遊牧夫婦

第100回 筆走るイタリア

2013.05.19更新

 ガラガラの大きなフェリーに一晩乗って、イタリアのいわゆる「ブーツのかかと」あたりにある港町バーリに着いた。

「気を付けて降りてくれ。じゃあな」

 フェリーのスタッフにそんなひと言で見送られるだけでぼくらはその外に出た。一歩出ると、雨が冷たく、港の地面には複数の水たまりができていた。
 その中を早足で歩きながら、
「本当にパスポート見せなくていいんだなあ」
 ぼくはモトコにつぶやいた。 

 EU圏内は陸路や海路で国境を越えればパスポートチェックがないらしい、というのは聞いていた。しかし、実際にギリシャからイタリアに入るのにまったくパスポートを出す必要がないことには改めて驚かされた。
 ギリシャでフェリーに乗るときも、「日本人か?」と聞かれ、「はい」といったら「じゃ、OK。乗って」と言われただけ。それだけで国境を越えられてしまったのだ。これは本当にすごいことに思えた。

 これまで複数の国境を越える中で、国境という境界線の両側でどれだけ世界が変わるのかを実感してきた。EUをなす国々は、言葉も文化も歴史も抱える問題も大きく異なる。そういった複数の国が境界線をなくすというのは、想像以上に大変なことに違いない。
 しかし、大変であるのは承知の上で、その壮大な試みを実践しているのがEUなのだという実感が、イタリアに入ることで感じられた。

 東海岸のバーリから、マテーラ、そして西海岸のナポリへ。

第100回 筆走るイタリア

マテーラの町並み。13世紀や15世紀に 建てられた建造物がゴロゴロしている。

 各町の表面を軽く撫でるように見るだけで、どんどん先を急ぐことになった。物価が高かったこともあるし、疲れて切っていたということもあった。マテーラの中世さながらの町並みは強く印象に残ったし、ピザ発祥の地と言われるナポリで食べたピザも極上だった。
 しかし、自分にもモトコにも、もはや、細かく移動していろんな場所を見て回ろうという気力が十分になかった。体力的にも金銭的にも、ぼくらは疲弊しきっていた。

 その上、たまたまぼくはこのころ仕事が重なり、複数の原稿を短期間で書かなければならないということもあった。夜にゲストハウスで、または列車での移動時間でといった具合に、原稿を仕上げることに必死だった。

 ひとつは、ギリシャの最底辺に暮らすロマ、いわゆるジプシーについて。
 ひとつは、中国で出会ったイスラム教徒について。
 ひとつは、国境に関する連載のアルメニア・グルジア編。

 普段は、嫌気がさすほど暇な日が続くこともあるのに、このときはやたらと忙しくなってしまっていた。

 原稿と格闘しながら、ナポリから一気にローマまでへ来た。そしてローマの町並みを見ていよいよ、イタリアという国の確固たる意志を感じたような気がした。
 首都であっても決して経済には振り回されない。文化や歴史が主役であり、それこそが何よりもの財産である。そのことに疑いをはさむ余地はない――。
 町全体が無言でそう語りかけているように思えたし、この国では誰もが当然のこととしてそう考えているのだろうと想像できた。

 町全体から匂い立つその強い意志に、イタリアの力強さを感じた。原稿の進み具合が気になりつつも、ローマの有名観光スポットはやはり見ておきたいとぼくは思った。

第100回 筆走るイタリア

ローマのコロセウム。

 特に衝撃を受けたのは、ローマでの最大の見どころの一つであるバチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれた「最後の審判」と「天地創造」だった。
 凄まじい数の観光客の中の一人となって、狭い回廊をずっと並んで進んでいった。目的の場所にたどり着くまでは本当に距離が長く、まだかまだかと思いながら1時間も歩いただろうか。

 それだけ期待が高まったというせいもあったかもしれない。礼拝堂内の天井と祭壇に、ミケランジェロが描いた圧倒的な世界が現れ、視界に入ったとき、思わず全身がゾクッとした。
 絵のすごさももちろんだが、それ以上に、500年も前にまさにこの場所で、何年もかけてミケランジェロ本人がこの壁に描いていたんだと思うと、自分がいま歴史の中にいるような錯覚におちいったのだ。

「上からたれてくる絵の具でミケランジェロは視力を失いそうになりながらも仕上げたらしいね。大嫌いだったダ・ヴィンチに対して、『チクショー、負けるか!』って思いながら・・・」

 どこかで読んだにわか知識を知ったかぶりでモトコに話しながら、しかしぼくはその状況を思い浮かべて心から感動していた。物を生み出すとはこういうことなのか。
 自分はまだ何も生み出したと言えるようなものはないけれど、自分の分身と呼べるような何かをいつかこの世に送り出したいという気持ちはある・・・。
 ずっとこの絵を見ていたいと思った。そんなことは初めての経験だった。

 惜しみながらその場所を後にした。見終えたときには、システィーナ礼拝堂を含むバチカン美術館全体を4時間かけて見たことになった。

 ぐったりと疲れて宿に戻ると、すぐに頭は、自分がいま終えなければならない仕事のことでいっぱいになった。
 というのもこの日の朝、また新たに書くべき原稿が増えたからだ。
 しかも他の原稿以上に時間がかかりそうな仕事だった。イスタンブール以来気になっていたチベットでの出来事について、週刊誌に書かないかと言われたのだ。
 経緯はこうだった。

 ぼくは、あの騒乱が起きて以来、いろんなニュースを追ってきた。
 チベットの状況を正確に知りたいと思い、ネットで見られる範囲ではあらゆる報道を見ようとしてきた。正確なことはわからない。ただ、発端がどうであれ、一部のチベット人による激しい破壊活動があったことは間違いない。

 しかしそれに対しての中国の制圧の仕方はあまりにも過剰であるようにぼくには映った。何が正確な情報なのかを知ることは極めて難しかったが、中国の軍や警察の発砲によって多数のチベット人に死者がでていることは間違いなさそうだった。

 チベットにいる友人から送られる内部からの情報も見て、チベット人が苦境に立たされているらしい状況も知ることができた。そうした情報に触れながら、非難されるべきは中国なのだと強く感じた。

 そして、そう思えば思うほど気になることがあった。それは、日ごろ人権問題や世界の平和構築などに熱心な、あえて言い方を変えれば、一般的に左寄りと見られているメディアや団体が、ほとんどこの問題に触れていないらしいことだった。
 ぼくが頻繁に記事を書かせてもらっていた週刊誌もそうだった。その週刊誌はチベットの出来事から一カ月が経とうとしていたにもかかわらず、ネットで目次を見るかぎり、まったくこの問題に触れていないようだったのだ。
 それがとても不可解だった。

 やはり中国寄りということなのだろうか? だから中国の不当な弾圧に関しては声が小さくなってしまうのだろうか? そんな想像をし始めると、気になって仕方なくなった。
 そしてぼくは、いつも原稿を担当してくれていた編集者にメールで直接聞いてみた。
 なぜ貴誌では、この問題にまったく触れないのか、と。すると、すぐに返信が来た。
 こうあった。

 「意図的に触れていないのではない。ただ単に人手が足りずそれに関する記事を書くことができないでいる」

 と。そしてそのメールの中で編集者は、よかったら近藤さんが書いてくれないか、とぼくにその仕事を依頼してきたのだ。今回の出来事に関連してチベット問題の全体を概説するような原稿を、と。
 締切がかなりタイトだったものの、自分から提案したようなものだったこともあり、やるしかないと思った。そして何よりも、その週刊誌を含め親中的なメディアが口をつぐんでいる状態に違和感を覚えているという気持ちを、そういったメディアで表明することは意味があることだと感じた。
 イタリアにいる自分に書けることは限られてはいる。ただ、現地チベットにいる人間に連絡が取れるため、その人に取材をすることで、何かが書けそうな気はした。

「わかりました。やらせていただきます」

 そう返信した。

 その翌日からローマ近くの小さな村に数泊したあと、フィレンツェへ移動した。
 ルネサンスの中心地だけあり、さすがに至宝で満ち溢れていた。日中は美術館を回ってその数々を見る一方、ゲストハウスに戻るとチベットに関して調べ、書いた。
 現地に住む知人にも細心の注意を払って連絡をとり、状況を教えてもらった。電話の盗聴やメールの検閲などにも注意しないといけないとのことだったので、メールもわざとめちゃくちゃな漢字を使って書いたりした。

 彼女の対応や言葉から、現地の緊迫した様子が伝わってきた。
 彼女がいたのはデモや騒乱が起きた場所ではなかったものの、みなどこで盗聴されているかわからないとおびえながら暮らしている、遠出したり集団で行動することが事実上制限され、必要な仕事ができず経済的にも打撃を受けている・・・。

 そんなことを伝えてくれた。そして彼女は、自分たちの名前はもちろん、場所も決して特定できないようにしてほしい、と念を押すように書いていた。

 そうした内容のメールを、賑やかなゲストハウスのコンピュータスペースで読んだ。それを、自分が知っているチベットの風景と頭の中で重ねながら、バックパッカーたちの隣で、急いで記事を書いていった。

 フィレンツェに3泊した翌日、ぼくらは水の都ベネチアまで移動した。
 物価があまりにも高く(1ユーロ=170円程度まで値上がりしていた時期である)、安宿とはいえとても中心部に泊まれそうにはなかったので、少し郊外にある、主に車で来ている人用のキャンプサイトに泊まることにした。そこで連日夜中まで原稿を書き、締切日の朝、近くのネット屋さんで原稿を送信してひと段落となったのだった。

第100回 筆走るイタリア

ベネチアのサンマルコ広場にて。鳩がすごかった記憶。

 川が道のように町中を走るベネチアでは、観光客の数の多さが印象的だった。だが、快晴の空の下、サン・マルコ広場でクラシックの生演奏を聞いていると、ああ、ヨーロッパにいるんだな、という気分が高まった。
 その5日後、原稿は雑誌に掲載となった。2ページだけの記事で、大して目新しい情報を含むものでもなかったけれど、ただ、自分が一番訴えたかったことは、そのまま何も修正されることなく載せてもらうことができたのはありがたかった。ぼくは、その記事の最後の部分をこう結んだのだ。


 今回の騒乱で、当然のことながら国際社会は中国政府への非難を強めている。
 日本では、政府の対応はあまりに形式的なものに終始しているが、インターネットなどを通じた個々人による活動が大きな動きを作っているようだ。その一方で、これほど重大な出来事であるのにもかかわらず、人権や平和への意識が高い団体やメディアの多くが、沈黙に近い状態でいるような気にかかる。
 もし、人権や平和を大切にしているはずの人々が、中国の顔色を窺ってチベット人への弾圧に目をつぶっているとすれば、それは非常に残念な、憂慮すべきことである。
 日ごろ中国を気にかけている人たちこそ、いまはっきりと中国に抗議すべきなのではないだろうか。私も中国に二年半暮らし、この国へは非常に親近感がある。だからこそ中国には、自らの過ちを見つめ直してほしいと、強く願っている。
                  (『週刊金曜日』2008年4月25日号)


 ネットを見れば、中国が嫌いだからチベットを支持するという人が多いことはすぐわかる。チベット問題を、中国を叩くために利用しようとするスタンスには、ぼくは大きな違和感を持っていた。だからこそ、改めて見直すと自分の感情だけが先走ったような青臭さを感じるものの、その気持ちを率直に書いた。
 この記事が出たころ、ぼくらはすでにイタリアを出ていた。ベネチアから一気に列車に乗ってスイスへと国境を越えた。そして、オーストラリア・バンバリー時代の知人が住むトゥーンという町にやってきていた。

第100回 筆走るイタリア

バーリ(Bari)からイタリアに入って、徐々に北上して スイスのトゥーン(Thun)へ。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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