第5回
「ケアをする人」の定義
2021.09.29更新
フランスの病院で「病院で働く看護師に腰痛予防対策を教える」ための仕事を始めたイヴ・ジネスト先生とロゼット・マレスコッティ先生は、仕事を通じてさまざまなことを考えました。医療の現場で職員が腰痛にならないように患者さんを移動させる技術はもちろん必要ですが、それだけでなく、その前提として、病気があったり脆弱な状況にある方々に対し、「その人が持っている『健康な部分』に注目し、その能力を最大に活かすための援助」を行うことが職員のためだけでなく、何よりご本人のために重要であると考えた二人は、従来行われてきた看護や介護の方法とは異なるアプローチを始めました。
看護師さんや介護士さんなどの病院や介護施設で働く人々は、一般に「ケアをする人」であると考えられていますし、ご自分もそうお考えだと思います。しかし、彼らに「ケアをする人」とはどういう人のことですか? と尋ねてみると、その答えはひとそれぞれで、ひとつとして一致するものはありませんでした。そこで、二人は「ケアをする人」の定義を決めることが必要だと考えました。
ユマニチュードでは、「ケアをする人」を次のように定義しています。
「ケアをする人とは、健康に問題をもつ人に対して以下のことを行う職業人である。
1:健康の回復を目指す。
2:それが難しい場合には、現在の健康を維持する。
3:健康の回復も維持も難しい場合には、最期まで寄り添う。
本人に害となることは、行わない。」
ユマニチュードは病院や施設で働く専門職にケアを教えることから生まれ、現在も専門職が多く学んでいることから、「職業人」として記述されていますが、その目指すものはご家族であっても同じです。私たちが誰かに援助を行う時に、自分の行動を選択するためには、この定義に基づいて援助をする相手のゴールがどこにあるのかを適切に判断することが何よりも重要です。
相手のゴールとは、別の言い方をすると「その人に必要なケアのレベル」を設定することです。では、「その人に必要なケアのレベル」とは何かを考えてみます。ご本人の状況にかかわらず「あ、動かないでください。何でも私がやって差し上げます」と声をかけて、何でも代わりにやってしまうのはよくあることです。ご家庭でも、ご高齢のお母さまに「あ、私がやりますよ。どうぞ座っていてください」と家族が声をかけるような状況を想像してみてください。これは、一見親切に見えます。でも、ご本人ができることを代わりに行ってしまうことで、本人の能力を少しずつ奪っていくことになってしまっていることに、私たちは無自覚です。たとえば、ご本人は立つことができるのに、寝たまま体を拭くことを続けていると、本人は立つ機会を失い、次第に立つ能力を失っていきます。つまり、親切にしていることで、相手の能力を奪ってしまっている。言い換えれば「ご本人の害となるケアを行なっている」ことになるのです。
ケアをする人が忘れてはならないのは、「自分は相手のレベルに応じたケアを行っているか?」と常に自らに問うことです。ケアを受ける人がどれだけの能力をもっているのか、何ができて、何ができないのかについて常に評価をすることで、本人が必要とするレベルのケア、つまり「正しいレベルのケア」を行うことができます。これは本人の様子を観察することが不可欠で、ケアの正しいレベルを判断するための知識と本人を観察する目を備えていなければ、実現できません。
たとえば、腕をささえれば歩くことができる人に、「昨日10メートル歩けましたから、今日も10メートル歩きましょう」と提案し、10メートル歩くのは「2:現在の健康を維持するケア」です。これを、「昨日は10メートル歩けましたから、今日は12メートル歩きましょう」と提案して12メートル歩けば、昨日よりも歩く距離をのばした「1:回復を目指すケア」が実現できます。さらに、ご本人が10メートル歩けることを知っているのに、「大変でしょうから、車椅子で行きましょう」と車椅子での移動を提案し、車椅子を押すことは、「何でもやってくれる親切なケア」のように見えますが、ケアをする人の定義では「3:回復も維持も行わない、寄り添いのケア」です。このケアでは本人の能力と行なわれているケアのレベルが一致しておらず、結果としてご本人の歩く力を奪うことになる、「本人に害を与える」ケアを行うことになってしまいます。
自分が行なっている援助が「正しいレベルのケア」になっているかどうかを、常に意識しながら必要な援助の方法を選択することが、「ケアをする人」に求められます。「親切に何でもやって差し上げることが、良いケア」だと思っていた私は、その考えを根本から改めることになりました。