遊牧夫婦

第103回 帰る場所のない少女(前)

2013.06.08更新

 自分が書いた記事に対して中国人の友人から強烈な反応を得たことは、帰るか帰らないかの間で揺れていた自分の背中を押してくれる経験だったようにも思う。
 ようやく、帰ろう、という気持ちを明確にできたのだ。
 日本で物書きとしてやっていきたい。確かにそういう気持ちは強くある。しかし、理由自体はどんなものでもよかったのかもしれない。自分はただ、帰るためのきっかけを求めていただけなのかもしれなかった。

 いずれにしても、帰国することがはっきりとした輪郭を帯びてくると、ぼくは日本に帰ってからのことを考えると同時に、少しずつ5年間を振り返るようになっていた。自分にとって、この5年間は何だったのだろうか、と――。

 考えれば考えるほど、言葉でシンプルにまとめることなどできないような時間であったことに気づかされる。

 ただ確信を持って言えることが一つあった。それは、この旅に出たという選択が、これまでの自分の人生の中でもっとも自分自身が誇れることの一つにちがいないということだった。
 たとえライターとしての生活が旅と同時に終わるとしても、日本に帰ってから苦しい生活が待っているとしても、それだけは揺るがないと確信できた。そしてさらに、この先どういう展開が待っていようと、何とかなる、と思えるようにもなっていた。
 あるいはその気持ちこそが、ぼくがこの5年間で得ることができた一番大切なものなのかもしれなかった。

 一度、帰ろうと気持ちが決まると、帰ることへの意識はどんどんと強くなっていく。
 しかしその一方でぼくは、このころ一つの取材を進めようとしていた。それは、スイスの「亡命チベット人」と呼ばれる人たちのことだった。

 3月の暴動以来チベットのことはずっと気になりつづけていたので、そのころの自分にとってそれは最も興味のあるテーマだった。
 きっかけは、4月にトゥーンのテリーとルーシーの家にいたとき、ルーシーがこう言ってくれたことだった。

「スイスには、中国から亡命してきたチベット人がたくさんいる。私もトゥーンで知ってるチベット人の女の子がいるのよ」

 そもそもチベット人の亡命は、1959年に、チベットの宗教的、政治的指導者であるダライ・ラマ14世が、チベットを抜け出してインドへと亡命したことに始まっている。それ以来50年の間、チベット人は脱出を続け、いまでは世界中に10万人以上のチベット人が暮らすようになっている。
 その「亡命チベット人」が最も多いのはインドやネパールだが、ヨーロッパではスイスに最も多いのだということを、ぼくはこのとき初めて知った。

 そしてオランダ滞在中に中国人の友人とのやり取りがあったあと、ぼくは、スイスに暮らすチベット人たちに会ってみたいと強く思うようになった。彼らは何を思いスイスで生きているのか。チベット問題とは彼らにとって何なのか――。それを考えることが同時に、中国人の友人に対しての自分なりの答えの一つになる気もした。

 オランダからドイツに渡り、チェコ、ポーランドを経たあと、再びぼくらはスイスに戻った。そしてスイスの北部から南部まで、友だちの家を転々としながら、チベット人を探しては会っていった。
 僧侶、レストラン経営者、寿司職人、亡命政府の元役人、学生。立場はさまざまだったがみな快く会ってくれた。それぞれ、自分の生活、抱えている問題や悩みについて、語ってくれた。その各人からぼくは、亡命チベット人という存在に少しずつ近づいていくことができるようになった。

第103回 帰る場所のない少女(前)

スイス南部にあるチベット人たちの施設をとりまとめる、ゴンサール・リンポチェ。

 そうした中、一番最後に会うことになったのがトゥーンでルーシーが紹介してくれた一人の若いチベット人女性だった。スイスの各地を回ったあと再びトゥーンに戻ってきたとき、ルーシーに頼んでその女性に会わせてもらうことにしたのだった。

 湖と山に囲まれたトゥーンは、二度目に訪れるとすっかり親しみを感じる町になっていた。品がありきめ細やかで、なおかつ壮大なスイスらしい美しさは夏になっても変わらなかった。その中心部にあるトゥーン駅のそばの賑やかな場所で彼女と待ち合わせた。

「あの子よ」
 そばにいた黒髪と浅黒い肌の女性をルーシーが紹介してくれた。
 大きなサングラスが晴れた青空によく合っている。
「ハーイ!」と陽気に手を振る彼女はスイスにすっかり馴染んでいそうな様子だった。まだ小学生と思われる小さな女の子が一緒にいる。

 彼女が、ぼくとモトコに会えたことを喜んでいるのはすぐに分かった。それは、ぼくらが同じアジア人だからということではなく、日本人だからのようだった。

「私には日本人の友だちがいるんです。インドにいたときにできた友だちで、彼らがとてもいい人たちだったから、私は日本が大好きなんです」

 そういって、向日葵のような明るく晴れやかな笑顔をのぞかせた。
18歳だという彼女は、ときにそれより上にも、また若くも見えた。特に、明るく話すとき、彼女はあどけない少女のようだった。
 少し歩いてみなで川べりの広い芝生の場所に行った。後ろには雪山が連なっている。その場所に腰を下ろすと、彼女は一緒にきた妹をあやしながら、いろんなことを話してくれた。

「スイスでの生活は本当に夢のようです。山もあってチベットに似てるし、それに自由だし」

 ずっとチベットで育ったものの、2006年、すでにスイスに亡命していた父親に呼び寄せられ、チベットからインドをへてスイスに亡命できたのだと彼女は言った。

「チベットからは7人のグループで1カ月以上かけてヒマラヤを越えました。標高5000メートル以上にもなる険しい山道を、少しだけの食べものを持って、警察に見つからないようにして歩いたんです。国境を越える前に警察に捕まったら、刑務所に入れられ送り返されておしまいです。道は厳しく、靴や食料がなくなったりすることもありました。道の途中に住んでいる人に、服と食料を交換してもらうこともありました」

 それでもなんとかネパールへと国境を越えることに成功し、さらにインドにわたって、スイスに来た。

「チベットには自由がなかったから逃げたんです。両親はともに、チベットでデモなどに参加したために、何年も刑務所に行っていました。でも、私がヒマラヤを越えるときにはすでに母はベルギー、父はスイスに亡命を果たしていました」

 横にいる妹は、いまは母親とともにベルギーに亡命しているものの、そのころちょうど一時的にスイスへ遊びに来ていたとのことだった。
 緑に満ちた静かな川べりでそんな過酷な逃避行の様子を話しながら、彼女はときおり、後ろに広がるアルプスを眺める。そしてまたこうも言った。

「スイスの生活は素晴らしいです。でも、本当のことを言うと、スイス人はあんまり好きになれないんです。友だちもほとんどいません。彼氏にするにしても、やっぱり黒髪のアジア人がいいなあ」

 そう言ったとき、故郷を捨てて異国で暮らすことを決めた若い彼女の孤独が垣間見えた気がした。美しい先進国で暮らせることを単純に喜んでいるだけではないらしい。
 そして一方、話しているうちに彼女の話に不明瞭な点があることにも気が付いた。インドからスイスに来た経緯を詳しく訊ねると話が二転三転したのである。
 また、ずっとチベットにいたにしては、英語が妙に上手なこともひっかかった。さらにモトコは、あとからぼくにこう言った。

「インドにいたのはスイスに行く前の数週間だけだと言っていたのに、その間にダライ・ラマに二度も会うなんていうことがあるのかなあ......」

 何か言えないことがあるのだろうか。その場では、それ以上はあえて訊ねはしなかったものの、そんな気がした。そして写真を撮らせてほしいというと、彼女は少し申し訳なさそうに、こう言った。

「個人を特定できるようなことは書かないでほしいんです。父からそう言われました」

 そのときの彼女の気まずそうな表情を心に留めながら、ぼくはそれまでに取材してきた人たちのことを何度も思い出していた。

第103回 帰る場所のない少女(前)

スイス北部リコンの修道院では、ダライ・ラマの誕生日にチベット人たちが 集まった。(2008年7月6日)

*「帰る場所のない少女(後)」は、明日掲載いたします

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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