」
 「チン・チョン・チャン!」
 「メイド・イン・チャイナ!」

 イランなどでも言われたことはあったけれど、ここでは笑い声が伴ったり、明らかにバカにした雰囲気が伝わってくる。あるレストランに入ったときのことだ。まだ客がいるのに「もう店はやってない、7時までだ」と言われた。そのときは、ああそうか残念、と思って出たのだけれど、よさげな店だったので翌日また行ってみると、また同じ展開だったのだ。客がいるのに「もう終わった、8時で注文は終わりだ」と。

 いやな空気を感じた。人種差別に違いなかった。そして他の店で食事をしながら考えるほどに頭にきた。「くそ、あいつら、おれが日本人だから入れなかったんだ」
そう思ったら、何かひと言、言いたくて仕方がなくなった。食事を終えたあとぼくはその店に戻って確かめた。大通り沿いの、奥行きがある細長い店だった。

 「まだみんな食べてたのに、終わりってどういうこと? おれが日本人だから?」

 ロシア語でそう聞いた。文法的には間違っていようとも、自分の言いたいことは通じた気がした。

 「いや違う。本当に終わりだったんだ」

 そんなようなことを、店員は言った。ロシア語だったため、向こうの真意は確実にはわからなかった。しかしぼくは、これはきっと差別なんだろうという気がした。

 排他的ですさんでいるような雰囲気は、グルジアの不安定さの表れでもあったように思う。グルジアは、アルメニアとは逆に、ロシアとは縁を切った。2003年のいわゆる「バラ革命」で民主化へと舵を切り欧米との関係を強めていったが、状況は決してよくはなってなかった。民主化を果たしたとはいえ、政権の強圧的な手法は国際的な批判を浴び、2007年11月には、強権的な大統領に反対するデモをきっかけに非常事態宣言が発令されるなど、政情は不安定であり続けていた。

 国民の中に潜む影が、ぼくらにぶつけられた言葉や差別なのだと考えられなくもなかった。

 差別を感じながら、ふと思い出したことがあった。それは、英語の"Caucasian"(コケージアン)という単語が、「コーカサス地方の人」を意味すると同時に「白人」という意味でもあるという事実である。ちなみにコーカサス地方とは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを含む黒海とカスピ海に挟まれた地方一帯のことを指す。
 なぜ「コーカサスの人」=「白人」なのか。そのことを調べていくと面白い事実がわかってくる。

 "Caucasian"という単語を「白人」の意味で世に広めたのは、18世紀のドイツの人類学者だという。彼は人類を5種類に分類し、その中で白人を最も美しい人種と考えた。そして中でも特に美しいとされたグルジア人が暮らすコーカサスをその人種名として採用したというのだ。では、なぜグルジア人が最も美しいと言われるようになったのか。それは、さらにその昔、コーカサス地方から多くの女性の奴隷が取られていたことと関係する。高貴な男性に仕えるための存在であったために、最も美しい女性たちが選ばれて地中海や中東の国々へ運ばれていき、そこから、グルジアの女性といえば「美しい女奴隷」、そして「グルジア人は美しい」というところにつながっていった。その後、ドイツ人の学者によって、「古代のドイツ人が最も純粋な"Caucasian"であるため、ドイツ人こそがもっとも白く美しい人々である」という主張がなされ、20世紀のヒトラーの時代へとつながっていく・・・。

 「グルジアは世界一の美人大国」とはいまも言われるが、それには上記のような根があるのだ。実際にグルジアでは、そこまで美人が多いとは思えなかった。だが、この背景を考えれば、それも当然のことのようにも思えてくる。

 言葉の上で白人の起源に指定されたこの地で、自分がアジア人であることを強く意識せざるを得なかったのは、偶然ではないようにも思えた。もしかすると、不安定な状況の中、逆にその言葉によって、グルジア人には強い白人意識が芽生えているのかもしれない。いずれにしても、ユーラシア横断中で初めて人種を強く意識している自分に気づかされた。

第96回 入れないレストラン

トビリシ。雰囲気は好きになれなかったが、町並みは美しい

 トビリシから、ゴリにも行った。
 スターリンの故郷として知られる町だ。大きなスターリン博物館があり、町の中心部を貫くスターリンストリートの市庁舎の前には巨大なスターリン像もある。このサイズのもので残っているのはおそらく世界でここだけらしい。台座はやたらと高く、その存在感に圧倒された(註)。そして、ゴリから12キロほどの小さな田舎の村で、あるおじさんに誘われて小さな小屋で10人ぐらいの男衆が酒盛りしているところに参加すると、そこには古いスターリンの写真が飾られていた。

第96回 入れないレストラン

ゴリの市庁舎前に建っていたスターリン像(2010年に撤去)。その巨大さが孤独に見えた

第96回 入れないレストラン

後ろの壁に飾ってあるのがスターリンの写真。この地の男たちにとってスターリンは英雄

 乾杯するとき、彼らはスターリンに向かって杯を掲げた。そしてその後、みな口を揃えてこう言った。

 「スターリンは偉大な男だ!」

 力強い顔でそう語る、男たちの姿が印象的だった。

 ゴリはトビリシよりはぐっと居心地がよかったが、それでもグルジアの印象はそれほど変わりはしなかった。結局入国してから3泊だけで、グルジアの西の端まで行ってしまうことにした。いつも通り乗り合いのバンに乗って、朝10時にトビリシを出発した。

 6時間後、そろそろ目的地であるバトゥミに着くころになると、通りの向こうに、突然大きな水面が見えてきた。うっすらと白い雲が広がる下に、白みがかった淡い水色の水面が視界のはてまで広がっていたのだ。

 黒海だった。
 湖のようでありながら、海である黒海。二人とも興奮し、バンがバトゥミの町に到着すると、重い荷物を抱えたまま駆けるようにして水辺へと近づいていった。大きな通りのすぐ横が港のようになっていて、近くに大きな船も泊まっていた。

 「ついにここまで来たなあ・・・」

 海を見たのはいつ以来だったろうか。きっと上海以来だ。ぼくもモトコも、バックパックを足元に置いて、しばらく水面を眺めていた。

 「このずっと向こうは、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリアか・・・」

 地図を見ながらぼくはそう言い、向こうに広がる世界を想像した。
ヨーロッパは、もう目の前だった。


 註:ゴリのスターリン像は2010年に撤去された。しかしいまなお、その再建を望むゴリ市民は少なくないという。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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