遊牧夫婦

第104回 帰る場所のない少女(後)

2013.06.09更新

 スイスに最初のチベット人が来たのは1960年代に遡る。1959年にダライ・ラマと一緒にインドへと亡命した多くのチベット人たちに、スイスがまず手を差し伸べたのだ。スイスでチベット人たちの一部を受け入れよう、と。それは、インドにわたったチベット人の多くが、慣れない気候や生活に苦しんでいたからだ。アルプス山脈があるスイスは、チベット人にとっては故郷を思い出させる風景に満ちている。

 そんな初期のころスイスに来たのは、ダライ・ラマとともにチベットを脱出した人がほとんどだった。たとえば、スイス北部のリコンで会ったドルジーという男性もダライ・ラマと脱出した一人である。彼はすでに60歳近い。亡命政府の元役人だった

第104回 帰る場所のない少女(後)

チベット亡命政府の役人だったドルジー。スイス北部リコンの修道院にて。

「1959年にチベットを脱出したとき、私はまだ9歳ほどでした。家族が村の富裕層だったから、中国による弾圧の対象とされ、逃げなければならなかったんです。ダライ・ラマ法王もすでにチベットを脱出したらしいということを聞いて、私たちも森の中を歩き、木を切り、川を渡って進みました。脱出するための道はあまりにも険しくて、いま思い出すとあんな道を逃げてきたのが現実とは思えないほどです。2カ月かかりました」
 リコンにあるチベット仏教の修道院で、彼はそう話してくれた。

 1959年、まだ雪の残る四月ごろ、10万人以上がそのようにしてインドへ渡った。カイラスのような高山を越えての脱出であり、途中で死んでしまう人も少なくない。だがドルジーはなんとか無事にインドにまで到達できた。

 ドルジーは、インドでまずチベット人の学校に入る。そこを卒業するとインドから奨学金を得て大学へと進むことができた。大学では政治や歴史を学び、その後チベット亡命政府で働き始める。そして1974年に亡命政府の一員としてスイスに派遣されて以来、彼はすでに30年以上スイスで暮らしている。
 ドルジーのように60年代にスイスに受け入れられたチベット人は、1000人程度だけだった。それがスイス側が決めた上限だった。しかししばらくして1000人に達するとダライ・ラマがスイス政府に頼んだのだという。人数制限を設けないでくれ、と。そうして年々スイスにやってくるチベット人は増えていった。

 しかし時間が経つにつれ、スイスにやってくるチベット人の背景もさまざまになっていく。若い世代はもちろんドルジーのように半世紀も前にチベットを脱出してきたわけではない。みながみな、「難民」や「亡命者」として堂々とスイスにきたわけではないのである。
国際的なルールとして、すでにある国で難民として受け入れられた人が、さらに他の国に行って新たに難民として受け入れてもらうことはできないことになっている。つまり、すでにインドで難民として受け入れられてインドで暮らしているチベット人が、故郷チベットでの厳しい生活を理由にさらに別の国に難民としてやってくることは、本来はできないのだ。しかし実際には、少なくないチベット人が、より豊かな生活をしようと夢見て、インドから先進諸国に移り住んでいるのである。
 ある日、チューリッヒのそばの町の湖で泳いでいた時、湖畔にチベット人らしき年配の男性がいた。思いきって話しかけると、なんと先のドルジーの前任者だという人物だった。スイスでチベット人の入国管理業務にかかわったこともあると言う。そして彼は、日が少し傾きかけた夕方に湖畔の芝生の上で水着のまま、こんなことを教えてくれた。

「スイスには、いまではおそらく3300人のチベット人が住んでいる。そのうち800人は、違法な方法で入国しているはずだ。難民としての資格はないけれど、法律の穴をすり抜けてスイスに潜り込んできたんだよ」

 先のトゥーンの女性だけでなく、チューリッヒで話した複数の若いチベット人もみな、入国した詳しい経緯については口をつぐんだ。彼らは決して、警察に見つかったら捕まるという非合法な立場でスイスにいるわけではないものの、スイスで難民として認められるに当たってはなんらかの話を作り上げる必要があったのだ。だから本当のことは、スイスに暮らしながらも隠し続けなければならない。彼らは明らかに、何十年も前にスイスに来たドルジーらとは異質の存在であることはちがいなかった。

「チベットにいるときは、ダライ・ラマが暮らすインドへ行くことを夢見るんだ。そしてインドにくれば、豊かな西洋社会を夢見るものだ」

 スイスで読んだ本の中で、チベットのある哲人がそんなことを言っていた。スイスは、そんな若いチベット人たちの目的地のひとつとなり続けているのだ。

 自分だったらどうするだろうか。ぼくは彼らのことを思い出しながら考えた。きっと自分も、彼らの状況にいれば同じように考えた可能性は高いと思えた。
 チベットの若者が西洋を目指す気持ちは、彼らの置かれた境遇を無視して考えることはできない。たとえインドで安定して暮らせていたとしても、そこが母国ではなくやはりよそ者として生きざるを得ないのであれば、いっそのことより豊かな国を目指すのはある意味自然なようにぼくには思えた。理由はそれだけではないにしても、いずれにしても、安心して暮らせる故郷がないという事実は、決して小さなことではないはずなのだ......。

 トゥーンで会った先の一八歳の女性をここで仮に「ドルマ」と呼ぶ。
ドルマはぼくとモトコに会ったことがとてもうれしかったらしく、その後、「また会いましょう、一緒にご飯を食べよう」と、たびたび連絡をしてくれた。そしてある日、ぼくたちは、テリーとルーシーの家にドルマとその妹を招待して、夕食を一緒に作って食べることにした。「日本食を作ろう」。モトコとそう話して準備をした。

 近くで手に入る食材で、簡単な寿司や焼そば、そしてナスの炒め物を作ると、彼女たちははしゃぎながら、うれしそうに食べてくれた。その様子を見てぼくは、彼女たちはまれに見る純朴さと陽気さ、そして礼儀正しさを備えたいい子たちだなと感じていた。

 しかしその一方、その日、こんなこともあった。
 テーブルに並んだ巻き寿司をつまみながらテリーとルーシーが、ドルマにどうやってスイスに来たのかを訊ねたときのこと。ドルマはやはり少し警戒した様子で、話をぼやかしているようだった。そして、さらに詳しく聞かれたとき、ドルマは緊張したのか口ごもった。よく見ると、彼女は涙ぐんでいるようだった。
 その姿を見て、ぼくははっと気づかされた。一八歳の少女にとって、自分の本当の姿を隠しながら、異国の地で暮らしていくことは決して容易じゃないのだろう、と――。

 ぼくらがスイスを出ることになったのは、その7日後のことだった。そして日本に帰る前にアフリカにまで足を延ばすことを決めていた。せっかくここまで来たのだから、アフリカの大自然の中で動物を見たいとモトコが強く望んでいたからだ。二人とも旅することには疲れていても、アフリカは全く別世界に思えたし、行ってみたいとぼくも思った。
 日本に帰ることを決めていたとはいえ、もしかすると、その途中で何か予想もしない展開がないともわからない......。そんなことも想像させるほどアフリカは全く未知だった。

 ――その出発の前日のことだった。
 トゥーン最後の日、ぼくらはいくつか荷物を日本に送った。そしてずいぶんとお世話になったテリーとルーシーにプレゼントを買ったりしてバタバタと過ごしていた。
 そんなときにドルマから連絡が来たのだ。
 「最後にもう一度二人に会いに行っていい?」と。

 もちろんいいよと返事をすると、ドルマは妹を連れて夕方ごろにやってきた。ただ、どうもテリーとルーシーが、ドルマが何かを隠していたらしいことからあまりいい感情を持っていなかったようで、ドルマたちとは外で会うことにした。

 待ち合わせた近くの公園にいくと、二人はいつもの明るい様子でそこにいた。
 そしてドルマは、
「お父さんがあんぱんをつくってくれたから、持ってきたの」
 といって、箱に入ったあんぱんをくれた。
 彼女の父親は以前インドで、日本人の友人からあんぱんの作り方を習ったという。今日、ぼくとモトコのために作ってくれるよう頼んでくれたとのことだった。つぶあんがたっぷりと詰まったそのあんぱんは、日本を思い出させてくれる懐かしくうれしい味だった。

 そしてドルマは、それからね、といって、改まって話し始めた。

「じつはスイスに来た経緯について、私はこれまで嘘をついていたの。前に話をしたときは、ルーシーたちも一緒だったから、怖くて本当のことがいえなくて。ごめんなさい。でも二人には、嘘を言ったまま別れるのはいやだったから......」

 そういって、本当の経緯を彼女は話してくれたのだ。彼女はチベットのラサで生まれて、まだ生後六ヶ月のときに両親が刑務所に行き、それからチベットで祖父母に育てられたこと。ヒマラヤを越えたのは10年以上も前のことで、インドには9年間住んでいたこと。

「難民としてスイスに受け入れてもらえるためには、チベットから直接スイスにやってきたことにして、インドには一時的にしか滞在していないことにしなければならなかったの」

 スイス政府はもちろん、ドルマのような若いチベット人たちが過去を隠していることは承知しているはずである。それでも、チベット人がこれまでスイスでほとんど問題を起こしていないこと、またチベットに対してスイスの世論が概ね同情的であることから、チベット人を寛大に受け入れてきたのだ。しかし、ドルマは常に警戒心をもっていた。

「スイス人にはいつも警戒してしまって、どうしても本当の話ができないの」

 そういって彼女は、寂しそうな顔を覗かせた。
 スイスの人と本当の意味で心を通わせることができないまま、しかし彼女はこの国で暮らしていくしかない。スイスに亡命した以上、チベットはもちろん、インドにももう帰ることはできないのだ。
 スイスで生きることを決めたのは、もちろん彼女自身である。それは自ら選択した道にはちがいない。しかし、自分の故郷で安心して暮らすことができれば、そんなことを考えることはなかったはずだし、常に帰る場所もあったはずだ。

 スイスで暮らせる喜びと、故郷に帰ることができない寂しさを併せ持つ様子が、彼女をときに若く、ときに大人びて見せていたのかもしれない。

 別れ際に、彼女は照れ笑いを浮かべながら、言った。
「今度はいつ、スイスに戻ってきてくれる?」
 彼女の顔には、アジアが恋しい、アジア人が恋しい、でも帰ることはできない、そんな思いが滲み出ていた。
 ぼくはその言葉を聞いて、彼女には帰る場所はないんだ、ということを改めて実感した。そして同時に、自分にはいつでも帰る場所がある、ということの意味を。

「スイスにいつ戻ってこられるかはまだ分からないけれど、いつかきっとまた二人に会いたいよ」

 すでに暗くなった公園でぼくはそう言った。そして、最後には再び陽気な顔を取り戻したドルマが、小さな自転車に乗った妹をかばいながら、帰っていくのをモトコとともに見守った。

「バイバイ! バイバイ!」
 何度も何度も振り返りながら、彼女たちの姿は少しずつ小さくなっていった。
「バイバイ! バイバイ!」
 ぼくらはその姿を、手を振りながら見送った。

 翌日、ぼくたちはテリーとルーシーに別れを告げトゥーンの町を後にした。
 スイス・バーゼルからスペイン南部、地中海沿いのアリカンテへ。さらに海岸沿いに南に行ってアルメリアへ。そこからアフリカ大陸のモロッコへと渡るフェリーに乗った。

第104回 帰る場所のない少女(後)

スペイン・アリカンテのビーチ。この海の向こうにアフリカがある。

第104回 帰る場所のない少女(後)

ヨーロッパ出て、いよいよアフリカへと向かう----。

 甲板に出て海を見ると、それは本当に深い青色の果てしなく続く水面が広がっていた。船の後部に立ってずっと海を眺めていたモトコが言った。あ、イルカや――。
 いくつものイルカの群れが、船の近くを通り過ぎていく。それはおそらく、4年前にインドネシアのラマレラで見て以来のイルカだった。
 そのときぼくは気がついた。新たな大陸へと移るのは、2004年にオーストラリアを出て以来だったことを。

第104回 帰る場所のない少女(後)

トゥーンを出てからバーゼルまで移動し、そこからアリカンテまで飛んだ。
さらにアルメリアから船に乗ってモロッコのナドールへ。


*次回、いよいよ最終回! (の、予定。)
ふたりの旅は、どうなるのでしょうか? 来週、6月16日に更新します!

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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