第6回
〈戦争できる国〉にしないためのちゃぶ台会議 戦後70年、元海軍兵の言葉を聴く
2019.02.05更新
戦後70年の節目の年、2015年。
自由と平和のための京大有志の会の藤原辰史先生のお声がけで、「〈戦争できる〉国にしないためのちゃぶ台会議 ー戦後70年、元海軍兵の言葉を聴くー」が開催されました。93歳(当時)だった元海軍兵、瀧本邦慶さんをお招きし、ご自身の戦争体験の悲惨さを強い怒りとともに語ってくださいました。
そして、その瀧本さんが先日お亡くなりになりました。本日のミシマガジンでは瀧本さんを偲んで、「旧みんなのミシマガジン」で掲載していた特集を再掲載いたします。瀧本さんの「声」が受け継がれ、このような経験が二度と繰り返されませんように。瀧本さんのご冥福をお祈りいたします。
※本記事は、「旧みんなのミシマガジン」にて、2015年9月1日〜9月3日に掲載されたものです。
自由と平和のための京大有志の会の藤原辰史先生にもご協力いただき、8月10日に京都大学で開催された「〈戦争できる〉国にしないためのちゃぶ台会議 ー戦後70年、元海軍兵の言葉を聴くー」。
93歳の元海軍兵、瀧本邦慶さんの力強い肉声をもって語られる怒りの言葉に、会場はただただ圧倒されました。
軍国少年だった瀧本さんは、戦地で餓死寸前にまで追い込まれたとき、「戦争はあってはならない」と確信したそうです。(瀧本さんの肉声音源はこちら)。
近い将来、「戦争を知らない世代」しかいなくなり、「戦争経験者を知らない世代」が現れる時代が必ずやってきます。そのような時代が来る前に、今、私たちは何をなすべきでしょうか。このような声を後の世代に残していくことも、今を生きる我々の大切な使命であるように思います。
経験したものにしか語れない戦争の真実を、実際の音声とともに、お届けします!
(構成:田渕洋二郎、構成補助:米田愛恵)
はじめに(瀧本さんの肉声音源はこちら)
京都のみなさん、こんにちは。瀧本と申します。今日は大阪からやってまいりました。今日はせっかくの機会でありますので、私の戦場体験をお伝えしたいと思います。私がこれから話をすることの中にかなりきつい言葉がでると思います。
それはもしかしたらみなさんの耳に対しては非常に激しい言葉になるかもわかりません。
ですが私にしてみると、すべて事実ですから、何もきつくもなにもないわけです。私の話をひと通り聞いていただいたうえで、戦争はイエスかノーか、これをみなさん、それぞれのご自分の頭で考えて、答えをだしていただきたいと思います。よろしくお願いします。
話の順序としましては、最初、戦争前の世相。二番目、ミッドウェー海戦。三番目、南洋のトラック島駐留作戦。最後、四番目が結びの言葉。
この順序でよろしくお願いいたします。
戦前の世相(瀧本さんの肉声音源はこちら)
私は昭和14年、17歳で海軍に志願をして入りました。
戦前の世相といたしましてはね、昭和12年に日中戦争が始まりました。当時は、日清・日露以降、何十年も軍国主義最高潮の時代です。小学校1年生になったときから、「男の子は20歳になったら兵隊さんになる」とか「戦死をして靖国神社へ祀ってもらう」ことが男の最高名誉だとずっとずっと教えられてきたわけですね。
学校の教科書は全部国定の一本だけ。学校の先生は国定の本に書いてあること以外は絶対に生徒にしゃべってはいけない。今から考えるとね、想像もできないような世の中なんです。
それで、日中戦争が始まった。中国大陸にたくさん兵隊を送る。20代、30代の男はどんどん招集される。
戦死者が出て戦死者の遺骨が帰ってくればね、各市町村では合同の葬儀をとり行います。その席でお母さんが涙を流しながら息子の遺骨の箱を祭壇へ載せます。その時にね、「この場で、涙をながすとは非国民だ」と言われるんですわ。どない思います? 大事な可愛い息子が無理やりに戦争に引っ張っていかれて戦死して。その葬式に涙を流さない親なんておりませんでしょう? 涙を流して当たり前ですよ。一旦戦争になったらね、そのくらい人の心は変わってしまうんです。
それで20代30代の働きざかりの男がどんどん招集を受けて戦地へ送られるから、当時の平均年齢50歳ですよ。だからもう60歳になったら大年寄りですねん。
それで、男が出た後、誰がのこりますか。女性と子どもですね。それに年老いていく親も残ります。今みたいに保育所や幼稚園もないし、老人ホームも病院もない。だから病気になったって、家で寝込みます。その面倒も全部、女の人が見るんですよ。しかもそのうえ生活のために、今までそれまで働いておった男の仕事までやらないかん。
だから残された女性はね、もう生き地獄です。それがしかも、ひと月やふた月で終わるんとちがいますからね。戦争やっとる間、何年続くかわからない。
そういう中を女性は耐えてきたんです。
誰も代わりにやってくれる人はおらんから寝る暇もないですよ。それが戦前の世相ですね。
ミッドウェー海戦 火の海となる船上(瀧本さんの肉声音源はこちら)
次は、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦。
ハワイの北西にあります。海軍の航空母艦は、加賀、赤城、飛龍、蒼龍。この4隻が参加しました。この4隻が参加して、たった1日で全部やられたんですよ。海軍のそれまでの戦いは全部勝ち戦でしたから、始まるときは非常に油断をしておりました。あぁ、ミッドウェーか。また勝ち戦じゃ。と鼻歌交じりで行ったんですよ。
ところがね、アメリカが、日本の海軍周りの無線を全部キャッチしとったわけです。暗号を解読して、艦隊の動きを全部知っとったわけです。こちらは油断をしておるから、そんなこと考えない。
ある時、こちらの作業中に爆撃がきました。航空母艦は構造から言って他の軍艦とは全然違うんです。目に見えとるところは全部、格納庫。
格納庫の壁の内側はガソリンパイプがずらっと並んでおります。そこを爆撃される。船は大パニックですね。爆弾を一発くらったら、航空母艦はもう大火災になるんです。ごろごろ置いてある爆弾が、その火災の熱によって爆発するんです。
飛龍には1500人乗っておりましたが、1000人死にました。
司令官の判断ミスで犬死にする兵士
そんな時に、司令官が命令を出しました。相手の空母が近くにおるとわかったからね。
その敵空母を沈めなあかんから、「爆弾を下ろして魚雷を発射して沈めろ」という命令をしたわけですわ。
でもこれが間違いなんですわ。考えたらわかるじゃないですか。爆弾一発落としたら母艦はそんでもう終わりやから、船なんか沈める必要ないわけですわ。火災が起きてその航空母艦としての戦力はゼロになりますからね。
でもそれを考えないでバカな命令を出したわけですよ。すぐに取り消して、「爆弾のままでいいからいけ!」いうたらそんで良かったんですわ。
それからずっと時間が経ってから、別の司令官が「飛龍に残っとる爆弾つけたまんまでいいから、その飛行機にすぐ出ろ!」ということになって、飛龍に残っとった飛行機は飛び立ったわけです。それで相手の空母を見つけて攻撃して、沈めました。
でも、その時には飛龍も爆弾を受けて大火災になっていたわけです。
だから飛龍から出た飛行機が帰ってきても着艦できないんですわ。そしたら船のうえをぐるぐる回ってね、ガソリンが切れて最後には海の中へ突っ込むんですわ。
そんなんですよ。司令官が判断を間違うと下の何千何万の兵隊が、死なんでもええのに、無駄に命を捨ててしまう。こういうことが起こるんです。
しかもその司令官というたらその失敗を認めない。責任を追及されないんです。司令官連がお互いにかばいおうとるわけですわ。
しかもその作戦の失敗は、反省の会も何もやらないんですよ。同じ司令官が2回も3回も同じ失敗を他でもやっとるんです。
味方に向け魚雷を放つ駆逐艦
爆発するものがなくなって燃えるものは全部燃えてしまった。6月の5日に攻撃されて、翌日の6月6日の朝の午前3時くらいには全部燃えてしもてね。不気味なくらい静かになりました。
今度は艦長から命令が出て、「生き残った者は総員退艦せよ」というんですわ。
航空母艦は他の軍艦と違って、非常に装備のほうに秘密事項が多いんですね。だから盗まれたら困るからという理由かわかりませんけど、わたしたちが助けてもらった駆逐艦から、味方のその飛龍に向けて、魚雷を2発発射したんです。
こんなこと、ありえないことでしょう。
ところがそれやったわけですよ。飛龍の土台の中央付近から、大きな火の玉がふたつ上がりました。これでもう沈むというのを確認して、全速力で内地へ向けて帰ってきたんです。
駆逐艦は小さいから飛龍で生き残った500人も乗ったらもう、通路も何もいっぱいで、座ることもできないんですわ。
それで、途中で止まって、戦艦がきて乗り移りました。その戦艦でも健康な者も負傷した者もみな一緒ですからね。怪我人のほとんどは火災による火傷です。
だから焼けた肉が腐って臭いんですわ。気候は暑いし、ものすごく臭う。それで、毎日、程度の重い者から死んでいきます。海軍は船の場合は死者が出たら、全部水葬することになっています。海の中へ流すんですね。
これももう人を物のように扱わないとやってられないんですわ。
それに遺骨が帰ることはありませんから家族はもっと悲しみますよ。
隔離された理由
まぁ、それがミッドウェー海戦のだいたいです。
それで、ミッドウェーから帰って、私は病院船で佐世保へ行って入院しました。
ところがねぇ、病院へ入ったら、「ミッドウェーから帰った病人は、この病棟へ入れ、一歩も外へ出てはいけない。他の病棟のものと接触してはならん!」という命令が出たわけです。おかしいこと言うやつやなぁと思いました。
それである時、看護婦さんが、一週間くらい前の新聞を持ってきて見せてくれたんです。
そのミッドウェー海戦の記事を見たらね、
「我が方の損害は空母が一隻大破、一隻撃沈された。」
と書いてあるんです。本当は四隻全滅したのに半分しか載ってないでしょう? こんな嘘をついとるわけですわ。大本営発表が。その時にびっくりしましたね。だから本当の情報が漏れないように、真実を知っている連中が隔離されていたのかと。
それで国民を騙しとるわけですわ。もう戦争は初めから全部嘘の突き通しやと思いました。
隠れてどんちゃん騒ぎする海軍(瀧本さんの肉声音源はこちら)
トラック島へは、昭和19年の2月に行きました。トラック島は、南太平洋方面の最大の補給基地でした。もともと軍の基地ではなかったから、大東亜戦争が始まってから基地造成にかかったんです。だから突貫工事でやらないかんでしょう。その時に国はね、全国の刑務所から屈強な受刑者を1600人集めました。それで強制的にトラック島へ連れていき強制労働をやらせたんです。そうしてできた基地に、我々は行ったわけです。ほんでそこで、トラック島へ着いて荷物を下ろす、そうこうしている間に着いて一週間で大空襲が起きました。アメリカの、航空母艦の艦隊の大空襲受けたんですわ。
それで、せっかく作ったトラック島の中継基地としての機能が全滅。攻撃を受けたのは昭和19年の2月17、18日。この2日間。それで全滅ですわ。一体、当時のトラック島の司令官はどない思いしとったんやと、あとで調べてみたんですわ。そしたら、17日の朝から空襲が来たんですけど、その前日、司令官たちは基地建設の時に内地の有名な料理屋の支店をこの島につくっとるんですわ。やつらはそこでどんちゃん騒ぎをやっとんです。攻撃を受ける日の前の晩に。これが海軍の本当の姿なんですわ、みんなが知らんだけで。我々も知らなかった。後から調べてわかったんです。戦地に、なんで料理屋の支店まで作らなあかんのよ。国の金で。そうでしょう? そういうことを国民の知らんところで堂々とやっとるんですわ。情けないことに。
そこで陸軍の兵隊が死んだのが1万5千人。輸送船やら、海軍の軍艦やら、そういう船舶が55隻、沈没しました。持っていった飛行機350機も焼かれました。大きな重油タンク、全ての公安施設、全部やられました。そしてそれからのち、内地からの補給が完全にストップしました。
餓死ほどつらいものはない
食料、武器弾薬、医薬品、これはもう完全にストップ。ですからトラック島は、その半年後から、餓死者が出てきたんです。トラック島には、陸軍・海軍合わせて4万人おりました。その中で、半分の約2万人が、餓死したんですよ。終戦なって、昭和20年の、12月30日に、内地へ生き残った者を帰しました。強制労働させられた1600人のうちでも残ったのはたったの70名です。
当時は飢えをしのぐために、サツマイモの苗が生えたからいうて、イモ作りやりました。イモ1つで1日もたせるんです。それもない時は、下士官兵どもは、ジャングルに入って木のはっぱを取ってきて、それを海水で煮て食べるんです。便ももう、いつも青。芋虫と一緒ですわ。それで、半年くらい生きとりましたわ。私は当時、階級が下士官の一番上の、上等兵曹になっておりました。班長になって班員が13人おりましたんですけど、この中で7名が死にました。当時22、23歳で本当は元気ざかりですよ。内臓もどこも悪くないのに、食べもんがなくて、痩せていく。これがどんなに苦しいか。生きとったらねえ、いろいろつらいことはあります。だけど私が思うのは、これほどつらいことはないと思いますわ。
部下の遺体を運ぶこと
それで班員が死んだらね、毛布に巻いて、5〜6メートルの丘の上まで持ってくんです。骨と皮とで軽いはずなのに重たく感じるんですわ。こっちも体力が落ちてるから。4人がかりでやすみやすみ丘の上まで持って行って、掘って埋めなあきませんやん。なんぼ痩せたいうても遺体を、毛布で巻いて収めて、見えんようにしよう思ったら、50センチくらいは掘らんないかんでしょう。でもそんなに掘れないほどこっちも弱ってる。だからほんの少しだけ掘って、遺体を収めた。だから毛布がちょっと見えるんですわ。そのときどないしたか。掘った泥を横に置いておいてね、手で泥救って毛布の上へ置いて、ならして、また置いてならして、その時だけ、見えないようにするんです。雨が降ったらすぐに出てきますよ。そんなことわかっとるんやけど、それ以上はしんどくてできへんから。そういう処置の仕方やったんですわ。
それで、もう食べるもんはないしね、今度死んでいくのは誰やろうと。そんなような状態ですわ。だから、目に見えるもんいうたら、もう絶望しかないんですわ。希望は微塵もない。戦争ももう負けるのわかっとるしね。毎日空襲にきて飛ばされるから兵舎なんてあらしませんよ。防空壕の中入って、穴倉生活ですわ。そしたら南洋の湿気の多いとこの穴倉生活や。呼吸器によかろうはずがないでしょう。栄養失調になっとるところへ、呼吸器患ったら、あっという間に死んでしまいます。
3つの奇跡に生かされている
1つ目の奇跡。もしも弾の当たりどころが悪かったら...(瀧本さんの肉声音源はこちら)
私が今日こうして、皆さんにお伝えできるのは、太平洋戦争中にね、3回奇跡が起こったからなんです。本当はそこで死んでもおかしくない状況だったのに、偶然が重なって生き残ることができた。話は少し戻るんですが、その第1回の奇跡が、飛龍におった時に起こりました。ある時、戦闘機がいきなり飛龍を機銃掃射してきたんです、後ろからいきなりきた。
私はちょうどその時飛行甲板のうえで、作業をやっておりました。逃げる間なんてなかったですよ、とっさやからね。だから甲板の上へうつ伏せになりました。そしたら、私の右側30センチくらいのところで機銃の弾がパンパンパーンと当たったのが見えました。弾丸が降り注いできて、ああこれで終わりかなあと思いましたわ。でも起き上がってみたらどうもなかったんですわ。痛くもかゆくもなかった。それで「あっ、これは良かったな」思ってね、引き続き、私は作業をやっておりました。ところがね、そこらへんのやつが、「瀧本、お前背中から血でとるぞ」って言うから、作業服脱いでみたら、ちょっとだけ血が出ていたんです。まあ大したことないから絆創膏貼っといてくれい言うてね。そのまま作業を続けたんです。
ところが実際はね、その1週間後に右の手が上がらんようになるんです。脇のところで突っ張っるんですわ。なんでやろう思うてとつまんでみたら、中に硬い芯があるんですわ。ちょっと肉が巻いてね。それで軍医に見てもろうたら弾が入っとるわっていうんですよ。こっちは痛くもかゆくもないのにすぐに呉の病院船に乗って、佐世保の簡易病院へ入院したんです。そして最終的には切開して弾を取り出してもらいました。
2番目の奇跡。もしもいつもの防空壕に入っていたら...(瀧本さんの肉声音源はこちら)
毎日B29が空襲にくるんやからね。来たらやっぱり防空壕へ入りますやん。私らがおった島はちっさい長い島やったんですわ、そして防空壕はこっちに1つ、80メートルくらい離れた向こうにもう1つあったんです。こっちのは入り口がおっきいし、周囲がものすごい強固な岩盤になっとったんですわ。これはしっかりしとるなぁと思うて、毎日私はこっちへ入りました。もう1つの方はね、上は薄いし、頼りないから入れるかぁ思てね。そっちの防空壕へは一回も入ったことなかった。
でもある日空襲が来た時に、ただ何となくもう一つの頼りない防空壕へ入ったんですわ。今まで入ったことがなかったのにはじめて。そうして空襲過ぎて出てみたら、いつも入っとる岩盤のとこへね、1トン爆弾が直撃してたんですよ。岩が細かく崩れて入口塞いでしまっとりました。これはえらいこっちゃと思てね、みんなお互い痩せて骨と皮とになっとるけど、そんなこと言うとられへん。しんどいの我慢してシャベル持って泥かきますやん。かいて、どけても上からザァーっと落ちてくる。どける、落ちる、どける、落ちる。これの繰り返しでね、やっと、穴がみえた。早く空気入れなあかんと思てね、入口がみえるまでは一週間かかりました。ほいで開けて入ってみたらね、20人くらいが死んどりました。空気が来る方へね、頭ガーッと突っ込むようにしてね。さぁ、その時に私思いました。なんでこっち、いつもの方へ入らんと向こうへ入っとったんやろう思てねぇ。こっち入っとたらもう、100パーセント生きとりませんよ。そうゆうことがあったんですわ。それが2番目の奇跡です。
3つ目の奇跡。もしもあの船に乗っていたら...
3番目はね、23歳ぐらいの時です。私と同じ歳くらいの連中5人に転勤命令が来たんですわ。転勤命令っていってどこ行くんやってったら、フィリピンのレイテ島に転勤せいって命令ですわ。飛行機も船もないのにどうやっていくんやと思ったら、潜水艦だと。海軍が昔使っとった古い小さい潜水艦を晩に出す。毎回、1人しか乗れなくて、それで5人やから、順番決めないかんでしょ。私は、運の悪い事に、5番になりました。早く出たいのに最後まで待たなくてはいけなかった。それで、私の前の4番までは、予定通りトラック島からレイテ島へ行きました。あぁ今度俺の番やなと思った。ところがね、連絡がはいって、「お前が乗る予定だった潜水艦、相手の軍事機関に見つかって攻撃されて沈んだど!」ゆう連絡があった。涙が出るくらいつらかったです。一人取り残された感じがした。
それから2か月くらいしてからね、通信兵が防空壕で内地のラジオを聞いとるんですわ。すると、レイテ島で大東亜戦争の最後の決戦があったと。陸軍海軍合わせての大決戦やった。その結果、日本は全員玉砕したというニュース。私それきいてね、びっくりしましたよ。レイテ島にたどり着いていたら、完全に玉砕ですやん。それが迎えに来た潜水艦が沈んだおかげで行けなかった。
こんな奇跡考えられません。だからね、わたしはいま自分の力で生きとるとは全然思ってないんです。なんの力かわからんけど、何かの力によってわたしは生かされとると思うんですわ。だから生かされたものの責任として少しでも戦争の実情をお伝えするのが私の仕事やと思ってます。生きてる間の仕事はこれしかないと思いまして、語り部をやらせてもらっております。
一度起きたら誰も止められない(瀧本さんの肉声音源はこちら)
それでは結びに入ります。言いたかったことは、「戦争は一回起きたら誰も止めることはできない」ということなんですわ。そんなことはする前からわかってる。なのになぜ起きるんや。誰が決めるんやと、考えてみてください。戦争は国家のやることだからゆうて国民投票はやりません。あくる日、起きたら戦争になっとったというて知るのが関の山でしょ。そしたら誰が決めるんや。
わたしは学校なんかで話すときね、どんなに憎まれてもいいから、私が思うとることをそのまま話します。戦争をしたいのは一部の政治家、一部の官僚、それに一部の財界の人間ですわ。これらがグループ組んで、共謀して決めるのが戦争やないかと思います。大多数の国民は戦争で大きな被害を受けて泣くんですよ。でもね、なんぼ人が泣こうがどうしようが、彼らは笑いが止まらないんですよ。武器産業とかね。兵器の金は全部国の予算から払うんですから、天文学的な数値のお金を儲けます。兵器を作る産業の奴らは一流会社で基幹産業ですやん。
一旦戦争になったら、国の予算編成は根本から変わります。一番最初に削られるのは福祉予算。みんなの生活のために一番必要なものですよ。これは無制限に削られます。今でもすでに削られているじゃないですか。私の介護保険も掛け金が上がったんですわ。いったいどないなっとんのやと。福祉削った金はどこにいくんでしょう。それはやっぱり国の軍備の拡張に使われるんですね。最近テレビ見とったら、見たこともない大きな軍艦が映っとったですわ。昔の正規の空母よりもっと大きくてびっくりしました。国民の知らん所でそうやってどんどん金を使うとるわけです。
国は守ってくれない
それともう一つ私は若者に言います。そういう財界の軍事資本の大儲けする陰でね、誰が泣くんやと。戦争に行くのは若者ですよ。こんな年寄りが行ったって使い物にならんのやから。若者の死と引き換えに、金儲けするんですよ。これが戦争なんです。そこのとこをとにかく知ってください。それを今の若者はピンときてない。この頃ちょっと変わって来よるけど。戦争は一回起きたらどんなことがあっても止められないんですわ。
だからわたし、小学校6年生にも言います。いざ戦争になったら国は君たちの命を守ってくれないんだよと。自衛隊ははっきり国民の命を守らないと言うとんのやから。自衛隊は国民の命を守るんと違う。自衛隊の仕事は「国を守る」ことやと言うとる。国の何を守るんですか。主権者である国民の命を守らんと、もっと大事なものありますか。だから当てにするなということです。だから、自分の命は自分で守るしかないんですわ。どうやったら自分の命を守れるか。よう考えてみてください。国の美しい聞こえのいい言葉にだまされたらいかんのですわ。無駄死にしたらあかんと。親を泣かせたらあかんと。これが本音ですよ。他の理屈は何もいりません。わたしはそれを訴えております。
最後に(瀧本さんの肉声音源はこちら)
私が今こうして反戦平和運動やっております。ところが17歳で海軍入った時は完全に洗脳されて軍国少年でした。ときどき、「いつから変わりましたか」と聞かれるんですわ。そういう時、「目覚めたのはトラック島におった時ですわ」と答えます。食べ物がなくて、あるのは破滅だけ。これは国にだまされたなと思った。だって考えてみたら南洋のこのようなちっぽけな島で、食べ物がなくて、骨と皮で死んで、ヤシの木の肥やしになって何が国のためやと。こんな死に方は納得できない。戦争だから死ぬのは当たり前だけれども、死に様があるやろがと思ったんですわ。その時にね、お袋の顔が出てきましたわ。お母さんこんな死に方になってごめんねと。だからね、靖国神社はね、大反対なんですわ。ここほど国民を洗脳するのに利用された施設はありませんよ。自分も死んだらあそこに入ると思うとりましたよ。でも死んで花が咲くのだったら靖国神社は花だらけやわ。だからよう考えなあかんのです。みなさん怒ってください。大きな声を出して、怒ってください。そしてそれを選挙の時に爆発させる。これに尽きると思います。そしてわれわれにはその武器しかないわけですから。
※瀧本さんのお話、通し音源はこちら。
お話を聞いて(藤原辰史先生より)
私も祖父がトラック島に海軍で行った経験があるんですけれども、ほとんど戦争については語りませんでした。でもたったひとこと、「人間よりも怖いものはおらん」という言葉だけを残して、亡くなったんです。もし祖父が生きていて戦争のことを語ったら、こんな話をしたのかなと個人的にも心が動かされました。
瀧本さんは思い出すにも苦しい記憶を、こうして声を上げ続けておられます。今日の話も大変迫力のある話ですが、ひとつひとつが詳細のデータと鮮明な記憶力に支えられている、重い重い言葉だったと私は思っております。瀧本さんに心から敬意を表したいと思います。ありがとうございました。