第3回
ユマニチュードを学びにフランスへ
2021.07.29更新
パリで国内線に乗り換えて夕方に到着したのは、ペルピニャンというスペイン国境近くの街でした。1日に数往復パリ便が飛ぶだけの小さな空港で、飛行機に横付けされたタラップを降りて、滑走路の端っこを歩いて建物に入ります。手荷物のベルトコンベアがひとつあって、そこには迎えの人も入って来れるようになっていました。乗客はヨーロッパの人ばかりで、私は唯一のアジア人でした。「手荷物受取場所で待っていますね。たぶん見つけられると思う」とメールをいただいていた理由がわかりました。
鮮やかな赤のサロペットをお召しで、とても穏やかな笑顔の男性が「Dr. Hondaですか?」と声をかけてくれました。私がメールで見学をお願いした、イヴ・ジネスト先生でした。「急なお願いをお聞き届けくださり、ありがとうございます。2週間、どうぞよろしくお願いいたします」と申し上げたところ、「ようこそ、いらっしゃいました。お待ちしていました。長旅、疲れていないですか?」とねぎらってくださり、「フランスでは、挨拶はこうやって左右の頬を合わせるんですよ」とビズといわれる挨拶の方法を教わりました。「右からですか? 左から?」「どっちからでも良いです。相手に合わせれば大丈夫」
この後私は思い知るのですが、フランスでは挨拶がとても重要で、その場にいる人全員にこれをやらないとまずいのです。来た時と帰る時に必ず全員にビズをすること。ジネスト先生の周囲の方々は、会議中でも誰かが入ってくると、一旦話をやめて立ち上がり、全員がひととおりビズをします。別れる時も「じゃあね」と手を振るだけではだめで「ビズ忘れてるよ!」とたしなめられます。
私が見学させてください、とお願いしましたのは、ジネスト先生とロゼット・マレスコッティ先生のお二人が40年以上かけて現場の経験から創りあげたケア技法・ユマニチュードです。本来、教えを乞う私がフランス語を理解できるよう準備すべきなのに、「先生方のケアを見学させてください。私はフランス語がわからないので、英語で教えていただけないでしょうか。もし通訳が必要でしたら、手配いたします」と勝手なお願いを申し上げ、先生からは「大丈夫。通訳の心配はいりません」とお返事をいただいていました。
ところが、空港からの道すがら、「私もロゼットも、英語はあまり得意ではないので、貿易の仕事をしている息子に休暇をとってもらって一緒に来てもらうことにした」と伺い、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。息子さんは「こんなに親の仕事に同行することはこれまでなかったし、ちょうど良い休暇になってるから気にしないで」と言ってくださり、6ヶ国語が話せる息子さんと、ジネスト先生、マレスコッティ先生と共に、私はその日から2週間とても楽しい経験を積むことになりました。
日本で雑誌の記事を読んだときには、お二人の仕事の全貌がよく分かっていなかったのですが、お二人は施設をお持ちなのではなく、看護や介護の専門職を対象にケアの技法を教えるInstitut Gineste-Marescotti(ジネスト・マレスコッティ研究所)を設立し、多くの介護施設や病院でケアを教えていらっしゃいました。フランスでは、業種を問わず、被雇用者を対象とした研修の実施が経営者に義務付けられており、そのための経費も人件費の(たしか)1.5%と法律で定められています。病院や施設に限らず、レストランにお勤めの方も、会社員も、公務員も、年間に数日の研修を受ける必要があり、その内容は各企業が自由に決めることができます。このような国の制度のもと、看護や介護の専門職の職務内容に具体的に役立つケア技法として、ユマニチュードはフランス国内の約700あまりの施設で教えられています。
私は2週間にわたって、フランス南部の街で行われているユマニチュードの研修をいくつか見学し、部分的に実際に参加することになりました。介護施設や病院など施設の形態はさまざまで、また、ジネスト・マレスコッティ研究所の所長が海外からの視察の人(私のことです)を同行して訪問する、ということから、単に研修を見学することにとどまらず、それぞれの施設や病院の医師や理事長から具体的なお話を伺ったり、意見を交換したりする機会をいただく、とても実りある日々となりました。
挨拶はとても大切なので、どこに行っても私はビズと自己紹介をしなければなりません。自己紹介も名前だけではなく、自分がこれまでどんな仕事をして来て、どうしてここにいるかを説明し、質問も受けなければなりません。大変です。通訳の息子さんが大活躍でした。面白かったのは、訪問3カ所目くらいから息子さんが私の自己紹介を代わりにしてくれるようになったことです。私はビズと名前と少し自分の仕事を話すだけで、後は息子さんが引き受けてくれて助かりました。
ユマニチュードの研修の独創的な点は、各施設や病院の職員が毎日の仕事を行なっているケアの現場で、彼らが「最も困難だ」と感じている入居者や患者さんのケアを、研修を教えに来たインストラクターと一緒に実際に行うことです。4日間の研修のうち、初日は座学やワークショップを行い、2日目以降は午前中ベッドサイドでケアを行い、午後はより詳しい技術や理論を勉強します。どの時間も、これまで私が経験して来た研修とは大きく異なるもので、とても魅力的でした。息子さんの通訳の力を借りて、私はユマニチュードの最初の一歩を学び始めました。