遊牧夫婦

第98回 多国籍な宴

2013.05.05更新


 列車は大幅に遅れていた。朝9時に到着の予定のはずが全くその気配がない。そのまま昼になりそうだったこともあり、ぼくらは食堂車の席について到着を待った。
清潔な赤いテーブルクロスが引かれたテーブルに座っていると、外の風景が一気に一面青くなる。
 窓からの風と日差しが心地よい。地図を見た。

「マルマラ海だね、きっと。もうすぐだ」

 列車の南側の晴れ渡った空の下には緑の木々が見え、その向こうに、静かな水面が広がっている。間もなくらしかった。
 
 午後1時。終点となるハイデルパシャ駅に列車が止まると、ぼくらはそれぞれバックパックを背負って列車を降りた。大都市のターミナル駅とは思えないほどのどかな雰囲気がトルコらしい。外からは素晴らしい光が差し込み、まさに春を感じさせる陽気だった。

第98回

ハイデルパシャ駅。ある意味、最も西にあるアジアの駅。

 ようやく着いたのだ。ぼくらはついに、イスタンブールに着いたのだ。
 歴史を感じる重厚な雰囲気の茶色い駅舎を出ると、外にはすぐ水辺が広がり、港のような場所だった。
 複数の白いフェリーがこちらと対岸を行き来し、その間を埋めるように無数のカモメらしき鳥が水面近くをせわしげに飛び回っていた。風が強かった。

「おお、これがボスポラス海峡かあ」

 大きな感動に包まれた。この海峡こそが、アジアとヨーロッパの境界と言われるあの有名な海峡なのだった。つまりいま自分たちが立っているのがアジアの西端で、対岸に見えるのがヨーロッパの東端ということになるのだ。

 ついにここまで来た――。
 そういう気持ちには、これまで何度となくなっていた。ロシアの東端近くであるハバロフスクに着いたときもそう思ったし、中国の西端、すなわちキルギスとの国境を前にしたときも同じだった。そのキルギスから始まった中央アジアを抜けてイランに入ったときも、またグルジアの西端まで行き黒海が見えたときも、やはり同じような感慨があった。
 しかし、東西の境目とも言えるこのボスポラス海峡の前に立ったときの気持ちは格別なものだった。
 ユーラシアという大陸を西へ西へと移動した。ずいぶんと西までやって来た。イスタンブールのボスポラス海峡を前にして、その感覚をとてもクリアに実感することができていた。

第98回

夜のボスポラス海峡。白いフェリーでアジア側、ヨーロッパ側を行き来する。

「これでユーラシア横断もいよいよ終盤な感じだなあ・・・」

 旅が終わりに近づいているという寂しさがあった。しかしそれと同時に、これでもうすぐ移動の日々を終えられるんだといううれしさのようなものも少なからずあった。
 すでにぼくはかなり疲れていたのだ。何もする気がしなくなることも多かったし、ただダラダラと無為に過ごす時間も増えていた。

 もう旅を終えてしまいたいと思う瞬間も時にはあった。
 だがそこにはいつも、この日々を終えてしまったら、おれたちはどうなるんだろうという不安な気持ちが表裏一体なものとしてあった。その気持ちが、旅を続ける原動力の一つになっていたと言えなくもない。

 ユーラシアを横断し終えたら、本当におれたちにはいったいどんな生活が待っているんだろう――。まだ西に土地があればそんなことは考えなくて済む。ただそちらに向かって進んでいくことがぼくらのいまの生活だからだ。でも、大陸の西端が見えてくると、やはりその先のことを考えざるを得なくなる。
 ボスポラス海峡の波立つ水面を見ながら、ぼくはそんな複雑な思いを抱いていた。もう旅を終えてしまいたい。いや、終わってほしくない。その間で揺れていた。
ただいずれにしても、この海峡の向こうに渡れば、旅は一気に最終局面に入っていくような気がしていた。

第98回

イスタンブール(Istanbul)はトルコの北西部ブルガリアやギリシャに近い。黒海か ら ボスポラス海峡を抜けるとマルマラ海を経てエーゲ海に。

 ところで、イスタンブールでは毎日いろんな人の家に泊めてもらった。
一軒一軒ノックして「泊めてもらえますか?」と聞いて回ったわけではない。そうしなくとも民家に泊まれる手段をこのときぼくらは見つけていた。「カウチサーフィン」を利用するようになっていたのだ。
 カウチサーフィンとは、世界中の旅好きな人たちが互いに自分の家に無料で泊め合おうというコンセプトのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だ。会員になれば、世界各地で自分の家に旅人を泊めてくれる意志のある人とつながることができる。2004年にアメリカで始まったこのSNSは、2008年の時点ですでに欧米を中心に100万人を超える規模の会員がいた。

 まだアルメニアにいたころのことだ。「これからヨーロッパに向かっていくと、もっと物価が上がっていくよな。なんかいい方法ないかな・・・」。イランから国境を越えて以来ぐっと上がった物価を前に、日々考えるようになった。そうしたときにぼくらはカウチサーフィンの存在を知った。
 トルコに入ると宿代も交通費も一気に高くなった。そこで「いよいよカウチサーフィンをやってみるか」と登録した。そして、本格的に利用を始めたのがイスタンブールだったのだ。

 イスタンブールでまず泊めてもらったのは、アルプとセラップという同年代ぐらいの夫婦だった。カウチサーフィンのウェブサイトで、イスタンブールで泊めてくれる人を検索すると、数千人に渡る会員のリストが現れる。そのうち冒頭の数十人のプロフィールや写真、他の人からのレビューなどをざっと見る。その中で印象がよかったのが彼らだった。

 夫のアルプはフリーライターで、奥さんのセラップはケータリング会社勤務。たまたまぼくとモトコの上海時代と全く同じ職業事情であった彼らのところに3日泊めてもらった。彼らは家に人を泊めるのがとても好きらしく、何から何まで本当に親切にしてくれた。ゲスト用にきれいな部屋が用意され、

「この部屋に泊まっていいんですか?」とぼくは思わずきいてしまった。

「そうだよ、ここを自由に使っていいよ。タオルもあるし、洗濯機の使い方も教えるよ」。

 なぜ彼らは、知らない人をここまで世話するのだろうか。不思議に思うほどの歓待ぶりに恐縮した。一日は、夜に近くに住むセラップの両親の家に行き、トルコ料理で歓迎してもらった。また、彼らのところにいるときにぼくらは結婚5周年を迎えたのだが、アルプに勧められた魚料理の店に二人で行くとサプライズがあった。食事の後、店のスタッフが突然ケーキを持って現れて、こう言うのだ。

「これはアルプさんからです」

 記念日であることをちょっと話していただけだったのに、そしてこの店に行くと決めていたわけでもなかったのに、知り合ったばかりの彼らがこんなことまでしてくれたのだ。正直、なんて奇特な人たちなんだろう、という気がしつつも、ぼくらは心から感激した。

第98回

アルプ(左端)とセラップ(左から2番目)と、その家族。

 その後の経験も含めて書くと、もちろんここまでしてくれる人はめったにいないし、ここまでされることを期待しているわけでも当然ない。ただ、カウチサーフィンを通じて泊めてもらった人たちに共通して言えるのは、みな人を泊めるのが好きだったり、知らない人と知り合うのを心から楽しめる人たちであるということだった。

 最初、カウチサーフィンに惹かれた理由は、タダで泊めてもらえるという金銭面の魅力だった。けれども、実際にこうして人の家に泊めてもらうことを繰り返すうちに、その最大の魅力は金の面でないことがわかってくる。

 無償であることの意味はなんなのか。それは泊める側が、好きでなければこんなことをしないこと、そして、泊めてもらう側は、お金が介在しないからこそ、感謝の気持ちを表したり、ビジネスではない交流をしようという気持ちになることだろう。

 ワインを持っていったり、ぼくらであれば日本食を作ったりといったことをしたくなる。金銭のやりとりのある宿では普通ないような交流が、そこには自然に生まれるのだ。
 そういったことをわずらわしく感じる人もいるだろうし、だから互いにそれを楽しめなければ続かない。
 しかしカウチサーフィンを経験すればするほど、ぼくはその魅力を強く感じるようになっていった。

 アルプの次に泊めてもらったのがセルジャンという、これも同年代のトルコ人男性だった。
 泊めてもらう予定になっていた当日の午後、彼の指示通り、ぼくらはイスタンブール市内にある彼の会社を訪れた。会社は広告代理店だったかで、立派なビルの中にあった。

「こんなデカいバックパックを持ったまま、こんなところを訪ねてもいいのかな。怪しすぎるよな」

と言いながら、ビルの入り口まで行って「着いたよ」と彼に連絡した。

「ちょっと待ってて」と言って彼は、すぐオフィスから外に出てきた。

「ハーイ!おれがセルジャンだよ」

 明るくて感じのよい男だった。目鼻立ちがはっきりしていて肌の色は白いものの、髪は黒く、アジアの雰囲気を持ち合わせている。頭がだいぶ後退してはいるものの、笑顔がとてもチャーミングで、モテそうだなあと思わせる男だった。

 そして一通り挨拶を済ませると、彼はいきなり、

「これがうちの鍵。これで開くから、入っててくれよ」
と鍵を渡してくれるのだ。そしてそこから徒歩圏内にあるという家までの行き方を教えてくれたあと、こう言った。
「今日はきみらの他に香港人とアメリカ人が来ることになってるんだ。ぼくは8時ごろには戻れると思う。悪いけど、適当に夕食を作っといてくれないか? 近くにスーパーもあるし、冷蔵庫にあるものもなんでも使ってかまわないから」


 初対面の見ず知らずの自分たちへの言葉とは思えなかった。彼の言葉を聞きながら、なんだかおかしくなって顔がほころんだ。そして会って5分で、長年の友人だったような気分になる。

「じゃ、あとでね!よろしく!」

 軽快な様子で、彼はまたビルの中へと戻っていった。
 セルジャンに言われた通りに歩き出す。20分ほど、バックパックを背負いながら坂道をゼイゼイ言いつつ進んでいくと、目的のマンションにたどり着いた。
 そして階段を上って部屋を見つけて鍵を回すとドアが開いた。中にはきれいな薄紫色の壁が広がっている。2階もあり、部屋が複数あるこぎれいな空間だった。

「なんか自分の家に帰ってきたみたいだなあ。セルジャンとはさっき会ったばかりだし、ここはイスタンブールだよ・・・」

「ここに私たち二人だけでいるのってなんか不思議な感じやな・・・」

 もちろん家には、彼のあらゆる所有物がある。パソコンやら何やら、大切そうなものもすべてそのまま置いてある。そこには何一つ、相手を警戒しているような形跡や仕掛けはなく、ただそのままセルジャンの日常が染み付いていた。

 そのときぼくは、その無防備さに驚くとともに、こうして人を信頼できることの幸福を思った。もちろん、それなりにリスクはあるだろう。こうして次々に人を泊めていれば(あとから聞くと、この2ヶ月だけで30人も泊めたらしい)、多少ものがなくなったり、壊れたりということはあるだろうと想像できる。
 しかしそういう可能性があったとしても、きっとこうして見ず知らずの人を信頼し、交流していくことは、リスク以上の価値を与えているに違いない。彼はきっとこうやって得られる人間関係が楽しくて仕方がないのだろう。
 一方、泊めてもらう側からすれば、信頼されていると感じるのは心地よい。そうした信頼を付与されたとき、人は実際にはそれを裏切ることはそうそうできなくなるのかもしれない。そんな気もするのだった。

 セルジャンの家に荷物を置いて、まるで自分の家から出かけるようにスーパーに食材を買いに行った。それからぼくらは家に帰ってトマトソースのパスタを作った。しばらくすると、セルジャンが言っていたように、香港人とアメリカ人がやってきた。みなセルジャンの家に泊めてもらう人たちだ。互いに出会ったばかりながら、あまり違和感を持つことなく、すぐに打ち解けていった。
 そしてセルジャンが仕事を終えて戻ってきたころを見計らって、みなで乾杯して一緒に夕食を食べたのである。

「はじめまして!よし、食べよう!」

 セルジャンの家にも3泊させてもらい、その間に、イスタンブールを見て回った。
 ブルーモスク、アヤソフィアなどの重厚な建築物を見学し、オールドバザールやスパイスバザールでこの大都市の賑わいを実感した。ニュータウンでは西洋の都会らしい近代的な空気に触れ、バーでセルジャンの友だちたちともイスタンブールの夜を楽しんだ。

第98回

セルジャン(右端)の家での「はじめまして」の夜。

 そしてある夜、ボスポラス海峡の西岸にあたるヨーロッパ側にかかるガラタ橋の上で、釣りをする人たちと並んで、妖艶に光るいくつかのモスクと黒い水面を眺めていると、ぼくはいつの間にか、こうも思い始めていることに気が付いた。

 いつか、イスタンブールに住むことができたら――。

 ぼくは、これまで他の都市で経験したことがないほどこの町に惹かれているのを感じていた。トルコで得た数々の印象的な出会いと、セルジャンやアルプといった人たちとの交流が、大きくこの町の印象を作り上げた。
 いずれにしても、少なくともいつかまた、イスタンブールにはゆっくりと腰を据えて来てみたいとぼくは思った。モトコがどう思っているかは分からない。でも彼女もきっとぼくの気持ちに近いはずだと想像した。

 そうしてイスタンブールを堪能していたときのこと。
 ぼくは一方で、とても気になるニュースに接してしまった。セルジャンの家でイギリスBBCをネットで見ているときにふと目に入ったニュースだった。記事をさっと見て、すぐに関連の動画を再生しながら、ぼくは画面にくぎ付けになった。
 そしてそばにいたモトコに、思わず声を大きくしてぼくは言った。

「ちょっと見てみなよ。チベットがなんかすごいことになってるらしいよ。ラサで大暴動だって・・・」

動画を見ると、見慣れたチベットの町並みの中の店舗や車に、チベット人らしい群衆が怒声を上げながら群がっている。チベット人たちが車を倒し、車が炎を上げている。
 粉々に壊された店舗の外観も映し出された。そしてそこに中国の警察や軍隊が一気に押しよせる。

「いったいどうなってんだよ、これ・・・」

2008年3月のことである。北京オリンピックを前にして、中国が大きく揺れ始めていることをぼくは感じた。遠くトルコにいながら、そのニュースが気になった。落ち着かない気持ちで、ぼくは動画も見続けた。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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