第8回
Born to Walk!〜「心の時代」の次を探して(2)
2019.05.06更新
昨日と本日は「復活!ミシマガジン」をお届けしています。今年1月に発刊し、おかげさまで大きな反響をいただいている『胎児のはなし』の著者、最相葉月さんと、今月25日に発売予定の『すごい論語』の著者、安田登さんによる、ちょうど4年ほど前、2015年の対談です。テーマは「Born to Walk! 〜「心の時代」の次を探して」。どうぞお楽しみください。
※本記事は、「旧みんなのミシマガジン」にて、2015年4月20日〜4月22日に掲載されたものです。
競輪選手に絶対音感、生命倫理に星新一・・・ノンフィクションの世界でさまざまなテーマに挑みつづける最相葉月さん。6本の連作短編からなる『れるられる』(岩波書店)は、そのひとつの結実といえると思います。その最相さんが、本作でも幾度と触れられている通り、5年の歳月をかけて向き合ったのが「心」の問題です。昨年1月に刊行された『セラピスト』(新潮社)でカウンセリングの実像に迫りました。
人の「心」が不調に陥ったとき、精神医学や心理療法はそれをどう癒やすのか――。世には「カウンセラー」を名乗る人が増えているのに、「心」の病は減るどころか増え続けているのはなぜなのか――。最相さんを取材と執筆に駆り立てたのは、こうした問題意識だったといいます。
能楽師の安田登さんも、最相さんとは異なるアプローチで「心」の問題に取り組みます。一昨年の暮れに小社から刊行した『あわいの力』で、古代文字と「心」の関係について、驚きの見解を披露されました。人間は文字によって「心」を獲得したのではないかという見解です。
古代中国で文字(甲骨文字)が生まれたのは紀元前1300年ごろ。当時の発掘物からは「心」を指し示す文字が見つかっておらず、「心」を意味する字が確認され始めるのは、それから300年ほど経った紀元前1000年ごろのことです。安田さんはさらに、「心」の病が増え続ける現状を前にして、「心」の限界を指摘され、「心の次」の時代にも目を向けています。
そんな「心」に目を向けるお二人が、じっくりと、静かに、「心の時代」の次を探りました。
左から『れるられる』最相葉月(岩波書店)、『セラピスト』最相葉月(新潮社)、『あわいの力』安田登(ミシマ社)
(構成:萱原正嗣、写真:新居未希)
「永遠に今を生きる」人たち
安田 認知症の研究をされていた大井玄先生から、僕も興味深いお話を伺ったことがあります。認知症というと徘徊とお漏らしが問題にされますが、「○○してはいけない」という禁止を課さなければ、認知症でも徘徊もお漏らしも起きないという話です。
つい先日、ご住職の釈徹宗さんが運営される介護施設の「むつみ庵」を訪ねたら、そこは実例として徘徊とお漏らしがないと聞いて驚きました。開設当初は施設の庭でお漏らししてしまう人もいたようですが、だからといって外に出られないようにカギをかけるでもなく様子を見ていたら、しばらくして誰もお漏らしをしなくなったそうです。
最相 すごいお話ですね。徘徊のほうはいかがでしょうか。
安田 驚いたのは、施設では門にカギをかけないと言うのですね。各人が自分の意志で外出していくわけですが、道に迷うこともなくちゃんと戻ってくる。みなさん自分が戻ってこられそうな距離感を見極めて、それより遠出はしないんだそうです。カギをかけないからそもそも逃げ出す意識が働かないんじゃないかと、釈さんは話されていました。禁止がない社会においては、認知症は脳の新たな可能性を示しているのかもしれませんね。
最相 私からももうひとつ例を挙げさせてください。2000年に公開された『メメント』という映画がありました。外傷で記憶を短時間しか保てなくなる「前向性健忘」になった人物が主人公です。殺された妻の復讐のために真犯人を捜すという切迫したストーリーであるためか、主人公の苛立ちや焦りが印象づけられるのですが、私の知り合いで事故で同じ症状になった人を見ていると必ずしもネガティブなことばかりとはいえないように思えるのです。日常生活でイライラすることはあるようですが、性格はとてもチャーミングで、健常者であれば囚われてしまうような物事から自由になっているようにも見えます。時間認知と心のあり様には深い関係があるのかもしれませんね。
安田 ガンの余命宣告は、かなりの確率で当たると言われます。これは、宣告された時間に向けて自分で命を終えるようにプログラムしちゃうんじゃないでしょうか。不安や絶望が余命を決めてしまうのかも。
というのはね、認知症の人にガンの余命宣告をしてもほとんど当たらないそうなんです。しかも、多くの方がそれより長く生きる。認知症の人は、時間の認知が変わることで未来に対する不安もなくなり、結果として余命宣告よりも長生きする。時間認知の違いが、この結果の違いをもたらしているのではないかと思います。
最相 認知症の方は「計画」を立てないということですよね。未来を先取りしてあれこれ悩むこともない。
安田 お知り合いの方も未来に対する不安がなくなって、「永遠に今を生きる」ことで晴れやかな日々を手に入れられたのかもしれません。
ただ、この「不安がない」というのは、未来の時間感覚だけでなく大昔の時間感覚の可能性もあると思うのです。古代の叙事詩や神話を読むと、人間による選択や計画がありません。選択をするのは神様で人間はそれに従うだけ。あと古代の物語の特徴としては「色彩が曖昧」であることと、そして「嗅覚が少ない」ことがあります。これって夢に似ていませんか。夢の中で「う~ん」と計画を立てることってあまりないでしょ。選択もできない。色も曖昧だし、匂いもあまりない。ひょっとしたら人間は、古代の時間感覚を「夢」として記憶しているんじゃないかと思うのです。
少し話が飛びますが、人間は視覚以外にも「見る」力を備えています。夢がその代表例で、光を網膜で感じなくとも、たしかに「見る」ことができます。そう考えると、人間の意識にはもっとさまざまなステージがあってもいいはずで、さらなる意識のステージを獲得すれば、脳の拡張が起こるはずだと思っています。
脳の拡張は、時間の認識に大きな変化をもたらす可能性があります。今の私たちは、過去・現在・未来のリニアな流れで時間を把握しているつもりになっていますが、実は時間そのものを形容する言葉を持ちあわせていません。「長い時間」とか「遠い過去」とか、距離の概念を援用して時間を把握しているにすぎません。時間を直線的に捉えてしまうのはそれが理由で、時間認識を変えるには、脳の構造や知覚そのものを変える必要があります。
最相 脳の拡張とは壮大な話ですね。具体的にはどのような試みを考えておられるのでしょう。
安田 そのために、面白そうな実験を企んでいます。いま『イナンナの冥界下り』という作品を作っています。これは現在確認し得る最古の言語であるシュメール語と能の謡で演じるという作品です(初演6月6日、山のシューレ)。また、泉鏡花の『海神別荘』も上演するために準備中です。こちらは内田樹さんのところの凱風館で9月に初演です。
両方とも能の様式を使い、それにさまざまな芸能や音楽、ダンス、アートを組み合わせて作っているのですが、将来的にはお客さんに「ホロレンズ」を付けて観てもらおうと思っているのです。「ホロレンズ」というのは、今年の1月に、マイクロソフトが発表したメガネ型のホログラムコンピュータなんですが、現実の世界にヴァーチャル・リアリティが重なるんです。これって脳に対する挑戦です。しかも、未来的時間を内包している能楽。そんな演能・観能をしたらどんなことが起こるのか、試してみたいと思っています。その準備に今はオキュラス・リフトを購入して、いろいろ実験中です。
僕は学者ではありませんから、気になることはまずは身体を使って演じてみることにしていて、そのとき芽生える感覚が、いろいろなことを考えるヒントになっています。
最相 これまで私も錯覚という現象を通して脳の潜在的な能力には驚かされてきましたが、古来、時空を超越した世界を表現し続けた能楽であるからこそ生まれる新しい感覚をぜひ体験してみたいですね。
記憶を失っても道はわかる
最相 先ほど、外傷で記憶を短時間しか保てなくなる「前向性健忘」の知人の話をしましたが、その知人は会社勤めをしています。どんなふうに毎日を過ごしているのかをご家族に尋ねたら、その日にすべきことを何度も家族と確認して、必要なことはメモをして、それでどうにか対応できているということです。
不思議なのは、記憶は保てなくとも通勤経路は体で覚えていることです。ひとりで電車に乗って会社に通っています。ただ、東日本大震災のときは大変な思いをしたようです。普段乗っていた電車が動かず、道路もあちこち通行止めで、体で覚えていた通勤経路が寸断されてしまったわけですから。
安田 空間認知は、時間の認知や記憶とは違う働きをしているということなんでしょうね、きっと。そう考えると、スマートフォンやグーグルマップ、カーナビの普及は、人間の空間認知を大きく変えてしまう可能性がありますよね。
最相 どういうことでしょうか?
安田 道をよく覚えているタクシーの運転手さんと話をすると、行く先々で見掛ける看板などで風景の記憶がよみがえると言います。カーナビも搭載はしているけれど、あくまで保険というか、実際に使うことはあまりないんだと。
ところが、カーナビとかグーグルマップに頼っていると、空間にほとんど目がいきませんよね。地図だと自分の現在地から目的地へのルートを平面で捉えがちです。上空から見た鳥瞰図としての平面です。たとえば、ここ、ミシマ社の自由が丘オフィスもね、グーグルマップを頼りに来ようとするといつも迷うのですがが、道中の風景を見ていると、どこで曲がればいいかを体が自然と思い出します。
最相 目の見えない知人が、阪神大震災のときに道に迷ったという話も聞きました。それはつまり、普段は景色を物理的には見えていなくても、何らかの方法でイメージして記憶できていたということですよね。それが震災で地面がデコボコになったり、建物が倒れたりして、それまで脳の中にあった空間の記憶が崩れてしまったということなんだと思います。
安田 『あわいの力』でも触れたことですが、駒込にある六義園には、庭園の風景を描いた江戸時代の絵巻物が残っています。面白いのは、俯瞰の視点で描かれた地図ではなく、庭園を歩く人の視点で描かれていることです。地図には俯瞰的な地図と、ウォークスルー的な地図があります。日本の庭園はウォークスルーで歩きながら変化を楽しむようにつくられています。で、日本人はそのウォークスルー感覚がとても優れていて、それを受け継いだのがRPG(ロールプレイングゲーム)じゃないかと思うのです。そういう意味では、先ほどお話したヴァーチャル・リアリティなども日本ですごいことが起こるんじゃないかとも思っています。で、それがインターネットの世界でも画期的な発明を生み出すんじゃないかとも思っているのですが、近頃の若い人と話をすると、新しい場所に行くときはいつもグーグルマップ頼みです。このままいくと、日本のウォークスルー文化も先が危ういかもしれません。
古代日本から続く「歌の道」
安田 僕は歩くのが大好きで、道にもすごく興味があります。日本には大宝律令(701年)以来、五畿七道と呼ばれる道というか行政区分がありましたが、それらがオモテの道だとすると、どうやらそれとは異なるウラの道があったようです。
最相 どんな道でしょうか?
安田 能に出てくる大きいものは3つあって、そのうちひとつが「天狗の道」、あるいは「鬼の道」と呼ばれる道です。九州・福岡の英彦山(ひこさん)から本州にわたって日本海側を通って東北の出羽三山にまでつながります。そのルートは途中でわかれて富士山にもつながります。富士山は月につながる道とされていて、この月は天竺にまで通じています。何とも不思議な道ですが、能にはすごくよく出てきます。
もうひとつは、神奈川の足柄ぐらいから始まって、かつては美濃の国(岐阜県)までつながっていた太平洋側の「遊女の道」があります。この道は、平安時代の終わりごろ、後白河法皇が京都までつなぎました。
もうひとつは「海の道」ですね。結婚式などで謡われる能『高砂』の「高砂や」の謡は、この「海の道」を謡う「道行(みちゆき)」です。
能だけではなく、日本のほとんどの芸能には、「道行」というものがあります。土地の名前を読み込んでいく歌謡の形式で、この歌の間に登場人物は旅をしたり、移動をしたりします。能では、最初のころにワキが歌を詠みながら旅をする場面が出てきます。これも「道行」です。ワキは諸国一見の僧。どこに行くかもわからない漂泊の僧侶です。が、最初の一句を謡い出すと、次にどの道を行くべきかは歌の掛詞(かけことば)によって示されるのです。そして、それに従って行くと「歌枕」とされる地にたどり着きます。「歌枕」を訪ねて歌を詠み、その掛詞によってまた次の道が示される。「天狗の道」も「遊女の道」も、そういう「歌の道」、「ソングライン」だったとされていて、それが太平洋側と日本海側に別々にあったのが面白いなと思っています。
最相 能は二十代の頃によく見に行きましたが、「旅人」というのはとても重要なキーワードですね。安田さんもその道を歩かれたのですか?
安田 太平洋側の「遊女の道」はまだちゃんと歩いていませんが、日本海側の「天狗の道」は、いくつかを歩いたことがあります。クルマで山道をくねくね行くより、山の中を歩いて行ったほうが早かったりするんです。
今年は引きこもりの子たちと出羽三山に登ろうと思っていて、出羽羽黒山神社の方にもいろいろお話を伺っています。その方は最初に月山(がっさん)に登ったときはすごく疲れたそうですが、2度目に老齢の先達の人と歩いたらまったく疲れなかったということです。先達の人が言うには1000年ぐらい前から踏むべき場所が決まっていて、そこを踏むとまったく疲れないんだそうです。芭蕉もそこを踏んで歩いたとかで、能のワキはそういう道を、歌を詠みながら、探していったんじゃないかと思っています。「歌枕」の「まくら」は「真実の蔵」ですから、そこに眠る霊がいて、その霊と出会っていくのが能じゃないかと思って、私も道を歩いています。
最相 先達の足あとを踏むことにはどういう意味があるのでしょうか? その先達の方も最初は誰かに導かれたわけですよね? 始まりはどこにあったのでしょうか?
安田 意味まではわかりませんが、それが鬼の足跡ということだと思います。能の舞に「序之舞」という舞があり、舞を始める前に「序の足使い」をします。それを「序を踏む」といいます。また能『道成寺』の中には、とても不思議な舞「乱拍子」があるのですが、それも「乱拍子を踏む」と言います。日本では古来より「踏む」ことを大事にしてきたのだと思います。
「おくのほそ道」歩き
安田 先ほど、引きこもりの子たちと俳句を詠みながら「おくのほそ道」を歩いている話をしましたが、「箱庭療法」の曼荼羅さながらに、ある日突然、詠む句が劇的に変わることがあります。それまではずっと下を向いて歩いていて、「俳句の本 読んでみたけど わからない」みたいな句を詠んでいた子が、ある日を境に「天高く 心も澄みし 秋の空」という歌を急に詠み始めるんですね。顔つきも大きく変わりますし、何より笑うようになります。理由はわかりませんが、こうしたことがほぼ毎回のように起こります。
最相 とても興味深いお話です。だいたいどれぐらいの人数で歩かれるのですか? 大人は同行されるのですか?
安田 あ、引きこもりの子といっても40歳以上の方もいるので、子どもというわけではありません。少ないときで6~7人、多いときで十数人、そのときは2つか3つのグループにわけて歩きます。芭蕉の跡を追って歩くのですから、俳諧のグループのように、この人数をひとつの「座」にします。いちおう各グループにひとり「宗匠」と呼ばれる人も付いて歩きますが、宗匠は絶対に口出しをしません。地図を見ながら座のメンバーたちが自分たちで道を決めるのを黙って見守ります。明らかに道を間違えていると思っても、彼らと一緒に道に迷います。
僕たちスタッフチームは付き添いもせず、あちこちの喫茶店に寄り道しながら、何時間かに一回か合流して少し話をするだけです。なので、彼らが変わるのは僕たちの関与があったからではなくて、彼らが自分の力で変わっていきます。
最相 道に迷うということは、目的地は定めているということでしょうか?
安田 芭蕉の『おくのほそ道』を辿っているので、芭蕉が泊まったところが目的地になります。東日本大震災があった2011年の秋に歩いたときは、平泉の中尊寺が目的地でした。道中でスティーブ・ジョブズの訃報が飛び込んできました。夜の集まりで「ハートとIntuition(直感)に従う勇気を持つ(have the courage to follow your heart and intuition. )」というジョブズの言葉を紹介したら、次の日からは地図もまったく見なくなって、彼らの直感でまったく道もないところに入って行ってしまいました。もう、追いかけるのが大変で(笑)。でも、それがあとで調べたら、本当に芭蕉が歩いた道だったことが判明して驚いたこともあります。
最相 まさに先人の足あとを「踏む」道だったわけですね。距離や期間でいうとどれぐらい歩かれるのですか?
安田 時間にしてだいたい一日8時間、それを8~10日ぐらい続けて歩きます。変化が起こるのはたいてい4日目とか5日目とかそれぐらいです。面白いことに、変化する前の日は必ずといっていいほど雨が降ります。雨のなかをずぶ濡れになりながら、田んぼのあぜ道を歩いた翌日にだいたいガラッと変わります。
最相 自然と交わることが心に作用するということなのでしょうか? 日が射すことで何かが降りてくるようですね・・・。
安田 なるべく芭蕉が歩いた道をたどろうとするので、田んぼのあぜ道や泥道もあります。そんな中も合羽だけを着て、ずぶ濡れになって歩いていると、ふつうつらいわけです。そのつらさが、彼らを雨と一体化します。雨と一体になっているとつらくなくなるんです。で、自分が雨になっているから、日の光がさすと、今度は自分自身が光そのものになります。「旅の空 我が人生に 光射し」という句を詠んだ人もいますし、「雨の日にはじめて自分が芭蕉のあとを歩いている気がした」と言った人もいます。
人間は歩くために生まれてきた
最相 ウォーキングというと軽くなりますけど、歩くのは本当に心身にいい効果をもたらしますよね。私も歩くのが好きで、歩き始めて2年になりますが、浮き沈みの激しかった気持ちも安定するようになりました。歩くのは朝なので朝日を浴びられるのも気持ちいいですし、途中で必ず意識して鼻で深呼吸するようにもしています。鼻呼吸は口呼吸より体内に酸素を取り込む量が多いといわれていますが、朝の澄んだ空気が脳に染みわたる感覚があります。
安田 『BORN TO RUN 走るために生まれた』(日本放送出版協会)という本がありましたが、僕は「Born to Walk」だと思っています。人間の足は走るためというよりも、歩くためにできていると思います。
最相 歩くことはある年齢になれば誰でも上手くできる当たり前の行為のように思われていますが、実は容易に下手になれるんですよね。一例ですが、競輪やロードレースの選手たちはみな歩くのがとても苦手なんです。毎日何時間も自転車に乗り続けて練習するので、歩き方がわからなくなるというのです。自転車体型になってしまうみたいですね。
安田 歩くのにも実はコツがあります。筋肉を使わないで歩くのが大事なんですね。「おくのほそ道」もそのコツを練習してから歩くので、みな楽に歩きます。
最相 筋肉を使わずに歩くというのは・・・?
安田 能のすり足の歩き方が理想型です。舞台の上で歩くときは、膝を緩めてかかとを床からできるだけ離さずに歩きます。これをマジメにやろうとするとすごく疲れますが、それだと80歳とか90歳の人が現役の能楽師でいられるわけがありません。疲れないコツがあって、足をぶら~んと振り出すようにすればいいんですね。能のすり足は、かかとを床につけたまま足をぶらぶらと振りますが、道を歩くときはかかとから足を前に振り出すつもりで歩くと疲れません。登りの坂道もけっこう楽ですし、足を前に振るとき体も前に行こうとするからスピードもけっこう速くなります。
最相 かかとを振り上げてかかとから下ろす歩き方ですよね。その歩き方、たぶん私も無意識のうちにやっているかもしれません。けっこう速く歩けますよね。ホノルルマラソンに「レースデーウォーク(10km)」というウォーキングの部があって、去年それに参加したのですが、苦もなく歩いて一緒に行ったツアーの女子で一番でした。ふだんも意識しなければゆっくり歩けないのですが、その理由が今わかりました。
安田 この歩き方は大腰筋の活性化にもつながります。テレビの番組で大腰筋を計測してくれるというので、僕も観世流の津村禮次郎先生と一緒に調べてもらったことがありますが、50代の僕が20代の大腰筋で、70代の津村先生は30代の大腰筋でした。
最相 それはすごいですね。何年か前にNHKスペシャルでうつ病の特集がありまして、歩いたりジョギングしたりすることには抗うつ剤と同じレベルの効果があることがアメリカの研究でわかっているようです。安田さんのお話を伺って、歩くことは体と心にいい作用をもたらすとあらためて実感しました。安田さんの「おくのほそ道」歩きのように、歩く活動がもっと広まるといいですね。
安田 僕が個人でできることには限界がありますが、歩くことがもっと注目されてもいいですよね。人間は「Born to Walk」なわけですから。
最相葉月(さいしょう・はづき)
1963年生まれ。ノンフィクションライター。著書に『絶対音感』『星新一 一◯◯一話をつくった人』(共に新潮文庫)、『セラピスト』(新潮社)、『れるられる』(岩波書店)など多数。
安田登(やすだ・のぼる)
1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた二五歳のときに能に 出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催す る。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』(以上、春秋社)、『身体能力を高める「和の所作」』『異界を旅する能 ワキという存在』(以上、ちくま文庫)、『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社)など多数
編集部からのお知らせ
安田登さんによる新刊『すごい論語』発刊します!
『あわいの力』でおなじみの、能楽師である安田登さんが、いとうせいこうさん(音楽)、釈徹宗さん(宗教)、ドミニク・チェンさん(テクノロジー)と、各分野で活躍する「すごい」人に『論語』を投げかけた一冊です。ぜひお近くの本屋さんでお手にとってみてください。
『すごい論語』刊行記念トークイベント(安田登×釈徹宗×ドミニク・チェン)開催します!
5月25日(土)発売予定の新刊『すごい論語』の刊行を記念して、著者の安田登さん、本書における対談相手の釈徹宗さん、ドミニク・チェンさんによるトークイベントを開催します。
【会場】青山ブックセンター本店
【日時】2019年5月25日 (土) 18:00~19:30(開場17:30~)
【会場アクセス】
東京都渋谷区神宮前5-53-67
コスモス青山ガーデンフロア (B2F)