第10回
栄福寺Tシャツと〈存在を頼りにする〉ということ
2018.09.13更新
お寺にはTシャツがいるのだ
僕は、「お寺にTシャツが売っている」という風景が、なんとなく好きで、24歳で栄福寺の住職になったかなり早い段階で、「栄福寺Tシャツ」を作った。そのTシャツは、正直いうとあまり売れなかったけれど、今年、また「Tシャツを作りたい」という気持ちがムクムクと立ち上がってきて、Tシャツを制作した。それはつまり「やるぞ!」という気持ちと連動している(はずである)。
今回、「空海とか釈尊(しゃくそん、おシャカさん)の言葉が入ったTシャツにしたい」というコンセプトをデザイナーに伝えると、前面に小さく栄福寺の寺紋(じもん)である三つ巴と、空海の言葉が入ったシンプルなTシャツをデザインしてくれた。背面には新しい栄福寺のロゴマーク。
今回、Tシャツのために選んだ言葉は、
「去去(ここ)として原初に入る」(弘法大師 空海『般若心経秘鍵』)
【現代語訳 去りて、去りて、存在の原点に入ってゆく】
という弘法大師(空海)の言葉だ。
(左)TシャツFRONT/(右)TシャツBACK
世界の仏教国(大乗仏教)でポピュラーなお経である『般若心経』の最後に出てくる真言の「ギャーテー(gate)」には、「行く」と「去る」という2つの意味がある。
「行く」という意味をとれば、覚りに向かって一歩一歩進むという意味であるけれど、「去る」ほうをとれば、存在の原点である原初の世界に入って行く、という意味になる。
僕は、この前に進む力と共に、原初に向かって潜っていくような「去る力」が、〈両方あること〉に仏教や密教の根本的な方向性を感じる。
例えば有史以来、人々が拝んできたり、巡礼をすることもそうだと感じるのだけど、進みながらも原点に戻っていくような動き。
これは、宗教の話を離れて、みなさんの人生や生活の中でも、目線に入れたり、灯台にできる視点だと思う。というより、自然とそうなっている人が多いのかもしれない。
「自分が元々知っていたことを(でも忘れかけていたことを)、思い出すような気持ち」この心をプレゼントしてくれることが、時々あることも僕は宗教の魅力だと思う。
というわけで、例によって、Tシャツはほとんど売れていませんが(!)、僕はやっぱりお寺でTシャツを売っているのが好きだ。
仏典てぬぐい
Tシャツを作ったので、調子に乗って、今回は住職就任以来、はじめてのニュー手ぬぐいと納経帳(のうきょうちょう、四国遍路では一般的に朱印帳といわれる帳面が納経帳と呼ばれる)も入れる事のできるバッグも制作した。
四国遍路の寺では、多くの寺で手ぬぐいが売ってあり、遍路特集の雑誌などでは、てぬぐいの一覧が掲載されていたりする。栄福寺で現在売られているてぬぐいは、88歳の方が書かれた「長寿」という文字がストレートに書かれたデザインと、江戸時代に般若心経が絵で描かれたものをモチーフにしたもの。なかなかの人気だ。
新しい手ぬぐいも、Tシャツ同様、ストレートに仏典の「釈尊の言葉」に近いとされるものから、選んだ。
「うらみをいだいている人々のあいだにあってもうらむことなく、われらは大いに楽しく生きよう。うらみをもっている人々のあいだにあってもうらむことなく、われわれは暮らしていこう」(『ダンマパダ』ー法句経ー一九七)
野花のような飾り気のない美しいシンプルな言葉だと思う。僕は、元々この言葉が大好きだったけれど、新しい「てぬぐい」にして、寺に掲げておくと、もう一度、この言葉が胸に飛び込んでくるようだった。
そして、根気強く誰かをうらみ続けている自分に気づく。それで、「うらみ」が消えるわけではないのだけど、「うらみのない」先にある光をわずかに感じる。
「あらゆる生命や存在が共通して持っているもの」
バッグに印刷する言葉に選んだのは、こんな言葉だ。
「我我(がが)の幻炎を覚って、頓(とん)に如如(にょにょ)の実相に入らしめん」(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第七)
【現代語訳 自らの身を陽炎(かげろう)のようにはかないものと覚って、すみやかに絶対平等の悟りの世界に入らしめたまえ】
仏の教えが、常に疑いの目を向ける「私、我」という存在。僕は、「仏性」(ぶっしょう、仏としての本性)や弘法大師が「無我の中の大我(たいが)」と呼んだものを、「あらゆる生命や存在が共通して持っているもの」とイメージすることがある。つまり生命の固有の我がない部分である。
そしてそこにコミット(関係)しようとすることが、自分の「修行」だと感じている。バッグに掲げたこの言葉には、そのことを想起させる空海の迫力があった。
Tシャツやグッズを作って、「どうなる」ものでもないのだけど、「原初を目指し、我の幻を見つめ、うらみをもたない」そんなことを、共有しようとするチームが「仏教」や「お寺」だとしたら、僕はちょっとワクワクする。
存在を頼りにする
8月は、僕たちお坊さんにとってお盆の季節だった。檀家さんの各家庭を廻り、栄福寺では、「お薬師さん」、「お大師さん」の行事で子供達が、寺にやって来る。そして「餓鬼(がき)」を供養する施餓鬼(せがき)の行事で、同じ町内の寺をいくつか廻る。いつまで、この伝統的な行事が続いていくかわからないけど、今は続いている。
そんな中で、ある家にいた3歳の男の子が、お経が終わった後、いきなり僕のおっぱいを揉んだりする事件に遭遇したりしながら(ダイエットしないと!)、ある家で印象的な話を聞いた。
身体が生まれつき弱い息子さんを亡くされたお父さんが言っていた言葉だ。息子さんはまだ30歳ぐらいであっただろうか。
「あの子は、体が弱かったけれど、私たちはそれでも長男の彼の存在を頼りにしていて、さみしいんです」
お母さんが、「そうだね、本当にそうだね」という雰囲気でただ何度か頷く。僕から見ると、病気の看護などを含めて大変な思いをされていたであろう、ご両親から、「彼の存在を頼りにしていた」という言葉を聞いて、胸に新しい風が吹くような気持ちだった。
それは、まるで亡くなった長男さんの人生に敬意をはらっているようにも感じられたけれど、そんなことは頭にもなく、ただ本当に頼りにされていたのだと思う。
そして、「存在を頼りにする」ということは、頼りにするほうであっても、頼りにされるほうであっても、悪くないな、なかなかいいな、と思った。
もし、あなたが誰かから「頼りにされる」存在だと感じられなかったとしても、「誰かを頼りにする」ことを探してみるのもいいかもしれない。僕にも、ひとり、ふたりと、思い浮かぶ人があった。
あなたはどうでしょうか?