雨宿りの木

第36回

ユマニチュードを人工知能・拡張現実を使って学ぶ

2024.08.28更新

 こんにちは。

 ユマニチュードに関する仕事や研究を始めるようになって、いろいろな学術団体の会議でユマニチュードについて紹介する機会をいただくようになりました。ケアについての学会や、看護に関する学会、日本内科学会や日本学術会議など、さまざまな分野の専門家の方々がユマニチュードに興味を寄せてくださっていることに大変感謝しています。このような学術会議にお招きいただいて参加すると、いつもはお目にかかる機会のない方々と直接話ができることがとても良い経験になっています。とくに、ユマニチュードの考案者、イヴ・ジネスト先生にご同行いただくと、講演の後には多くの方々が質問や相談に来てくださいます。ジネスト先生との写真を撮る方もたくさんいらっしゃいます。

 また、最近の学術集会には、私たちの研究チームの九州大学・倉爪亮先生が開発した、ジネスト先生のケアの技術を搭載して、自分のケアコミュニケーションをリアルタイムで評価できる、シミュレーション教育システムを、実際に手に取っていただく機会も設けています。これはMicrosoft社のHololens 2や、Meta社のQuest 3を使った拡張現実を用いたシミュレーション教育システム HEARTS (これはHumanitudE Augmented Reality Training Systemの頭文字をとったもので、ユマニチュードを拡張現実を使ってトレーニングするシステム、という意味です)というシステムを使ってユマニチュードを学ぶものです。

 HEARTSについての論文はこちら にありますので、英文ではありますが、ご興味のある方はどうぞご覧になってください。

 拡張現実、というのは私はこのプロジェクトが始まるまで全く知らなかったのですが、仮想現実(バーチャルリアリティ)が仮想空間に自分が没入することでさまざまな経験をするのに対し、拡張現実(Augmented Reality :AR)は、現実世界にコンピュータグラフィックスを重ねるものです。Hololensを装着すると、下の写真のように右の写真ののっぺらぼうのお人形の顔の部分に、左のコンピュータグラフィクスのおばあちゃんの顔が重なって見えます。

雨宿り.jpg

R. Kurazume et al. Development of AR training systems for Humanitude dementia care. Advanced Robotics, 36(7), 344-358

 このおばあちゃんに対して、目をしっかり合わせ、正面から、近づいて見る、というユマニチュードの見る技術の基本的な要素を行うと、リアルタイムで「ジネスト先生の見る技術と比べて、どのくらいできているか、何が足りないか」ということが画面に現れます。その評価は星の数であったり、ケア全体の時間のなかでの良いコミュニケーションが実践された割合であったりと、いろいろと選べます。それと同時に、おばあちゃんに話しかける声の評価も行います。会話の内容をChat GPTを使って分析する手法も開発されています。

 私たちからコンピュータグラフィクスのおばあちゃんへのコミュニケーションは、星や数字だけでなく、おばあちゃんの表情でもフィードバックされます。良いコミュニケーションができていればおばあちゃんは微笑んでくれますし、アイコンタクトがなかったり、距離が遠かったり、見る角度が適切でない場合には、おばあちゃんはどんどん悲しい顔になっていきます。また、おばあちゃんの顔も、このようなアニメーション風だけでなく、もっとリアルな顔にも変更できます。

 これまでコミュニケーションを定量する手段というのはあまりなくて、「あなたのことを大切に思っていることを伝えるためには、相手との双方向的なアイコンタクトが必要です」とお伝えしても、「はい、見ています」とその方がおっしゃると、「いや、今ご覧になっているのは"口の中"ですよね・・・」と思っていてもなかなかそれを具体的にお伝えすることは難しいものでした。また、他人から「きちんと目を見てください」と言われると、ちょっと気分を害されてしまう方もいらっしゃいます。

 そのような課題があったコミュニケーションの教育ですが、最新の情報機器を使って、人工知能から指摘されるとなると、人はまるでゲームを楽しむように受け入れやすくなる、ということをこの機器を使ったトレーニングで私は学びました。また、当初は「アニメ顔のおばあちゃんよりも、リアルな顔の方が現実感があって良いのでは」と思っていたのですが、おばあちゃんの笑顔や悲しい顔はアニメーションの方がより強調されるので、トレーニングをやっている者としてはより励みになる、というのも発見でした。

 このHEARTSはすでに大学の医学部や看護学部の教育に導入されています。とくに患者さんとのコミュニケーションを学ぶ初学者にとって、具体的にコミュニケーションの技術を学ことができるこの機器は好評です。また、ここ数年大変だった、コロナウイルス感染症のために病棟の実習ができなかった医学部・看護学部の学生にとって、実習を補完する役割とその効果についても高い評価を受けています。

 さらに面白いな、と思いますのは、実際にHEARTSを使ってみたジネスト先生が「このシミュレーション教育システムは、自分にとっても効果がある」とおっしゃっていて、ユマニチュードの初学者から、超熟達者(つまりジネスト先生)まで、ユマニチュードを実践する全ての方にお役立ていただけるものとなっています。

 「ひとがひとにケアを行う」という基本は変わることはありませんが、そのトレーニングには最新の科学技術を使える、ということも、科学技術振興機構のCRESTという研究財源をいただいて、ユマニチュードをテーマにして7年半にわたって行ってきた研究の成果のひとつです。岡山大学の中澤篤志先生、九州大学の倉爪亮先生、理化学研究所の佐藤弥先生、東京理科大学の湯口彰重、京都芸術大学の吉川左紀子先生など、さまざまな専門家が「ユマニチュードって面白いね」とご自分の専門分野の観点から重ねてくださった研究の成果はこのサイトで紹介していますので、こちらももしよろしければご覧ください。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

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