雨宿りの木

第40回

30年前

2025.03.29更新

 こんにちは。

 医療の現場で働いていると、お目にかかる患者さんとの1対1の関係から仕事が始まりますが、経験を重ねるうちに、患者さんだけでなくそのご家族、近所の方々もまた仕事をするにあたって大切な対象だ、ということがわかってくるようになりました。今私の仕事では、高齢だったり脆弱な状況になっている方々を対象とした医療やケアが中心ですが、ときにはもっと大きな地域や国を対象に考えることもあります。最近でいえば、世界的な新型コロナウイルス感染症がそうでした。

 新型コロナウイルス感染症の蔓延と同じくらい、当時の日本に大きな影響を与えた出来事が30年前に起こりました。1月の阪神淡路大震災に引き続いて、3月に起きた地下鉄サリン事件です。私は事件が起こった時、2年間の研修医生活が終わる直前でした。東京は大混乱で、つぎつぎと地下鉄に乗っていた方々が都心から少し離れた私が働いていた病院にも搬送されてきました。とても良いお天気の日だったのに、みんなサリンガスの作用で瞳孔が収縮していて、「どうしてこんなに暗いのか?」とおっしゃっていたことがとても印象に残っています。当時は搬送されてきた方を当着順に診ていて、トリアージという重症な患者さんを適切に評価して優先的に治療を行うために順番をつけるシステムがまだ広く知られておらず、個人の病院は大混乱でした。

 私はその後米国で働くことになったのですが、ニューヨークの病院で働いていた時に、911のテロが起こりました。これはハイジャックされた2機の飛行機がニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込み、多くの方が犠牲になった事件です。そのとき、ニューヨークの病院では、予定されていた手術や検査は全てキャンセルされ、入院中の軽症の患者さんを自宅に退院させ、空いたベッドに入院中の重症の患者さんを移し、集中治療室などの重症者用の部屋を空けて、テロの現場から搬送されてくる患者さんを待っていました。まるで今日テロが起こることを知っていたかのような被害を受けた方々の健康を守る受け入れシステムにわたしは心底びっくりして、その6年前に自分が経験した地下鉄サリン事件のときとは大違いだ、と同僚に話しました。するとその同僚は「そうじゃないんだよ。地下鉄サリン事件が起きたから、都市型の大規模テロとして得られた様々な経験が共有されて、今回の対応に活かされているんだ」と教えてくれました。

 私は東京の教訓が、こんな形で人々の役に立っていることに大変驚き、誰かにこのことを伝えたいなと思っていました。そのことを友人に話したところ、彼女が偶然地下鉄サリン事件の被害者の会の代表でいらっしゃった高橋シズヱさんをご存知で、紹介してくださいました。高橋さんは私の話に興味を寄せてくださり、当時編集していらした、地下鉄サリン事件が起きてから12年後の2007年3月20日に発表された小冊子『私にとっての地下鉄サリン事件』の中で、私の経験が掲載されました。この小冊子には被害者や関係者へのインタビュー書籍『アンダーグラウンド』を発表した作家の村上春樹さんや当時の警察庁長官国松孝次さんなど、地下鉄サリン事件と関わりのある方々だけでなく、私のような市民など54人の文章が集められていました。

 誰もがいきなり巻き込まれる可能性のあったテロとその時の経験を「その日私は何をしていたか」という観点からまとめた、とても読み応えのある小冊子です。この小冊子の内容の一部がこのたびWEBサイトで公開されました。

 高橋シズヱさんの「地下鉄サリン事件を風化させない」という強い思いが満ちたWEBサイトです。ぜひご覧いただけたらありがたく思います。私の経験については、当時連載していたほぼ日刊イトイ新聞でも掲載されています。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

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