雨宿りの木

第11回

立つことがもたらすもの

2022.03.29更新

 前回まで自分が大切な人に対して無意識に行なっている「見方」「話し方」「触れ方」をユマニチュードでは『意識的に』職業技術として実践することをご紹介してきました。「見る」「話す」「触れる」はユマニチュードの4つの柱のとても大切な要素です。今回は4つめの柱「立つ」についてご紹介します。

 この4つ目の柱「立つ」は他の3つと少し違っていて、他者とのコミュニケーションではなく「自分がここにいる」ことを感じる、アイデンティティの柱としての要素を持ちます。それと同時に、人間の生理的な身体機能を保ったり、回復させる要素も有しています。

 人間は生まれてすぐは頸部が安定しておらず、赤ちゃんは横になったまま過ごします。生後3ヶ月くらい経つと、首が座ってきます。この状態になると、赤ちゃんは自分の頭の位置を保つことができるようになってきていて、体を起こして周囲を見渡すことができるようになります。つまり、空間の認識が始まります。こうして人は知覚を通じて自己と他者、空間の概念を学んでいきます。生後1年くらい経つと、立ったり歩いたりすることができるようになります。こうなると、人にとって歩くことは移動の手段であるだけでなく、自分が行きたいところへ動くことが可能となる、つまり自分の意志が実現する自由を獲得するための新たな一歩を、文字通り踏み出したとも言えます。

 さらに、「立つ」ことは生理学的なさまざまな効果を人にもたらします。人は立っていることで肺が広がり、横になっている時よりも多くの空気を吸い込んで呼吸することができます。歩くことで循環する血液の量を増やすこともできます。骨に荷重がかかるので、骨粗鬆症を防ぐことができますし、軟骨への荷重はもともと血管を持たない軟骨に栄養を補給するための貴重な機会となります。また、歩くためには、体の隅々からさまざまな情報が末梢神経を通じて脳に届き、届いた情報をもとに適切な筋肉や関節の動きを制御する命令が脳から発せられることが必要で、神経系のシステムの適切な働きなしには実現できません。繰り返す動きは神経系の制御システムをより強固なものとしていきます。

 このように人は「立つ」ことによって自己と他者の区別ができ、空間認識を得て、さらに生理学的なさまざまな効果を上げることができます。もちろん、何らかの理由で立つこと、歩くことが困難な方もいらっしゃいます。そのような場合には、体幹を起こすだけでも、今述べたような変化を部分的にでも達成することができます。実際のところ、フランスで使われているユマニチュードの4つのに柱は「立つ」ではなく「体を起こす」という言葉が選択されています。ベッドでも、椅子でも、何でも良いので「体を起こした状態にする」ことで前述の空間認識や生理学的効果を上げることができる、というのがこの4つ目の柱「立つ」についての提案です。

 次に、脆弱な状況にある方々にとっての「立つ」ことの影響を考えてみたいと思います。たとえば、皮膚への影響です。私たちは生活している時間は、だいたい立っているか座っています。つまり、何かに接している部位は立っているときには足の裏、座っているときにはお尻と太ももの裏の部分です。しかも常に動いているので地面や椅子に接している部分と皮膚と筋肉に血液が停留したままになることはありません。しかし、これが一日中寝たままの状態になっている方にとっては事情が変わってきます。自分で姿勢を変えることが難しい状況にいる方にとって、ベッドに触れている部分の血の巡りはとても悪くなります。これが床ずれ(褥瘡)の始まりになってしまうのです。寝たきりの方にとって、床ずれはとても頻繁に起こる合併症です。皮膚が赤くなり、破れて、筋肉に変化が生じ、それが骨にまで達することもある床ずれは、その方の健康を大きく損なうものです。

 その一方で、寝たきりになることや床ずれは防ぐことができます。これまでご紹介してきた「立つ」時間を意識的に作ることで、筋肉の萎縮を防ぎ、血の巡りを改善させることがとても効果的な予防法です。フランスで40年を超えるケアの実践をおこなってきたユマニチュードの考案者のジネスト先生とマレスコッティ先生は、自分達の経験から「1日20分間立つ時間を設ければ、寝たきりを防ぐことができる」と提唱しています。

 20分間立ち続けることは大変だ、とお思いの方もいらっしゃるかと思います。でも、1日の間で、立つ時間を少しずつ貯めていく、と考えてみてください。着替えをする、体を拭く、おむつを替えるなどのケアは寝たままで行われることも多いですが、これをベッドの脇に立ち、手すりにつかまって、立って行うと、数十秒または数分間立つ時間を確保できます。また、トイレや食堂に行く時も車椅子ではなく、介助しながら一緒に歩いていくことで、立つ時間、歩く時間を貯金できます。

 このように1日の中で合計20分間立つ時間を設けることは、私たちがその重要性を認識して優先度を上げれば、可能です。もちろん、「立つこと、歩くこと」が何らかの理由でできない状態の方に対しては、「体幹を起こす」時間を設けることで代替することができます。もう前世紀のことですが、私が米国の病院で働いていた時、入院患者さんについての指示を書く欄に「OOB」という略号を初めてみたときのことを思い出します。OOBというのは out of bed のことで、「患者さんに、指定した時間はベッドから出て部屋に置いてある患者さん用の椅子に座ってもらってください」という看護師さんへの指示を示す略号で、一般病棟に入院している方はもちろんのこと、集中治療室の患者さんであってもOOB指示を必ず書くように、と指導医の先生から教わりました。ベッドは休息の場でありますが、健康を獲得するための場とは言えない、ということを学んだな、とユマニチュードの「立つ」について考える時にはいつも思い出しています。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

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