第19回
ケアの実践・歩行訓練に誘うとき
2023.01.30更新
こんにちは。
この連載では、ユマニチュードというケアの技法についてお伝えしてきました。ユマニチュードはどんな経緯で誕生したのか(4回)、ケアの哲学って何だろう(5回)、人とはどんな存在なのか(6回)、自分の大切な人に何かを伝えたい時に私たちが本能的にとっている行動にはどんなことがあるのか、とても脆弱な状況にある人に「あなたのことを大切に思っている」ことを相手が理解できるように伝えるためにはどうすればいいのか(7回)、などについて考え、これらの考察を基に生まれたユマニチュードの「4つの柱」と「ケアの5つのステップ」についてご紹介してきました。
ユマニチュードの4つの柱は、今この瞬間に「あなたのことを大切に思っている」ことを伝えるための手段で、見る(8回)・話す(9回)・触れる(10回)・立つ(11回) の4つを同時に組み合わせて行う「マルチモーダル・コミュニケーション」(12回)がその特徴です。ケアをするときには相手のもとを訪れるときから、ケアが終わって辞去するまでの一連の時間を5つのステップに分け、物語を紡ぐようにケアを行う(13回)ことをケアの5つのステップ、と呼びます。
さらに、ケアをするときには、私たちの記憶はどのように脳に留められていて、必要に応じて取り出され、利用されているのか、という「記憶のしくみ」(14回)を理解することが大切で、記憶のしくみを理解することによって相手の不安を取り除き(15回)、穏やかなケアを行うことができることなどについてお話ししてきました。
このような知識を身につければ、何でもうまくいくようになるか、というと、残念ながらそうではありません。もちろん知識は必要で、ケアをするときに役に立つのですが、それをどんな状況で、どのように使うのかを理解して、適切なタイミングに、適切な技術を、適切なやりかたで行えるようになるためには現場での実践経験がとても重要です。また、同じ状況であっても、ケアがうまくいくときとうまくいかないときがあります。それがなぜなのかを考えることが、ケアがうまくなるためにはとても大切なのです。
たとえば、フィギュアスケートをやってみたいと思ったとき、スケート入門の本を読んで、すばらしい選手の試合の映像を見ただけでは実際にジャンプができるようにはなりません。まずは氷の上に立つこと。それから、まっすぐ前に進み、バックもできるようになること。 次にスピードを上げて滑れるようになり、氷の上で思い切って踏み切れるようになって初めて、ジャンプができます。
ケアも同じです。スケートが上手くなるためにはまず氷の上に立つことから始めなければならないのと同じように、ケアがうまくなるためには、まず現場でやってみる経験が何よりも大切です。今回からは、これまで私たちが経験してきたことや、こんな経験をしたよ、と教えていただいた例をご紹介してみたいと思います。とくに「うまくいかなかったこと」はとても貴重です。実際、ユマニチュードはマレスコッティ先生とジネスト先生が経験した数々の失敗の中から生み出されたもので、ジネスト先生は常々「私たちは失敗したことからしか学ぶことはできないんですよ」とおっしゃっています。この連載を読んでくださっている方で、実際に介護をしていらっしゃる方は、ぜひ試してみてください。
ある男性が、自宅で歩行に関するリハビリテーションを受けることになりました。少し脚の筋力が落ちてきたので、転ぶことがないように筋力をつけることがその目的でした。担当の理学療法士がご本人のところにやってきて、「さあ、リハビリです。歩きましょう」と誘いました。すると、ご本人は「え?何のために? 僕は別に必要ないですよ」とお答えになりました。理学療法士は「まあそうおっしゃらずに、歩きましょう」ともう一度優しく誘いました。ご本人は「いや、いいです」と誘いに乗ってくれません。
こんなとき、私たちはご本人のことを「頑固な人だなあ」と思ってしまいます。リハビリが必要なんだから、歩かなきゃいけないのに、どうして協力してくれないのか...とがっかりします。でも、考えてみてください。今この原稿をスマホやPCで読んでくださっているあなたのところに、誰かがやってきて「試験の時間です。試験を受けてください」と声をかけたとしたらどうでしょう。「え?何?試験?どうして?」と不思議に思い、「いえ、私は試験なんか受けません」と答えるのはごくごく自然な応答です。何より、今自分が試験を受けなければならない理由がありません。
リハビリテーションのお誘いも同じです。私たちが歩く理由は、自分が行きたいところに行くための移動手段です。誰かが決めたリハビリのプログラムを消化するためではないのです。
この男性は、理学療法士に「私はリハビリは結構です。少し外に散歩に行ってきます」とおっしゃいました。それを聞いた理学療法士は「あ、いいですね。ぜひ私もご一緒させてください」と申し出ました。男性は「あなたも散歩がしたいの?」と良い感触です。そこで理学療法士は「はい。ぜひ。どのくらい歩けるか、評価させてください」とお願いしました。
すると、ご本人は「わたしの散歩はあなたに見せるためのものではありません。散歩には一人で行きます」と答えて、一人で杖をついてでかけて行きました。
一人で出かけるくらいに歩けるので、緊急のリハビリテーションの必要性はなかったとは言えますが、リハビリテーションを役立たせることができなかったことは残念です。
これは実際に私が経験した出来事なのですが、ここで、ケア(この場合はリハビリ)がうまくいかなかった理由を考えてみたいと思います。
「あ、いいですね。ぜひ私もご一緒させてください」という理学療法士の言葉は素晴らしかったです。でも、「それはあなたの歩行機能を評価するためです」ということを、ご本人に告げる必要はなかったと思います。「あなたと一緒に散歩を楽しむ」ことを相手に伝えて、「それはあなたの歩行機能を評価するためです」という気持ちは心の中に留めておけば、このリハビリは成功していたと思われました。
ケアを行うときに大切なことは「今ここで共に良い時間を過ごしている」と自分が感じ、相手にもそう思ってもらうことです。仕事をしに行く(今回の場合は歩行訓練)ことが目的ではなく、良い時間を過ごすための手段として利用することで、結果としてケアをうまく行うことができます。
ぜひ、お試しになってみてください。