遊牧夫婦

第102回 オランダで対峙した中国の友人

2013.06.02更新

 オランダで泊めてもらうことになっていたのは、バンバリー時代のボランティア仲間だったクリステルだ。彼女にはレミーという付き合いの長い彼氏がいて、ぼくらは彼ら二人と、バンバリーのみならず、大陸縦断のバンの旅の途中でも何度も一緒になったりして、親しくしていた。
 しかしぼくらがオランダに行くと連絡したとき、クリステルから驚くべき返信が来た。

「とても残念な報せになるけど、2週間前にレミーとは別れたの。こんな日が来るなんて思ってもいなかったからいまは本当にショックで・・・」

 あの二人が別れたって? すぐには信じられなかった。
 クリステルとレミーは、とても息の合った二人だった。結婚こそしていなかったものの、ほとんど夫婦みたいなものだった。

「ユウキとモトコはなぜ結婚してるんだ? 結婚することにどういう意味があるんだ?」

 バンバリーにいたころ、半ばからかうようにレミーがそう聞いてきたのが印象的だった。ぼくは答えに窮してしまった。そんな制度には縛られたくない、二人が互いに好きであればいいじゃないか。レミーもクリステルもそう話した。つまり彼らは、結婚していなくとも事実上夫婦同然だった。だからこそ、驚いたのだ。

 いま非常に辛い時期を過ごしている――クリステルはメールにそう書いていた。文面から彼女の悲痛な思いが伝わってきた。しかしそんな時期だからこそ、二人が来てくれるのは本当にありがたい。いくらでもうちに泊まっていって! 彼女のその言葉は、社交辞令ではなさそうだった。

 ぼくらが到着する予定の日、クリステルは仕事のため家にいないという。

「庭の物置にカギを置いておくから、勝手に入って自由に過ごしてくれていいよ」

 言われた通りに電車とバスを乗り継いで、オランダ南部、ベルギーとの国境のすぐそばのアクセルという小さな町のクリステルの家を訪れた。

第102回 オランダで対峙した中国の友人

アクセルの静かな町並み

 アクセルは、芝生と木々の緑がどこでも視界に入ってくる静かで落ち着いた町だった。クリステルの指示通りに歩いていくと、彼女の家はすぐに見つかった。煉瓦造りのこじんまりとした家だった。庭に回り物置を見るとカギはあった。そうして、誰もいない家にぼくらは入っていった。

 翌日は二人で勝手に過ごさせてもらった。洗濯をして、ご飯を食べて、散歩して、パソコンでドラマを見て、本を読んで、あと少しだけ仕事をした。夕食にはドライカレーを作って食べ、また二人でドラマを見た。

 そんな優雅な一日を送った翌日のこと。朝起きると、1階のソファーに、夜勤の仕事を終えて帰ってきたクリステルがいた。

「ヘイ、ガーイズ!」

 オランダ人らしい大柄な体で、モトコをぎゅーっと抱きしめた。ぼくも軽くハグをした。オーストラリアでバンの旅を終えてダーウィンで別れて以来、4年ぶりの再会だった。黒い髪と黒い目の、以前と変わらぬ明るい笑顔で現れた。

「よかった、想像してたより元気そうだ」

 そう言うと、いや、そんなことはないの、じつはレミーと別れてからこの家で夜を過ごすことはまだできてないの、と言った。

「できるだけ仕事をたくさん入れて家に帰らないでいいようにして、それ以外のときはずっと友だちの家などに泊まっていたの。この家で一人で寝るなんてできなかった。だから、モトコとユウキが来てくれて本当にうれしい。でも少しずつ、ひとりでいることに慣れないとね・・・」

 ぼくらは、少しは彼女にとっての気晴らし的存在になれているらしいことにほっとした。そして、そのことを言い訳にして長々と彼女に家に滞在することになったのだ。

 クリステルは看護師をしていた。シフトによって毎日の仕事の時間は異なったが、彼女がいるときはいつも、庭で3人そろって朝食をとることから一日が始まった。パン、ハム、チーズ、サラダ、オレンジジュースにコーヒーや紅茶を庭のテーブルに並べて、気のすむまで3人で座って話し続けた。レミーとのこと、仕事のこと、家族のこと、バンバリーを出てからのぼくらの4年間の旅のこと・・・。
 彼女が休みのときは日中も一緒にどこかへ出掛け、夜は彼女の行きつけの「ピープル」というパブに一緒に行って、彼女の友だちとも親しくなった。オランダ人は一般にみな本当に英語がうまく、オランダ人同士でもぼくらがいるとみな何の違和感もなさそうに互いに英語で話してくれる。だからじつにその輪に入りやすかった。

 毎日のようにぼくらは何時間も話し込んだ。家の庭で、家のソファーで、車の中で、バーで、またはレストランで・・・。
 バンバリーのころは、こんなに話したことは一度もなかった。あのころはお互い、毎日が日曜日のような生活を送っていて、ただ毎日を楽しんでいればいいだけだったからかもしれない。しかしこのときはそうではなかった。お互いに今後の生き方について真剣に考えなければならない状況になっていたのだ。
 そんな中でクリステルは、レミーとのこと以外に、彼女がもう一つの大きな問題を抱えていることを教えてくれた。それはすぐそばに住む母親のことだった。

「お母さんは、もういつ亡くなってもおかしくない状態なの。二年前に肝臓癌を宣告されて手術をしたけれど、その後に転移が見つかって」

 あるときクリステルはそう話してくれた。家族はみな覚悟をし、母はそれからいつも、これが最後の誕生日、最後の夏、と思いながら過ごしていたが、幸運なことに何事もなく、それから2年を過ごすことができていた。

 母親の前向きな明るさも力になった。ぼくらはクリステルの実家にも連れて行ってもらったが、母親の、余命わずかとは感じさせない陽気さに驚かされた。もしかすると、それは強い信仰心のせいなのかもしれないと、ぼくは思った。

 アクセルは保守的な土地柄だ。村の生活の中には常に宗教があるようだった。
 両親が敬虔なプロテスタントであるクリステルにとっても神の存在は幼いころから当然のものだった。しかし、幼少期の出来事が彼女を宗教から遠ざけた。
 子どものころ、母親の愛を感じられずに育ってきた、と彼女は言った。だからクリステルは、他の家族の中に第二の母親と呼べる人を見出した。その女性を自分の母親以上に身近に感じて慕うようになったが、しかしその女性とは思わぬ別れがきてしまった。

「私がまだ十代半ばのときにその人は亡くなってしまったの。そのとき、神の存在を疑い始めたの。やっと出会えた大切な人をどうして神は奪ってしまうのか、わからなくて」

 数年かかって神と自分の関係を完全に切り離した。それによって母との距離はもっと大きくなっていった。母とは何も深い話をしなくなった。
 その一方、クリステルの弟は敬虔なプロテスタントとして育ち、大人になった。

「弟は母親以上に厳格な教会へと所属を移したの。そして、生きているうちに子どもの結婚式を見るという母親の願いを叶えるために、弟は予定を早めて7月に結婚することにしたのよ」

 結婚に価値を見出さないクリステルとは逆に、弟は結婚に重きを置いた。そしていつ最期のときが来るかわからない母親に対して、息子としてできることをしてあげたいと考えていた。
 
 クリステルと彼女の弟の対比は、オランダという国全体にも当てはまるのかもしれない。 「古き良き」と形容されそうな彼女たちの保守的な村でも、近くには大きな「コーヒーショップ」がある。オランダ独特の、合法的な大麻販売店だ。客の多くは隣国ベルギーやフランスの若者で、彼らは車に大麻を載せて少し酩酊しながら、宗教で包まれた静かな世界を通り抜け、EUらしいチェックのない国境を越えて母国に戻っていく。

第102回 オランダで対峙した中国の友人

マリファナを吸いに「コーヒーショップ」にやってきた若いカップル。

 文化とも言えるリベラルさと、伝統を重んじる人びとの生活が、オランダではすぐ隣にある。しかしその頃、オランダのリベラルさは、キリスト教系の保守政権によって少しずつその姿を変えようとしていた。

「首相のバルケネンデは私たちの遠い親戚なのよ」

 母親はうれしそうにそういった。保守的な政権をやはり彼女は好む。一方で、保守的な価値観や宗教から距離をおくクリステルは、笑いながらこう返す。

「遠すぎて、親戚って呼べるほどではないじゃないのよ、実際は」

 しかし、そんな会話すらもあまりすることのなかったギクシャクした母子関係は、母の死を意識する中でわずかに変わった。母との会話は増えているとクリステルは言った。
 クリステルは写真を学んでいて、その題材としていま両親の姿を撮っている。父にもまた長年患っている病気があり、母なしでは生きていくのも容易ではないかもしれないという。母が亡くなったら自分たち家族はどうなるのか。クリステルは、いくつもの不安を抱きながら、両親の姿を写真の中に焼き付けた。

「一連の写真は、母親が死んだときに自分にとって何かになるかもしれない」

 クリステルはそう言った。
 いくつものも問題を抱えながらクリステルは、このころ30歳の誕生日を迎えた。隣にレミーがいない久々の誕生日だったにちがいない。ささやかながら、ぼくらは夜に彼女を食事に誘い、自分たちも彼女も好きなジャック・ジョンソンの新しいアルバムをプレゼントした。クリステルは心から喜んでくれていたようだった。

 ある日ぼくはクリステルに聞いた。

「お母さんとのこと、雑誌の連載に書いてもいい?」

 するとクリステルは、笑いながら

「日本語? お母さんが見ることはないよね。うん、いいよ」

 そう言ってくれた。
 しばらくしてできあがったあと、英訳してクリステルに見せると、彼女は「へー、ほんとに書いてくれたなんて」と笑いながら、興味深そうに一読した。読み終わると、彼女らしいシニカルな笑い顔を見せてこう言った。

「私のことを正確に書いているとは言い難いけど、でもこうして自分のことを他人が書いたのを読むのって面白いし、うれしいな」

 そしてすぐに席を立った。彼女は目にうっすらと涙を浮かべていた。

 クリステルとは、そんな濃密な1か月を過ごさせてもらった。彼女の日常を間近で見ながら、ぼくはこの5年の間に起きた自分の家族の変化についても思い返した。ぼくもモトコも、それぞれ妹や姉が結婚し、姪っ子や甥っ子が生まれたり生まれようとしたりしていた。その一方、モトコの親しかった叔父が亡くなったし、たまに親の姿を見るとぐっと老け込んだ気がして寂しくなることもあった。
 クリステルと過ごしながら、ぼくもモトコも、日本の家族のことを思うようになっていた。自分たちの中のいろいろな意識が、自然に少しずつ帰国の方へと向かい出しているのを感じていた。

 そんなときのことだった。
 ぼくは、まったく別の方面から自分の気持ちを揺れ動かす出来事に直面した。
 それは、2カ月ほど前の3月に起きたチベットでの暴動に関することだ。それについて4月に週刊誌に記事を書いたことはすでに記したとおりであるが、その記事を、あるきっかけから、日本にいたころに一緒に映像制作の活動をしていた中国人たちとのメーリングリストに紹介したことで事は起きた。

 今回の暴動について、ぼくは中国を強く非難するべきだと感じていた。中国を身近に感じる立場からその思いを表明したくて記事を書いた。一緒に活動をしてきた日本在住の中国人の友人たちは、たとえ意見が多少異なろうともに、自分のその気持ちを受け入れてもらえるものだと思っていた。ぼくはそれだけ、今回の事件について中国に非があることは誰にとっても疑いがないと感じていた。

 しかし、必ずしもそうではないようだった。自分の記事を読んだとても親しい中国人の友人から、ぼくは思わぬ反応をもらうことになったのだった。
 日本語で書かれたその友人の返事は8000字を超える長文だった。
 そこには彼女の、チベット問題に関する見方や、ぼくが書いた記事についての彼女の意見が書かれていた。そのすべてをここで伝えきることはできないし、一部を引用すると誤解を招く可能性もあるのであえてしない。

 ただそこには、ぼくに対する怒りのような感情までが見て取れた。彼女のチベットに対する歴史的な捉え方や今度の問題への見方は、ぼくとはまったく異なっていた。それは、ある程度まで予想はできていたけれど、自分に対する刺々しい言葉には驚かされた。そしてぼくがこれまで中国について日本の雑誌で書いてきた記事についても、辛辣な批判がなされていた。書いた記事は表面的すぎる、中国語もほとんど分からずに中国で2年半暮らしただけでいったい中国の何が書けるのだ、と――。

 その返事を読んでぼくは、しばらく感じたことのなかったような猛烈な怒りが込み上げてきた。何言ってんだ、ふざけんな。自分こそ、チベットのことなんて何もわかってないじゃないか――。

 彼女の文面の刺々しさは、彼女が日本語という外国語で書いているという点を差し引いて考えなくてはいけないのはわかっていた。しかしそれでも、いてもたってもいられなくなった。自分がもっとも信頼している中国人の友人の一人に、自分が中国で暮らしてきた2年半を全否定されたようだったのがショックだった。もっともぼくのいら立ちの原因は、彼女の書いていたことのいくつかが、実際に痛いところを突いていたからでもあるのは確かだった。

 すぐに反論したくなり、ぼくはその日ずっと部屋にこもって彼女への返信を書いた。一日たって気持ちが落ち着くのを待った方がいいとは思った。だが、そうすることができないほど、ぼくは気持ちを抑えられなくなっていた。そして6000字を超える反論文を書き上げて、その8時間後にメーリングリストへと投稿した。

 チベットの問題は、互いに信じることがあまりにも異なるし、どちらが正しいかを客観的に判断することはできないため、そこで詳しく触れることはしなかった。また、彼女が指摘していた、イタリアにいながらどうしてチベットの記事が書けるのかという点について、自分なりの言い分はあるものの、その指摘の正しさに素直に頷くしかない点もあった。また彼女のメールを読んでからもう一度自分の記事を見直すと、確かにぼくは、あまりにもチベットに寄った立場から記事を書いているのかもしれないとも反省した。

 しかしその一方、ぼくは彼女の言い分の大半については納得できずにいた。そして怒りにまかせて、これまで感じてきた中国人への疑問などを一気にその中に書きつけた。
 どうしてあなたは、これほど無茶苦茶な言論統制をする中国政府から聞いてきたチベットやウイグルの歴史を疑いなく信じることができるのか。中国人はみな日本の侵略の歴史には詳しいし、日本人に対して日本が中国でしたことを知らないのは許されないと言いながら、どうして自分たちの国が外国に対してやってきたことにはここまで無頓着になれるのか、と――。

 それはぼくが中国に暮らす中で常々感じてきたことだった。昆明の語学学校の先生ともそのことで激しい議論になったことがあったけれど、普段はなかなか面と向かって言うことはできずにいたことだった。ぼくは冷静な気持ではなかった。強い怒りを感じていた。しかしそれと同じくらい、大きな寂しさを感じていた。

 二年半暮らして自分なりにある程度わかったと思っていた中国について、中国人について、じつは何もわかっていないのではないか。ふとそんな気がしたからだ。結局ぼくは、彼女が言うように、中国語も、中国についてもろくにわからないまま、表面的なことを書いてきたに過ぎないのではないかと。最も身近に感じていた中国人の友人の気持ちすらも、ぼくはまったく理解できていなかったのだから。自分にとってそれはとても大きなショックだった。

 だが、考えれば考えるほど、それは認めなければならないのだろう、とぼくは思った。もちろん、外国について日本の週刊誌などに日本語で書く場合と、現地のメディアに現地の言葉で書くものとでは、情報の深さなどが違うのは当然である。それは、言葉の壁などによって取材に限界が生じてしまうといった技術的な問題とは別に、読者の持っているそもそもの知識量や興味が異なるからに他ならない。

 しかしそうはいっても、自分が旅をしながら各国について書いたものを現地の言葉に訳して現地の人に読んでもらうとしたら、果たしてどんな反応が返ってくるのだろうかと考えると、少し恐ろしい気もしてくるのだ。何、薄っぺらなこと書いてるんだ、全然おれたちのことなんてわかってないじゃないか――。まさに、この友人から言われたことと同じことをぼくは他の国に関して書いたことについても言われるかもしれないのだ。

 ただ、外国のことを日本語で書いている限り、そのような機会はほとんどない。自分は何も批判にさらされることなく書きつづけることができ、日本の読者からは、「中国人とはそういう人なのか、イランとはそんな国なのか」と良くも悪くも思ってもらえてしまうのだ。

 果たして、書き手として自分はそれでいいのだろうか。ぼくはこのとき強くそう思った。彼女から得た強い批判こそ、もしかすると、物を書くという上で常に対峙しなければならないものではなかったのか。自分はこれまでずっとそれを免除され続けてきたし、意識しないで済んでしまった。そう思ったとき、ぼくは彼女が、このようなデリケートな議論を母国語ではない日本語でやっていることのすごさに気がついた。彼女はメディア関係の仕事をしている。日本について発言すれば、多かれ少なかれこのような批判や冷ややかな反応を受けることもあっただろう。そうしながら十年を超える期間、日本で生きてきたにちがいない。そう考えると、彼女がぼくに対して投げつけてきた怒りのようなものがわからないでもない気もした。

 物書きとして自分は日本で勝負するべきではないのか。日本のことを日本語で書く。おかしなことを書けば強い批判が待っている。そんな環境で、緊張感を持ってやっていかなければならないのではないか。

 日本に帰ろう。帰りたい――。

 そのとき、ぼくは強くそう確信した。

第102回 オランダで対峙した中国の友人

アクセル(Axel)滞在中にベルギー、フランスにも足を延ばした。 アクセルを出てからは、ドイツ、チェコ、ポーランドを経て再びスイスへ。

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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