感じる坊さん。感じる坊さん。

第13回

見たこともない道を通って帰る

2018.12.08更新

住職のインスタをみて来ました

 今年、奥さんを亡くされた檀家さんと栄福寺で話すことが時々ある。

「時々、台所で〝お茶、飲む?〟とかって無意識に話しかけてしまうんです」

 と笑うが、時々会話の端々で涙ぐまれることがある。そんな檀家さんがまた栄福寺を訪れた。

「住職のインスタをみて紅葉を観に来ました」

「インスタみてくださってるんですか?」

「うん。みてるよ」

 という他愛もない話をしながら「でもね、妻が亡くなってから、信仰深くなった。ははは。線香あげてお茶あげて」と笑う。

共にいる人―父ゆかりの広島にて―

 偶然、仕事と個人的な家族旅行で広島に続けて訪れた。僕にとって広島は、父親が生まれた街であり、子どもの頃は夏休みや正月のたびに訪れた縁の強い場所だ。仕事の場所は、平和公園の中のホールが会場だったので、今治からバスに乗り、なつかしい広島そごうのバスセンターで降りて、原爆ドームのほうへ歩いて向かう。

 原爆ドームの近くに、小さな慰霊碑があった。そこで、花を毎日お供えしている男性と会話になる。

「ここが観光地になっているのが、つらいというか違和感がある」

 堰を切ったように話すその初老の男性は、友人や親戚が原爆でなくなった話をしてくださる。そしてポケットに入れている小さな仏教経典を取りだして、「これをいつも唱えるんだ」と僕に語る。

 「じゃあ今日は、僕がお経をお唱えさせてください」と彼に伝え、一緒に読経してその場を離れた。

 そこから会場のほうへ向かっていると、僕と同じイベントに向かっているという女性に話しかけられる。

「格好からすると和尚さんですよね。私も行っているので、一緒に行きましょう。え、四国遍路のお坊さん? 私は何度もお参りしているんです。うれしいな」

 歩きながらの会話に夢中になっていて、通りかかった「原爆死没者慰霊碑」を素通りしたのを振り返って、「あそこも慰霊碑ですよね」と話しかけると、「そうなんです。私もうっかりしていましたが、本当は、あそこで手を合わせてから通ってほしかったんです」と言う。

「それでは、一緒にお経を唱えましょう」と引き返し、ここでも一緒に読経する。

 そんな経験を通じて、特に縁の深い人を亡くした人にとって、ここはまだ「戦地」なのだと思った。そして、僕が二度もここに住む人たちと偶然手を合わせることになったのは、僕が髪を剃って、伝統的な古めかしい僧服に身を包んでいたこともあるだろう。「僧侶」は今でも、「そういう存在」であるのだと確認するような経験だった。

 人には「共に祈る人」が時々、必要だ。

嫁さんはイタリア人

 何度か書いているように、四国遍路の参拝者に外国人の方がかなり増えてきた。デンマークからの19歳と20歳のお遍路さんが、境内のベンチに腰掛けて、スーパーで買ったパンに、大きな瓶のケチャップをどぼどぼ付けながら食べているのを横目で見ながら、納経所で日本人のお遍路さんと会話になる。関西から来られたお年寄りの男性だ。

「はー。最近は、外国からのお遍路さん多いんですなぁ」

「そうなんです。ドイツ、アメリカ、フランス、ベトナム、台湾・・・、そしてあの人たちはデンマーク。本当にありとあらゆる国から来られます」

「デンマーク! そうですか。私の嫁はイタリア人なんですが、お参りなんかしませんで!」

 「おじいさんの嫁さん、イタリア人なんですか!」と聞いてみたかったが、すでに納経所を勢いよく飛び出して、デンマークの若者と話している。「わしの嫁はイタリア人なんやけど、お参りせんでな・・・」というおじいさんの愚痴に耳を傾けるデンマーク人のふたりの少年の様子(明らかに日本語は通じていない)を観察しながら、ますますこの四国遍路という場所も面白い磁場を放っていると感じている。

「栄福寺の対話VOL2」オープニングトーク

 11月30日に僕が企画・進行して開催するイベント「栄福寺の対話」の2回目が開催された。ほぼ2年ぶりの開催である。ゲストは前回と同じ、独立研究者の森田真生さんと禅僧・藤田一照さん。お二人とも僕が心から敬愛する人たちである。

 その場を開催するにあたり、僕は20分間の「オープニングトーク」をしたのだけど、用意した話の5分の1ほどしかお話しできなかった。そこで、今回はここで、「話されることのなかったオープンニングトーク」のごく一部をアレンジして、部分的に紹介することにしたい。

 それは、ここから再びはじまる何かがあると僕は感じているからでもある。

ようこそ栄福寺へ

 みなさん、こんにちは。ここのお寺、栄福寺の住職の白川密成です。

 昨年の1月に1回目の栄福寺の対話がありましたので、ほぼ2年ぶりの「栄福寺の対話VOL2」です。よくお越しくださいました。

 この中で、前回も来てくださった方はおられるでしょうか?

 かなりおられますね。その方々には、もう一度、説明する必要はないと思うのですが、あらためてお話をさせて頂きます。前回、僕は5分程度お話しさせて頂いたのですが、今回は、もう少しだけ長く話をさせて頂きます。

 まず、この2年間である変化がおこりました。この本堂にエアコンが入ったんです。工事が完成したのは、一昨日です。藤田一照さんといえば『アップデートする仏教』ですが、この本堂も「アップデートする本堂」として、進化が見られます(会場失笑)。

この場所について

 この場所は、四国遍路という場所です。四国88カ所などと呼ばれることもあります。四国は、ご存じの方も多いと思いますが、若き日に弘法大師が修行した場所です。

 今日来られている真言宗のお坊さんは、当然ご存じのことですが、それは弘法大師自らが、24歳出家の宣言の書である「三教指帰」の中で、語られていることです。

「焉(ここ)に大聖(だいしゃう)の誠言(じょうごん)を信じて飛燄(ひえん)を鑽燧(さんすい)に望む。阿国(あこく)大滝嶽(たいりゅうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州(どしゅう)室戸崎(むろとのさき)に勤念(ごんねん)す。谷(たに)響(ひびき)を惜しまず、明星来影(らいえい)す」

(現代語訳)「そこでこの仏の真実の言葉を信じて、たゆまない修行精進の成果を期し、阿波の国(徳島)の大滝嶽(たいりゅうのたけ)によじ登り、土佐の国(高知)の室戸崎(むろとのさき)で一心不乱に修行した。谷はこだまを返し、明星が姿を現した」

 よく「四国遍路は本当はいつはじまったのか?」などと歴史好きな方の間で、議論になるのですが、僕としては、四国遍路の信仰上の根拠は、このひと言だと思っています。

 そして、この「谷響を惜しまず、明星来影す」という言葉が、弘法大師の心的風景をとてもよく表していると思うんです。自分の心がなにかを体験するということは、ここにある身体としての限定的な〈私〉というもの〈だけ〉ではない。一見、自分の外側にある自然である谷が「音」を返してきた。そして明るい「光」である星が現れた。それが弘法大師が原点とする心的風景です。

あらためて「即身成仏義」にふれて

 前回の対話の後、あらためて空海の「即身成仏義」を読み直す機会がありました。するとこれは、良いことだと思うのですが、自分が今まで引っかかって来なかったところに、マークを入れたくなるんです。

 例えばこういった言葉があります。

「色すなわち心、心すなわち色、無障無碍なり(むしょうむげ)なり」

(現代語訳)「物質はすなわち心、心はすなわち物質であり、さわりなく、さまたげがない」

 この言葉もあらためて読むと、心に留まる言葉でした。僕たちは、心の癖で対極的な存在を分けて考えるのだけど、それ自体が固定概念で、本来溶けあっているものである、ということです。その代表的なものが、ここで述べられている例えば物質と心だと思うんです。それ以外にも「俗と聖」、「外部と内部」ほんとうは、あらゆるものが溶け合っていると感じることがあります。

 これはほんの一例ですが、みなさんも、今回の対話に触れた後で、自分の「持ち場」に帰って行った時に、そこで触れる言葉や風景に「違う手ざわり」があるのではないかと思います。そうであったら、少しうれしいです。

 前回の「栄福寺の対話」を思い出すと、森田さんが編集・解説された『数学する人生』という本の中に収録された数学者・岡潔の最終講義での言葉が、より深く胸に飛び込んでくるんです。

「人というのは、大宇宙という1本の木の、1枚の葉のようなものです。だいたいそう見当をつければよいでしょう。逆に、宇宙という1本の木の1枚の葉であるということをやめたら、ただちに葉は枯れてしまいます」

「幸福とか生き甲斐とかいうものは、生きている木から枝を伝わって葉に来る樹液のうちに含まれている。その木から来るものを断ち切って、葉だけで個人主義的にいろいろやっていこうとしても、できやしないのです。自我を主人公として生きていると、生命の根源から命の水が湧き出ることがなくなってしまう。命の真清水が自我から湧き出ると思えますか。そんなはずないでしょう」

 これは本当にすごい言葉だと思います。僕たちは修行の中で、自分が仏であることを観じよう、知ろうとするわけですが、「1枚の葉」である自分が「1本の木」でもあると知ること。これが、僕にとっても「自分も仏であること」を知ることと、ほとんど変わりのない事なんだと感じています。そして、その中にある「1枚の葉」でもある自覚。

 僕は密教のことを語る時に空海のこの言葉を紹介することが多いんです。

(現代語訳)「ただ大日如来だけが、〔無我〕の中において、〔大我〕を獲得せられておられる」

 この「大我」というのが、僕は岡潔のいう「木」にかなり近いことではないかと、思っています。

 おふたりの話をきいていると、数学や仏教というアプローチの中で、またそのアプローチを超える中で、この「木」でもある自分に気づいて、本当の意味で安心する、リラックスし躍動するという方法も示唆されているように感じます。

 これは簡単なことではありませんが、生きることの方向がそこを向こうとするだけでも、いきいきと躍動した時間は増えていくのではないかと思います。

見たこともない道を通って帰る

 そして、弘法大師を語るうえで、もうひとつ大切なモチーフだと感じる言葉を挙げようと思います。それは「帰る」という方向性です。

 空海は、

「起きるを生と名づけ 帰るを死と称する」

「去去として原初に入る」

「弟子空海、性薫我を勧めて還源(げんげん)を思いとす」

 といった著作での言葉の中で、前に進むのではなく「帰って行く」「去る」「源に還る」というモチーフ、方向性を多用します。

 僕は、この「帰る」という方向性に自分の言葉をたして、このように表現しようと思います。

「見たこともない道を通って、帰る。」

 ということです。ワクワクしているのは、僕だけでしょうか? これが僕にとっての仏道修行のひとつの形です。それは、お坊さんとかそうでないかとかを超えて、色々な人に参加してほしいことなのです。

 それでは「栄福寺の対話」がはじまります。

白川 密成

白川 密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『空海さんに聞いてみよう。』(徳間書店)、『坊さん、父になる。』がある。

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