第18回
他人には見せない言葉
2019.05.09更新
奇妙な現代
時々、「後の時代の人が聞いたら、びっくりするだろうなぁ」ということに思いを馳せることがある。例えば、年々減少傾向にあるとはいえ、交通事故で毎年数千人の人が亡くなっているということを、百年後の人が知ったら驚くだろう。
驚く、というよりもうまく想像できないかも知れない。
他にも、二百年後の時代にもし「メガネ」がなければ(僕はないと思う)、図鑑で「二百年前の人たち」というイラストが描かれていて、そこに僕のようにメガネをかけた人が掲載されていたら、「なんという奇天烈なビジュアルだろう! こんな不自然な道具で生活していたなんて信じられない」とびっくりするだろう。
そういうことを、ぼーっと思い浮かべていると「我ながらもっと考えるべき大事なことがあるのではないかな」と不安になることがあるけれど、「今の時代だって、後の人から見ると結構、不思議な世界」ということを、じんわり思い浮かべることは、悪いことではないような気がする。
僕たちは今日だって、チョンマゲ的な何かを頭に置いて生活しているのだ。
自分のいない世界
ある高齢の仏教研究者が、「自分の命が今日の午前0時までと想像すると学問に深みが出てきた」というような意味のことを話していた。
僕は「自分の死んだ後の世界」のことを思い浮かべることがある。それはいつもの世界だ。自動販売機では今日もコカコーラが売られて、晴れた空に選挙カーのけたたましい声が響き渡る見慣れた世界。でもそこには僕がいない。僕だけいない。
そのしんとした世界を想像すると、深みがあるかどうかは別にして、僕は仏教が求めて来たある種のテクスチャーを感じる。
ホテルでも祈る
家族で旅行に出かけた。駅のベンチで七才の長女が、四才の次女に話しかける。
「ねぇ、仏教とキリスト教どっちが好き?」
尼僧の妻と、栄福寺住職である僕は固唾をのんで次女の返答を待っていた。
「どっちが強い?」
「あのさ、強いとか弱いとかそういう話じゃないから」
長女は呆れた表情で次女を見つめる。
「そうなんだ。じゃあ仏教」
前回、書いたように毎日、五体投地の礼拝行を百回している(なんとか続いている)。普段はお堂ですることが多いけれど、家族でホテルに泊まると、僧侶が突然、妻と小さな子供を前にして五体投地をはじめることになる。自分で言うのもなんだけど、ちょっと変な風景だ。
「ねぇせっかくだから、新大阪駅に新設された祈祷室でやったら」
と妻は言う。
次女は面白がって、僕の背中に乗ろうとする。
それ自体が功徳
昨年、途中になっていた歩きでの四国遍路を再開した。十七番札所まで終えていたけれど、また一番札所から歩き始めた。一日二十キロ、三十キロをひたすらゆっくり歩く。地図を広げ、ちょうど良さそうな宿でどっぷり眠る。古い石仏を見つけると手を合わせて祈り、次の寺をめざし、到着するとまた祈る。
正直に言うと、とても楽しい。これから一ヵ月に十日ほど歩こうと思っている。どんな風に自分が変わってゆくか、また変わらないか、それも興味があるけれど、本質はそこにはないとも思う。歩くと功徳を得られるのではなく、歩いて、祈ることができる。それ自体が功徳なのだと何度か感じる。
どこか遠くに「功徳」があるのではなく、「そのこと自体」に功徳めいたものが存在することは、他にもあることだと思う。
自分に向けられた言葉
たぶん十年以上前に、大切に読んだ吉本隆明さんの『ひきこもれ――ひとりの時間をもつということ――』という本の文庫本を本屋で見つけたので、思わずまた買ってしまった。
「しかし、内蔵に響くような心の具合というのは、それでは絶対に治らない。人の中に出ていって、食事をしたり、冗談話をすれば助かるということはないのです。ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、<価値>という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません」
他人に向けられたのではない、自分に向けられた言葉。
そのことに最近、思いを巡らせることがある。空海は、自身の出家宣言の作である『三教指帰』の最後をこう結んでいる。
「ただ憤懣(ふんまん)の逸気を写せり。誰か他家の披覧(ひらん)を望まん」(弘法大師 空海『三教指帰』)
【現代語訳 これはただ自分の心につかえる逸る気持ちをのべただけであって、他人にお見せするつもりはさらさらない】
この「他人にみせるつもりはない」という空海の言葉を信じない人も多いだろう。既に彼の代表作のひとつとして、結果的に膨大な人がこの作品に目を通すことになったのだから。
でも僕は、この空海の言葉をどこか本音の言葉として受け止めている。
他人に向けられたものではない、自分に対する言葉を吐け。
そのアイデアを僕は、ひどく現代的な響きを持って今日に迎えたい。
それはそのまま世界に向けられた言葉である。