第6回
「人」らしさとは何か
2021.10.29更新
前回、ユマニチュードの「ケアをする人」の定義についてご紹介しました。
「ケアをする人とは、健康に問題をもつ人に対して以下のことを行う職業人である。
1:健康の回復を目指す。
2:それが難しい場合には、現在の健康を維持する。
3:健康の回復も維持も難しい場合には、最期まで寄り添う。
本人に害となることは、行わない。」
当たり前のように思えるこの定義ですが、実際のところ「何でもしてあげる」のが「良いケア」であるととらえられていることは珍しくなく、「相手ができることを代わりにやってあげる」ことで相手の能力を奪ってしまい、結果的に「良かれと思って行ったケアが、実は相手の害になっている」可能性を常に考える必要がある、と「ケアをする人」の定義は示しています。
今回はその「ケアをする人」がケアをする対象、つまり「人」について考えてみたいと思います。フランスでは幼稚園から哲学に親しみ、大学入学試験科目にも「哲学」があるという話を初めて聞いた時にはとても驚きました。それを教えてくれたのはフランスの高校生で、東京に遊びに来ていた彼女から「日本ではどこに行けば哲学者に会えるの?」と尋ねられた時には、答えに窮しました。「いやー、たぶん大学のどこかかな? よくわからない。ごめんなさい。フランスの高校では哲学授業はどんな感じなの?」と聞いてみたところ、「ギリシア時代から現代までの著名な哲学者について、彼らが語った内容を学ぶことはあるけど、それよりも時間をかけるのは討論かな。『自由とは』とか『愛とは』とか『人とは』どういうことかについて議論してる。自分で考えたり、過去の哲学者の考えを取り入れたりしながら討論することが多いかな。色々考えるからとても楽しいよ。正解がひとつってことはないし」と話してくれました。
渋谷の雑貨店で "kawaii" ものに夢中になっているフランスの高校生が、同時に「自由」や「愛」について自在に語ることができることに、すごいな、と驚きました。学問として哲学に取り組んでいる研究者が大学にいることは想像できたのですが、社会で哲学を実践している人の存在をそれまであまり考えたことがありませんでしたし、何より自分がそのような概念について突き詰めて考えたことはほとんどなかったからです。記憶に基づく「知識」ではなく、知識を利用した「知性」の教育としての哲学の存在を私は彼女から教えてもらい、自分にはそうした素養が欠けてるな、としみじみ思いました。
フランス生まれのユマニチュードもまた、たくさんの哲学的な要素を含んでいます。「人」についての思索もそのひとつです。「人」は動物で、哺乳類です。でも、他の哺乳類とは違う。「人」は言葉を使い、衣服を身につけ、文化に帰属します。ユマニチュードを学ぶ研修では「人」らしさとは何かと考える時間があります。私は、ユマニチュードを考案したジネスト先生から「人とは何か」と問われた時のやりとりを今でも覚えています。
「たとえば、あなたが『人』だ、ということを証明するのは簡単です。歩いてここまでやって来たし、言葉を話し、私と抽象的な概念について語り合える」「でも、あなたが寝たきりで、言葉を発することがなく、周りの人から『反応がない』と思われているとしたら、私たちが考える『人』らしさがないあなたのことをどうやって『人』だと周囲に証明できるでしょうか?」
私は「寝たきりになっている架空の高齢者」の「人らしさ」について考え、次のように答えました。「この人は昔学校の先生でした。生徒に慕われて、散歩が好きな、とても優しい人でした」
お気づきかと思いますが、私がここで述べたその人に関する描写は、その人が「過去」にどんな人だったかということでした。「そうですね。昔はそんな方だったでしょう。では、今はどうでしょうか。この方の人らしさを今、ここで説明するとしたら」と重ねて尋ねられた時、私は言葉に詰まりました。心臓の鼓動があり、呼吸をしているという状態は、その方が「生きている」ことを示しています。でも、それは他の動物でも同じです。この生命体の「人らしさ」を、つまり「昔は確かに疑いようもなかったこの方の人らしさを、今どう説明するか」について私は問われ、答えを探しあぐねてしまいました。
困っていた私に、「もう一人の『人』を連れてくることで、この問題は解決できます」とジネスト先生はおっしゃいました。「誰もが認める『人らしさ』のある人が、『あなたはここにいます』、『あなたは大切な存在です』、『私と同じように、あなたも人なんですよ』と伝えることによって、その方が『人である』と証明できます」「人は、他者に『人として扱われる』ことによって『人』となるのです」。
そして、他者に対して「あなたはここにいますよ」と伝えつづけることこそが「ケアの本質」であり、単に体をきれいにしたり、食事の介助をするような、私たちがいわゆるケアや介護と呼んでいる行動は、ケアの本質を体現化する手段に過ぎない、とジネスト先生は言葉を続けました。
過去ではなく、今、ここにいるあなたを私は「人」だと認識し、それをあなたに伝える。それがケアをする人にとって最も重要なことなのだ、というこの話を私は折に触れて思い出します。