46歳で父になった社会学者

第3回

変化

2019.01.06更新

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この連載に加筆修正を加え、本になりました。ぜひ書籍でもご覧ください。

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『46歳で父になった社会学者』工藤保則(著)

 妻のつわりは重かった。

 つわりと言えば、ドラマや映画での、女性が「うっ」と口を押えて洗面台に向かい、周囲は「ひょっとして」と妊娠を疑う、あの場面を思い浮かべる人が多いだろう。それはある瞬間の光景にすぎない。実際は、一日中、吐き気と倦怠感を中心とした体調不良の中にいるのである。それが毎日続くのだ。

 朝、目覚めても、妻はしばらく布団の中でじっとしていた。そして、観念したように「あー、またつらい1日が始まる」と言いながら起きてきた。「食べないとあかんよね」と無理して朝食をとり、のろのろと出社のための支度をし、暗い顔で家を出た。

 安定期に入っていなかったので、会社のごく一部の人にしか妊娠のことを伝えていなかった。したがって、吐き気を覚えながらも普段通りに仕事をこなさなくてはならない。

 夕方、電車に乗って帰ってくる。その際、最寄り駅から自宅までの徒歩10分の距離が歩けない。駅からバスに乗り、這うようにして帰ってきた。

 家にたどり着くと、玄関にへたり込んで動けない。トイレに駆け込み、激しく嘔吐することもたびたびあった。

「しんどいよー」

「からだがもたへんよー」

 血の気の引いた顔で泣いていることもあった。私は妻の背中をさすることしかできなかった。

 鼻(臭覚)と舌(味覚)の変化もすさまじかった。

 ご飯が炊けるにおいやお味噌汁のにおいを受けつけなくなり、冷蔵庫を開けるのさえも苦痛になった。キッチンに立てなくなった妻に代わり、私が食事を作るようになった。妻がその日、何を食べられるかは、お皿を前にしないとわからない。そのため、「食べられるものを作る」のは無理であり、「食べられそうなものを作る」ことになった。しかし、それも実際どうなるかはわからない。料理にほとんど箸をつけずに「ごめん。もう、無理。ごちそうさま」ということもあった。

 入浴時にはシャンプーのにおいで気分が悪くなるため、無香料のものにかえた。歯磨き粉のにおいも耐えられなくなり、水で素早く磨いていた。生活の場のいたるところに、においがあることを、つわりの妻を見て知った。

 眠っている間しか、つわりから解放される時はない。布団に入って「やっと、1日が終わる。ハァー」と長い息をはいた。人によっては、産み月までつわりが続くことがあると聞き、妻は「自分もそうだったらどうしよう」と絶望的な気分になっていた。出口の見えないトンネルの中にいるようだった。もともと体力のない妻は、つわりでその少ない体力を奪われ、体重も落ちた。やつれて顔はひとまわり小さくなった。

 あたりまえだが、私のからだには何の変化も起こっていない。苦しみを負担しようにも、私は全くの無力だった。ただ、つわりがどれほど過酷であるかを知った。

 幸いにして2カ月後、妻はつわりのトンネルをぬけた。安定期に入ると、妻の心境にも大きな変化があった。それは傍らで見ていても、よくわかった。からだとこころはつながっている。からだが消耗すると、こころも消耗する。つわりから解放されると、こころも晴れたようだった。

「何事も理性でコントロールできると思ってきたけど、自分でコントロールできることなんて、本当はあまりないんやねぇ」

「たいていは、どうなるのかわからへん。人生は予想をはるかに超えている。それでも、進んでいくしかないんやね」

「うん。もうここまできたら、進むしかない」

 妻はきっぱりと宣言した。

 子どもは意のままにならない存在である。つわりを経て、コントロールできないものを受け入れる覚悟が決まったようだった。

「つわりは予行演習みたいなもの。これからが本番」

 妻は、腹をくくったのだ。

 その頃から、妻のお腹がふくらみ始めた。といっても、最初は、二人ともよくわからなかった。ある日、鏡の前に立った妻が私に声をかけた。

「あれー、お腹、ちょっとだけ、とんがってない?」

「えー、そうかな」

「もしかしたら、ふくらみ始めたんかなぁ?」

「時期的にありうるんじゃない」

「たんに食べすぎただけやったりして」

「まあ、それはそれで、いいんじゃない」

 数日後には、ふくらみがほんの少し増していた。

 私はふと思いたって、それから、妻のお腹が大きくなっていく様子を写真に撮ることにした。ひと月単位で比較すると、体型の変化は明らかだった。数か月分の写真を並べると、そのお腹の成長ぶりに感動すら覚えた。

 ロングセラーの育児書である『育育児典』(毛利子来・山田真、岩波書店、2007年)には、「お腹の子への気持ち」としてこういう文章がある。

男性にとっては、わが子がいるということは、リアルには感じにくいのではないでしょうか。なにしろ、胎児が自分のお腹の中にいるのではない。当然、体調や体型の変化もない。ただただパートナーの変化を見せつけられるばかり。ですから、「わが子」といっても、頭のなかで、そう思いなすほかはないでしょう。

 「見せつけられる」――まさにその通りだ。過酷なつわりや刻々と変化してくからだに、私は圧倒された。妻は自らのからだをもって、子どもがいることを強烈に伝えてくれた。

 そうこうしているうちに、胎動が始まった。最初はかすかなもので、それが胎動かどうかわからなかった。やがて「小魚が泳いでいるような」感覚があり、もしやこれが胎動ではないかと妻は言い始めた。「さわってみる?」と言われて、手のひらをお腹にあてたが、何も伝わってこなかった。その後、何回かお腹に手をあてたが、なかなか感触は得られなかった。ある時、かすかに「ぴく」という感触が手のひらに伝わった。今まで感じたことのないもので、とても不思議な気持ちがした。

 やがてそれが「ぴくぴく」と躍動感をおび、「ごろごろ」と重量感を伴い、さらには「ごろん」「ごろりん」と目にも明らかな存在感を示すようになった。私は、妻のお腹に手をあて、その何とも言えない感触を味わった。そして、お腹の中の子どもに話しかけるようになった。

 妻はといえば、脇腹から足がぬーっと出てくることや、ひっくひっくしゃっくりする胎児の感覚を「あれあれ」と言いながら楽しんでいた。女性にとって、胎動は格別な感情をよびおこすもののようだ。

 『育育児典』には、「父親になることに対する心の準備」についてこう書かれている。

自分の立場を妊娠の共同の当事者として据えてしまうのです。お腹の子のことも、折をみては彼女のお腹に手をあてて胎動を感じたり、耳をつけて心臓の音を聞いたりするとよい。そうすれば、多少ともは実感できるはずです。

 それまで、私は妻のからだの変化をただ「見せつけられる」ばかりだったが、手のひらに伝わる胎動によって、妻と共にいのちを実感できるようになった。なによりもうれしく、幸せなことだった。

工藤 保則

工藤 保則
(くどう・やすのり)

1967年、徳島県生まれ。龍谷大学教授。専門は文化社会学。著書に『中高生の社会化とネットワーク』(ミネルヴァ書房)、『カワイイ社会・学』(第25回橋本峰雄賞。関西学院大学出版会)、『46歳で父になった社会学者』(ミシマ社)、共編著に『無印都市の社会学』(法律文化社)、『<オトコの育児>の社会学』(ミネルヴァ書房)、『基礎ゼミ 社会学』(世界思想社)などがある。好きなものは、落語、散歩、リクオ(シンガーソングライター)、「0655」(テレビ番組)。現在、8歳の息子と4歳の娘の子育てまっただ中。

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