第34回
【お盆に読みたい!】内田樹×釈徹宗
「今年のお盆の迎え方
〜日本宗教のクセを生かして」
2024.08.09更新
こんにちは。ミシマガ編集部です。
まもなく、お盆がはじまります。そんな今、ぜひお読みいただきたい本が、内田樹さん・釈徹宗さんの『日本宗教のクセ』です。
本書は、ちょうど1年前の2023年8月に刊行され、その発刊記念イベントのテーマは、ずばり「今年のお盆の迎え方〜 日本宗教のクセを生かして」でした。内田先生と釈先生の縦横無尽な宗教対談には、まったく知らなかった、「お盆」の感じ方が変わるお話がたくさん!
お盆の時期を豊かに過ごすには? そしてそもそもお盆とは何か? なぜこの時期なのか?
死者や目に見えないものに思いをはせることの多くなるこの時期、ぜひ多くの方にお楽しみいただけたらと思い、対談の一部を復活記事としてお届けします。
(対談収録日=2023年8月5日)
花火を見ている人もじつは・・・・
釈 やっぱりお盆といえば、先人に思いを馳せる日ということになりますよね。「お盆の迎え方」が今日のテーマではあるんですが、お話を総論的にするのは難しいんですよ。というのは、お盆というのはずいぶん地域によって様式も違えば、お作法も違いますし、ストーリーも違いますし、また宗派や宗教も違うので、ひとくくりに「こういうふうに過ごすのが正しいお盆ですよ」という語り方は難しい。
釈徹宗先生
内田 そうですよね。日本人の場合って神仏習合的宗教性なので、神社の夏祭りっていうのも何となくお盆っぽい。こないだ大阪で天神祭がようやく4年ぶりに復活したので、我々も供奉したんですけど、夏祭りのメインの趣旨というのは、疫病退散を祈願するっていうんですかね。僕の中では仏教的なお盆と、わりとオーバーラップしていて。あそこに花火を見に来ている人たちというのも、意識としては何となくある種の日本の伝統的宗教儀礼にちょっといっちょかみしてる、そういう気持ちでいらしているのではないかしら。
内田樹先生
釈 なるほど。確かにお盆はずいぶんいろんなものが混交して出来上がっているので。夏祭りといえば疫病退散。かつては感染症が夏にすごく流行ったのでそれを恐れて始まったと言われているんですが、やっぱりあれですよ、「神様仏様ご先祖様」みたいな括りで。
内田 まるっと一つのカテゴリーになってしまう(笑)。
釈 そうやって括っているのが日本のお盆ですね。
お盆はインドの雨季からはじまった?
内田 お盆ってもしかして、日本固有ですか?
釈 お盆自体はわりと汎人類的なところもありますよ。
内田 ほう。
釈 日本のお盆は、なかなかややこしいんですが、一つは大変有名な仏教起源説ですね。
インドからずっと中国、日本と渡ってきた。この時期、インドは雨季ですので、お坊さんが外に出歩いて修行をしない。精舎に集まって、いろいろ学問的な修行をしたりして、安居(あんご)というんですけど。その安居の最後の日を自恣(じし)というんです。その日にお坊さんに食べ物を供養したりすると、亡くなった人の追善供養になるという信仰があって。それでこの時にお坊さんに来てもらってお経をあげてもらって、いろいろなお供えをするっていうのが仏教ルートのお盆なんですよ。
内田 だいたいいつ頃ですか?
釈 複数のパターンがあるのですが、7月の15日あたりだそうです。
内田 天神祭りが7月25日ですから10日違いですね。
釈 今もこの時期にお盆をやっているのが関東地方とか。大体7月の13〜15日ぐらい。
内田 7月のお盆と8月のお盆があるんですね。
釈 そうなんです。旧暦の7月15日あたりは新暦だと8月半ばになっちゃう。日付のほうを守ってるのが7月のお盆で、時期を守ってるのが8月のほう。でも元々お盆って旧暦なので動くんですよね。だから7月から9月ぐらいまで毎年毎年動く。
内田 移動祝祭日ですね。
釈 そうです(笑)。かつての暦だとそういうふうになるんですけど、何となく旧暦と新暦をミックスして、二つに落ち着いているわけです。お中元の季節の中元、これが7月1日から15日です。この中元のときに、先祖供養をするという道教由来の・・・
内田 それは道教なんですか?
釈 道教なんですよ。それが混じってる。儒教の先祖供養も混じってる。というのが、日本のお盆のおおよそなんですけど。
内田 全部入ってるんですね。
お正月の正体
釈 そもそも、夏至とか冬至とかに・・・、
内田 人類は必ず祭事をする。
釈 そうなんです(笑)。冬至で言うとハロウィンも冬至ですし、夏至とか冬至にはこの世界の秩序が揺らぐと古代人は考えていまして。だからこの時期には死者と生者の境界が下がる。そうすると行き来が始まっちゃう。このときは宗教儀礼を行う。
内田 境界線を守らなきゃいけない。
釈 はい。これが、どうも東アジアの場合はお盆になり、冬至のほうは、ずれてお正月なったんじゃないかっていう。
内田 お正月! お正月って宗教儀礼なんですか?
釈 はい、日本の場合は年神がやってきて、歓待して、機嫌よく帰っていただく。
内田 年神っていうのはなんでございますか?
釈 新しい年を運んでくる神様。
内田 図像的にはどんな感じなのですか?
釈 男性神で表現されたりもしますが、もともと図像はないんですよ。古い信仰の中で造形されずにやってきた。神様の場所を用意しないといけないので、鏡餅を神様の依代に。
内田 あっ、鏡餅ってのは神様の依代なんですか。
釈 そうなんです。そしてうちはここですっていう印のために、門松を。
内田 あっ、毎年置いておきながら、門松が何のためにあるのか今初めて知りました(笑)。
釈 年神様をきちんとお迎えして、ご機嫌で1月15日に送り出す。それが終わったら門松や注連縄などをみんなで燃やす。
内田 年神様は15日間滞在される?
釈 そうです。
内田 でも、うち7日ぐらいに鏡開きといって鏡餅を叩き割ってしまっている。
釈 それは別に大丈夫です(笑)。でも15日までは松の内という言い方をして。
内田 松の内って15日なんですか。先生、もしかしたら松の内というのは年神様が門松の内側にいるからですか?
釈 ええ、そう考えてもよいと思います。あるいは、門松などを飾っておく期間が松の内。
内田 全然知らなかった。
釈 夏至がお盆の源流とすれば、お盆はかなり汎人類的だと言えるでしょう。人類全般的にだいたい夏至に宗教儀礼を営むという、そういうわりと壮大な話です。
鬼神から学んだコミュニケーションの極意
内田 夏至と冬至のときに、死者の世界というか、その超越的なこの世ならざるものと、人間のこの世俗の世界の間のボーダーラインが少し低くなって、何かがやってくる。この世ならざるものっていうのは、この世の度量衡では計り知れないし、推測もできない。でも一つだけ、いかなる鬼神であれ、一つだけコミュニケーションできる方法があるというのを、人類が古代に発見した。それは「鬼神は敬して之を遠ざく」、つまり「敬する」なんですね。
釈 『論語』の言葉ですね。
内田 その鬼神を抱きしめるとか、理解するとか、そういうのは通じないんですよね。愛とかそういうのって。でも唯一通じるのがリスペクトですよ。
つまり、ボーダーラインの向こうから来ますよね。来たときに、彼らが「自分がここに来た」ということを確認する方法というのは、我々生きている人間たちの価値観や物差しでは考量しえぬものが登場してきたということで、みんながさっと引いて距離を取ってその儀礼を行うと、その儀礼だけはとりあえず通じる。何て言うのかな、これ僕ね、本当にすごい知恵だと思うんですよね。
結局、その鬼神の類というのは、コミュニケーション不可能なわけですよね。コミュニケーション不可能な、外部から到来するものに対してでも、一つだけ、人間の側がコミュニケーションができるものがあって、それは敬意を表すること。これだけは、この敬意だけは鬼神と言えどもそれを感応する。それ以外のものは感応しない。これって多分、古代人の宗教的な身体的実感からきてると思うんですよね。いろんなことをやってみてうまくいかなかったけども、リスペクトだけは伝わった。それが宗教儀礼の一番根本にある。これね、人間関係でも、そうなんですよ。例えば愛って伝わらないじゃないですか。ね、心の底から燃え盛るような愛を持っていても全然気づかないってことあるじゃないですか。だけど敬意って、僕が釈先生に敬意を示したら、必ずわかりますよね。
釈 はい、わかると思います。
内田 例えばその50人のクラスで、よく知らない子たちが雑然といる場合でも、敬意というのは、全然知らない人から示されてもわかる。何て言ったらいいんだろう、敬意はピュアですよね。人間的な欲得みたいなものがあんまりなくて、この人とは適切な距離を取らなければいけないと。近づき過ぎてもいけないし下がりすぎてもいけないという、距離感についてすごくセンシティブになっている状態って、すぐわかるんですよ。これがザーッと入ってこられると無礼なやつ、かといってはるか遠くに行っちゃうと無関係になるわけですよね。
だけど、すごく適切な間合いを取ろうとする人って、すぐわかるんです。「この人は僕と適切な間を取ろうとしてる」と。
釈 確かに。
内田 だから愛は伝わらないが敬意は伝わるという。でも、この「愛より敬意」というのは、自分たちの人間世界における経験を鬼神に投影しているのか、あるいは鬼神の類との交渉の経験、宗教的経験から導かれたものなのか。僕は宗教的経験から導かれたものだと思うんですよ。人類が敬意というものを発見したのは、鬼神と出会ったことによってであった。どないでしょうか?
脱「悪しき合理主義」
釈 「どう向き合っていいかわからないけども、敬意を示すために出来上がってきた」、その先人の知恵を引き継いで、同じ順序で接するというのが、だんだん儀礼として、整備されていったんでしょうね。ですからお盆でも手順が結構大事な地域がありますでしょ。まずお墓に行って迎え火を焚いて。きゅうりで馬、なすびで牛を作ったりして。早く帰ってきてほしいから来るときは馬で、帰るときはゆっくり帰ってほしいから牛で。おもしろいのいっぱいあるんですよ。まずは「おがら」を焚くでしょう。
内田 おがらってなんですか?
釈 おがらって麻の茎の抜けがらなんですよね。糸を取った後のからを焚くんですよ。麻っていうのは、日本にとってはすごく宗教的な意味があって、だからおがらを焚くんだと思うんですね。それで、奈良かどっかに、「吊り橋」を仏壇の前に作るところがあるんですよ。
内田 吊り橋渡ってくるんですかね?
釈 どうしてそんな難しいことをさせるのかなあと思って。「吊り橋効果」かなんか狙ってるんですかね(笑)。
内田 ドキドキしてくる(笑)。
釈 好きになるように(笑)。とにかく多種多様ですよ、あの手順っていうのは今も厳密に守ってる方たちもいれば、どんどんどんどん簡略化されてるところもあるでしょうけども、お盆の複雑な手順を上の世代からちゃんと引き継ぐみたいなことも、一つやっぱり家制度を支えるために大事なものだったんだろうなと感じます。
内田 そうでしょうね。家督を継ぐ者に口伝で伝えていくとかあるんでしょうね。
釈 はい。またですね、日本のお盆はちょっと面白くて、「施餓鬼」とかするじゃないですか。宗派によるんですけども、餓鬼道に落ちた人のためにご供養する。多くの地域の皆さんがお寺に立って、お寺ではその施餓鬼の塔婆を買って、お家に持って帰って、終わったらお墓にさす。お墓に時々塔婆がいっぱい建っていることがあって、それは施餓鬼なんですよ。つまり全然見ず知らずの人のためにやってる。餓鬼道に落ちた人のために何かご供養する。ですから決して自分のところの先祖のためだけにやってるわけじゃなくって、別の世界に行って苦労してる人が少しでも救われますようにというのが、お盆にあったりします。そういう一つの生命観。面白いです。
内田 死者に対して、生きている人間の気持ちが何らかの形で伝わっていくということですね。宗教的感受性の一番基本ってそうなってますよね。死んじゃった人間は生物学的に死んじゃったらもうゼロだと。そんな人間に向かって何言ったって意味がない。「ご供養とか言ったって相手は死んでんだぜ馬鹿野郎」、っていう人もいるじゃないですか。悪しき合理主義者たち。でも多分宗教の出発というのは、死者にもメッセージが送れるし、場合によっては死者からもメッセージが返ってくるということ。現実世界にいる人間に比べるとずっとかすかだけども、シグナルを発信したり、受信したりすることができるものとして、死者とか鬼神を捉える。僕ね、宗教性の一番核心部分って、「コミュニケーションの可能性を信じる」ということだと思うんですよね。
釈 この本でも、終始語られているテーマや、発せられているメッセージは「宗教的成熟をみんなで目指そう」なんですよ。全編その話になっておりますので、読んでいただいたら、感じることができると思います。今おっしゃったように、悪しき合理主義というのは、コミュニケーションの回路を自ら断っているわけですよね、もう。自分が扱える範囲しか受け入れない。ですけども、でもやっぱり死者とのコミュニケーションというのは、少し自分自身の心を静かに整えると、むくむくと立ち上がってきます。
釈先生がお話しくださったように、『日本宗教のクセ』で一貫して語られたのは、「宗教的成熟をみんなで目指そう」というメッセージでした。そのために、私たちの日常に埋め込まれている、日本宗教のクセの叡智に、直感的に気づいていく、そのセンスを磨いていくためのヒントが満載です。
この機会にぜひ、お手に取ってみていただけたら嬉しいです。