遊牧夫婦

第99回 従弟との一週間

2013.05.12更新

 チベットでいったい何が起きているのか、ネットでニュースを見ているだけでは、正確なことはほとんどわからなかった。
 中国側が外国人や報道陣などを締め出して事態をベールに包んでしまったからである。
 ただ、たまたま現場にいわせた旅行者やジャーナリストなどから漏れ出た写真や情報はわずかながらあった。そうしてその後1カ月ほどの間にネットやメディアなどで流れた情報から統合すると、概ねこんなことのようだった。

 3月14日、ラサにおいて数日間続いていた中国の統治に対するチベット人らのデモが一部暴徒化して、店舗への放火・略奪などを行った。それを制圧するために中国側が銃撃などの手段に訴え、混乱は激化した。暴動は複数地域に広がり、ここ20年近い間にチベットで起きた最も大きな騒乱となった。

 発端は、チベット人僧侶を中国の武装警察が不当に殴打し拘束したことだとも言われた。その一方で、チベット人の過激なグループが積極的に暴動を先導したという見方も完全に否定できる材料はなかった。いずれにしても、8月に北京オリンピックが開催されるこの年、この事件が国際的に大きく注目されることは必然だった。

 死亡者の数なども中国当局とチベット亡命政府の発表では大きく異なり、まるで別のできごとについての発表であるかのようでもあった。誰にも正確なことはわからないのだ。
 これだけ状況が混沌としていると、結局この騒乱をどう見るかは、その人がチベット問題をどう見ているかを表す鏡のようなものだったのかもしれない。

 ぼくは、ネットでいろんな記事を見ながら、複数の要因が複合的に絡み合っているのだろうとは感じた。しかしやはり最大の問題は、中国がチベット人を長年抑圧してきたことにあるという気持ちがあり、今回、現地からの仔細な報告を読んでも、中国の警察による横暴な振る舞いがきっかけなのだろうと自分は信じた。
 そしてさらに、暴動に対して発砲など過剰な手段で応戦した上、状況を隠ぺいし情報を遮断しようと躍起になる中国政府のやり方を見ながら、そういった姿勢こそが、この問題の核心をなしているのだろうということを改めて感じていた。

 世界全体を巻き込んだ大事件へと発展するのか。それとも、北京オリンピックを前に、中国も国際社会も穏便にことを収めようとするのか。この問題がどう発展していくのかが気になった。

 しかし自分たちにできることは、ネットのニュースを見ることぐらいしかなかった。とりあえずニュースを追ってその動きを確認しつつ、ぼくたちは居心地のいいイスタンブールから腰を上げて、西への移動を再開していた。

 ラサでの騒乱がもっとも激しくなった14日に、ぼくの従弟が日本からイスタンブールに来てくれた。休暇を取って一週間だけぼくらと一緒に旅をすることになったのだ。
 ぼくらが昆明にいたときは昆明にも遊びに来てくれた彼は、ぼくにとってとても居心地のよい旅の同伴者だった。

 「どうせ来るなら、国境を越える移動とかがあった方が面白んじゃない? 」

 そうぼくが提案したこともあって、従弟は21日に日本に帰ることになっていたものの、帰りの飛行機をギリシャの首都アテネ発でとっていた。だからなんとしてでも、この一週間でアテネまで行かなければならなかった。余裕を見て19日にはアテネに着いていたいと思っていたが、ヒッチやバスや船などいろんな交通手段を利用しても、5日もあればすんなり行けるだろうと想像していた。
 そうして従弟とともに、ぼくらは3人でイスタンブールを出発した。

 従弟は、自分よりも背が高く180cm半ばもある。そんな大きな男が一人加わって3人になっても、トルコ人たちは変わることなく車に乗せてくれた。その日目指していたトルコ最北西部にあるエディルネまで、イスタンブールからは250キロ。エディルネの手前20キロほどまでは黄色い大きなトラックで一気に乗せていってもらい、そこからエディルネの町中までは、パン屋の車に乗せてもらった。
 人の良さそうなパン屋さんは、ほとんど躊躇することなく、
「狭いけど、ここに乗れるのなら乗っていっていいですよ」
 とぼくらも招き入れてくれたのだ。

 信じられないほどみな親切だった。日本で逆のことが自分たちにできるだろうか。そう一瞬考えた。
 したいとは思う。しかしその場になったら何か自分の中で言い訳をつけて通り過ぎてしまうかもしれない。
 そう考えると、これだけの確率で車が止まってくれるというのはじつに驚くべきことであることが実感できた。

 エディルネに泊まった翌日、ぼくらはギリシャへと国境を越えた。

「これが国境か・・・。なんかワクワクするなあ」

 興味津々な様子でギリシャ側へと向かう従弟を見ながら、やはり国境線というものが持つ不思議な魅力を改めて思った。
 と同時に、これまで中国からいくつもの国境を越えてきたことによって
「国境ってのはさあ・・・」
 と、思わずわかったようなことを言ってしまいそうになる自分を戒めた。

 公園のような緑に囲まれた国境をギリシャに向かって歩いていく。隠れて写真を撮っていると、トルコ側の職員は笑顔を見せながらただ軽く、
「写真はだめだよ」
 と言うだけののどかさがあった。
 入国審査も、鳥のさえずりでも聞こえてきそうな場所ですんなりと終わった。
 しかしいったん国境を越えてギリシャ側に入ると、小さな砲台のようなものも並び、トルコ・ギリシャの両国が抱える緊張した関係も見え隠れする。そしていよいよここから通貨がユーロとなり、ぼくらはEUに入ったことを実感した。

「順調にギリシャまで来られたね。この調子でヒッチして、行けるところまで行ってしまおうか」

 そう話して、国境から幹線道路まで歩いていき、
「さて、今度はどんな車に乗ろうかな」
 とそれぞれのバックパックを道端に置いて再びヒッチを開始した。
 しかし、どうしたことか、まったく車は停まってくれない。

「おーい、止まってくれよー!」

 通り過ぎていく車に向かってぼくも従弟も時折叫んだ。だがもちろん効果はない。そして1時間以上、交通量の多い道路沿いで粘ったものの、見事に1台も止まらなかった。
 いや、正確には2回、ぼくらの前で車は停まったのだが、それはいずれも警察だったのだ。

「何やってんだ? ヒッチハイク? そんなのは無理だからバス停に行きなさい」

 警官たちに簡単な英語でそうたしなめられる始末だった。

「国境を越えるってこういうことなんだなあ・・・」

 ぼくもモトコも従弟も、もうトルコではないことをこのとき強く思い知った。
 結局ギリシャに入ってからは、一度もヒッチで車に乗せてもらうことはできず、バスと電車でアテネに向かうことを余儀なくされた。時間制限があったということもあるけれど、トルコとはまったく違った旅になった。

 中国人との出会いが増えたのも印象的だった。一度は、アレクサンドロポリという町で、バスを降りて宿を探しているときに、
「自分はギリシャ語が話せるから、一緒に宿探しをしてあげる」
 といって、ギリシャで2年商売をしているという中国人が現れた。
 そして宿を見つけては交渉をしてくれるのだが、よくよく聞いていると、
「4人2部屋で60ユーロだ、これ以上安いところはないよ」
 と、なぜか彼も頭数に入っている。

「なんであなたも入ってるんだ? 」
 と聞くと、
「え、おれも一緒に泊まるんだよ」という。
 まったくわけのわからない男だった。
 けれど、この強引な勢いが中国っぽくて思わずぼくは笑ってしまった。その翌日に着いたテッサロニキには、中国人街らしき一画があり、夜には久々に中華を食べた。
 その中華料理屋は、看板も何もないビルの2階にあり、
「来、来、来(ライ、ライ、ライ)!」
 と店員に誘われて上がっていくと、中では中国人たちが中国そのままの雰囲気で、円卓を囲みながらガハハハーと言いながら食事をしている。その空気が懐かしかった。
「中国って、なんかあったかくて憎めないし、いいんだよな・・・」
 と、ほっとしている自分に気がついた。

 中国人は本当にタフなのだ。グルジアのゴリで店を開いている中国人に会ったときにも思ったけれど、何にも動じなそうなこういうタフさは、ぼくにとってはどこか憧れる要素でもあったりするのだ。

 一方、ギリシャの風景はどこもじつにギリシャらしかった。列車からは白い家が数多く見え、空はいつも青かった。テッサロニキは、町中にアリストテレスの像があり、また町に隣接する海からは、その先にエーゲ海が広がっていると思うと、その名前だけでロマンチックな気分になれた。


 その海を越えて、テッサロニキからアテネまでは船で行こうと思っていた。エーゲ海を船で行くという響きがなんとも捨てがたかったのだ。
 時間はなかった。でもとりあえず調べるだけは調べてみよう。そう話して、近くの旅行会社に駆け込んだ。するとやはり、時間的にとても無理なことがすぐわかる。
「仕方ないな。バスで行くしかないな」。
 深夜発の夜行バスに乗ることにした。そして朝にアテネに着き、カウチサーフィンで見つけた25歳のエレクトラという女性のうちに朝早くから転がり込んだ。

 エレクトラの家は市内の中心部近くにあった。訪ねるとエレクトラは留守だったが、ルームメートのグリケリアという金髪の女性がにこやかに迎えてくれた。「エレクトラから聞いてるわよ。さあ、部屋に案内するから上がって」。年季の入ってそうな建物だが、中はこぎれいに装飾されていて、居心地がよさそうだった。

 そうしてようやくイスタンブールからの移動の日々がひと段落した。ひとまず従弟も無事に帰りの飛行機に乗れそうだった。
 
 アテネはそのころ混沌としていた。
 ちょうどぼくらが訪れた時期、大通りでは大規模なデモがあり、交通機関などでストライキも行われていた。ギリシャ文字の横断幕が読めないために何のデモかわからなかったが、あとから聞くと、間もなく成立する見込みの年金改革法案へ反対して労働者たちが起こしたものらしかった。

 旅をはじめてからネットやテレビでイギリスBBCのニュースはよく見ていたけれど、ギリシャのことが大きく出てくることは記憶する限りあまりなかった。
 しかしぼくらがアテネに到着した日のBBCではアテネのストライキが大きなニュースになっていた。それだけ大きなできごとだったのだ。

 一方、この前月の2月に、大統領選挙の際に滞在したアルメニアの首都イェレバンでは、その後デモが暴動に発展し、8人が死亡して非常事態宣言が出されたというニュースもやっている。そしてもちろん、チベットのその後の様子も気になっていた。

 身近な場所が増えていくと、いろんなニュースが身近になる。
 あの人はいまどうしてるだろう――。
 そう思って、顔を思い浮かべられる人も増えていく。そうして世界が近くなるのだ。

第99回

アテネ市内で起きていたデモ

 夜、エレクトラの家に帰り、ぼくらは彼女たちと一緒に話をした。
 エレクトラとは、初めて会ったとは思えないほど、すぐに意気投合した。その後2、3日一緒に過ごしただけだったのに、なぜかずっと前から知ってる友だちのような気持ちになった。
エレクトラは、ギリシャ彫刻のような彫の深い顔にラテン気質な明るさを備えていた。彼女は当時学生だったが、心底旅が好きだったようで、大学を終えたらとにかくどこかに行きたいという情熱にあふれていた。ぼくらが彼女の家に行ったときも、間もなくしたら、しばらくどこかへ旅に出る予定だと言った。

「ユウキたちの旅のことを聞いて、私ももっともっと旅がしたくなった。本当に二人の生活は素晴らしいよ」

 エレクトラがそうやって言ってくれるのを聞いて、ぼくは逆に自分たちの日々がいかに貴重なものであるかを再認識させられた。
 ぼくにとっては、もうそんな旅の日々は間もなく終わるだろうと感じていて、それはそれでいいと思っていたし、いまがどれほど贅沢で豊かな毎日なのかがわからなくもなっていた。
 でもたしかに、エレクトラが言うように、ぼくらは本当に素晴らしい生活をしていたにちがいなかった。
 かけがえのない経験をしているにちがいなかった。

 日本で仕事に戻らなければならない従弟は、予定通り帰国した。
 ぼくたちは地下鉄で彼に別れを告げた。彼の日本での生活が再び始まる。
 そう思うと、「おれもがんばんなくっちゃな」と思うことができた。
 こうして日本での家族や友人たちの生活を肌で感じることはいつでも自分にとって強い刺激となるのだった。

 その翌日、エレクトラもアテネを離れることになったので、ぼくらも彼女の家を出た。そして、アテネでまた別のカウチサーファーの家に泊めてもらったあとに、船でエーゲ海の島に渡った。
 一番行きたいと思っていたのは、アモルゴスという島だった。『グラン・ブルー』という映画の撮影に使われたことで知られる島だ。
 アモルゴス島自体は、それほど知られた存在ではないらしいものの、ぼくもモトコも『グラン・ブルー』が好きだったため、それだけの理由で行きたいと思った。あの美しい映画を撮るためにリュック・ベッソンが選んだ島であるとすれば、美しいにちがいない。

 そしてモトコはこうも思っていたはずだ。もしかしたら、イルカにまた出会えるかもしれない、と――。『グラン・ブルー』は伝説のダイバー、ジャック・マイヨールの話で、その中でイルカが一つの重要なモチーフとなっているからだ。

 アモルゴスでイルカを見ることはなかった。
 しかし、その美しさは想像していた以上だった。白と青で統一された街並みには息をのんだ。断崖にへばりつくように建てられた修道院は、静謐であると同時に猛々しかった。そしてそのすべてが、決して観光客向けに作られた雰囲気はなく素でこうなっているのだ。シンプルであっさりした白と青の爽やかな美しさが、素晴らしい。

 その上、オフシーズンだったこともあり、いい宿が驚くほど安かった。ベッドルーム2つに、キッチンとリビングがついた新しくとてもきれいな家を丸ごと借りて、2人で1泊25ユーロでしかなかったのだ。もちろん、アジアにいたころに比べると格段に高いけれど、このころは本当に安く感じるようになっていた。

「こんな贅沢な日々を送っちゃっていいのかな・・・」

 ぼくもモトコも、エーゲ海を見渡しながら、贅沢なひとときを楽しんでいた。

第99回

アモルゴス島の教会

第99回

アモルゴス島で泊まっていた部屋からの眺め

 そんな体験をして、ぼくらは再びアテネへと戻ってきた。
 エレクトラはすでにドイツに旅立っていて不在だった。でも、ルームメートのグリケリアが今度は代わりにぼくらのホストになってくれた。
 グリケリアもとても親切で楽しい女性で、その彼氏のユルゴスも交えて、ぼくら4人は数日でとても仲良くなった。一緒に食事に行ったり、夜、彼女たちの仕事が終わった後にドライブに連れて行ってもらったりした。
 グリケリアは、エレクトラよりもぼくたちに歳が近く、より感覚も近い気がした。
 また彼女とユルゴスは漫画好きで、グリケリアは『デスノート』の大ファンだと言い、ユルゴスは『鉄コン筋クリート』が好きだと言った。ぼくらは彼らに、日本の漫画について教えてもらった。

 そんな二人と、暗くなった夜のアテネを走りながら、歴史あるオリンピックスタジアムをそばまで行って眺めながら、これからどういう生活をしていくのか、仕事はどうするのか、お互い子どもはほしいのか、どこに住みたいか――。あらゆることを話し続けた。
 グリケリアやエレクトラと過ごすうちにぼくは、いつかアテネにも住んでみたい、と思うようになった。自分にとって旅の一番の醍醐味は、人との出会いなんだということを再確認した。その町がどんな町なのかを思うとき、浮かぶのはいつもそこで出会った人なのだ。

 ぼくはそんな気持ちで心の中を満たしながら、モトコとともにアテネからバスに乗り、ペロポネソス半島のパトラという港まで行った。時間ぎりぎりで到着して、飛び乗るように船に乗った。

第99回

ギリシャを離れ、船でイタリアへ!

 船が港を離れていく。エレクトラやグリケリアの顔を思い出しながら、離れていく港を眺め続けた。いよいよ次はイタリアだ――。

 気がつくと、もう4月になっていた。

第99回

エディルネ(Edirne)の先で国境を越えてギリシャに入る。 アレクサンドロポリ(Alexandroupoli)、テッサロニキ(Thessaloniki)を経て アテネ(Athens)へ。そしてエーゲ海上のアモルゴス(Amorgos)島と サントリーニ(Santorini)島を訪れたあとに船でイタリア・バーリ(Bari)へ上 陸。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

バックナンバー