第23回
折衷案と不二
2019.10.09更新
ありふれた質問
子供と生活していると、ふとありふれた質問をしたくなることがある。自分が固定された思いの中で、固まっている思考を経験値の少ない子供だったら、どんな風に答えるか興味があるからだ。そこに完全な正直さがあるとは思わないけれど、「どんな風に」答えるか、という子供なりの作為に対する関心を含めて質問をしたくなる。
「人生ってなんだと思う?」
小学校二年生の長女にたずねてみた。
「人生は思いだよ」
こともなげに娘は少し哲学的に響く言葉で即答した。
「ふーん、そうか。人生は思いか・・・」
しばらく沈黙の中で、思索しながら言葉を失っている僕を見つめて、彼女は間髪を入れず、
「お父さんは馬鹿やね」
とまっすぐな顔でつぶやく。それに対する異論はない。
そして静かに僕のそばに寄り添い体を押しつけて、
「お父さんの体はあたたかいね」
と新しい言葉を発する。もしかして馬鹿だからあたたかいのだろうか。
丁寧に説明する。ただNOと言う。
子供の頃、「討論」がすごく好きだった。たぶん相手を打ち負かすのが面白かったのだと思う。しかし今、なにかを「主張」しようとすると、なぜだか自然に心が乱れることが多い。それには自分自身が心を持て余してしまうことがある。
本当は自分も迷いながら、反対にある結論だってうろつきながら、そこそこの時間をかけて、なんとか意見を持つことが多いのに、いざ相手に直面するとまっさらの正解のように問答無用に結論だけを伝えているような気がする。そしてそれはどうやら僕だけの話ではなさそうだ。
もう少し、自分の迷いや、考えてきた過程、躊躇や逡巡を含めて相手に伝えてみようかな、と最近考えることがある。いや、じつは数年間考えてきた。
それがちっとも上手くいっていないということは、その実行は考えるよりもずいぶん難しいということになりそうだけど、もう一度、思い出してみたい。
迷いや、考えてきた過程を含めて話すこと。自分も苦しかったことを打ち明けること。
その場面には、相手の苦しさもあるかもしれない。そのお互いの苦しみを知ること。人はそれも成長と呼ぶのかも知れない。
「かれらは自分の教えを<完全である>と称し、他人の教えを<下劣である>という。かれらはこのように互いに異なった執見をいただいて論争し、めいめい自分の仮説を<真理である>と説く」(『スッタニパータ』904)
仏教の中には、論争から離れる智慧とともに、その変遷の中では問答を繰り返し、建設的な議論を大切にする伝統が、たしかに同時にある。その両方を見つめながら、不毛な論争を避け、丁寧な意見交換をすることの大切さは、僕たちの暮らしの中でもなんとか馴染ませてみたい。
しかし、その中でも僕は、「反対されてもやることを増やす」こと。「ただNOと言うことを大切にする」ということも最近の生活の中で念頭に置いている。人生は時に複雑だ。
正直さの創造性
あまり上手く言える自信がないことだけど「創造性」について、考えることがある。というよりも「人間がなにかを作ろうとする」こと自体がとても好きだ。ワクワクするデザイン、自分が曖昧になるような力を持った絵画、なぜか知らないがさみしい秋のような気持ちになる音楽。もちろん宗教や言語表現に「創造性」を感じることがある。
それにはなにか特別な力が必要だと感じる人も多い。でも僕は今、とても大きな創造性のひとつの要素は「正直さ」だと思う。
「正直さ」にも色々あって、「じつはあなたのことが大嫌いだ」というのもひとつの正直性だ。でも僕はそこにあまりいい予感がしない。もっと身近にあって、カジュアルで、願わくば人を大きくは傷つけたくないという意志を持った正直さ。そこには、なんだかいい予感がある。「日々の中に創造性がある」という言葉をなんだかきな臭いと思ってきたけれど、実は本当にそうなんだ。そして正直さは、言葉の中だけにあるものではないだろう。今、「正直さ」はとてもクリエイティブだと思う。
現代の「折衷案」を考える人たち
折衷案が好きだ。そんな言い方をすると、折衷案の商品コピーみたいだけど、そうなんだから仕方がない。つまりAという選択肢とBという選択肢がある場合、
「その両方を混ぜたような案はないかな?」
と問いかけることが多い。
今、僕たちが生活しているこの社会の中での仏教や僧侶、お寺の意味のようなものを考える時、「これが正解だ!」と主張するつもりは、さらさらないのだけれど、個人的にはお坊さんが世の中の「折衷案を探す人、チーム(組織)」というのも、なかなかいいなと思う。
お金も必要だし、好きか嫌いかと問われると「嫌いじゃないです」と頬を赤らめる。性的な欲求やスケベ心(同じか)がないかと聞かれると、「そうでもないです」と顔を紅潮させる(というほどではないけれど)僕のような姿は、そのまま多くの生活者の姿であるだろう。言うまでもなく僧侶は、本来、まさにその欲望と一線を引き、欲望を離れることを大きな修行の眼目とすることを大前提としている。しかしその中で、多くの人が模索したがっていることは、「欲望もあるけれど、でも欲望だけじゃないと思う」という次のステージだ。
だから今、日本仏教の僧侶が、その欲望とそれを超えたところの狭間にある「折衷案」を考えて、実行しようとすることは「意外にいいかも」と思う。少なくても僕はそんなことを考えてみたい。
いわゆる「学者」の方と話していて気楽さを感じることがあるのは、学術というものが、基本的に単純な「いい・悪い」ということを「かっこ」に入れて考え、話すことが多いことである。世の中には「いい・悪い」から見えてくるものもあるように、それをいったん「かっこ」に入れて見えてくることもある。そういう意味では、例えば民俗学のような視点に立つと、妻帯して世の中に交じっている「現代の日本仏教僧侶」というのは、「けっこう興味深い」存在だ。
そのような中で、「日本の現代仏教だからできないこともあるように、日本の現代仏教だからできることもある」と僕は思っている。そのひとつが「僧侶という折衷案を考え、実行する人たち」だとしたら、ちょっと面白そうだ。
「ダブル」ではなく結びついている
敬愛する僧侶の学びの場へ参加した時に、その僧侶が、「I(私)というOSをWE(私達)というOSに」という意味のことを話しておられて、今でも印象的に憶えている。
でも時間が経つに従って、僕の感覚では「やっぱり<私>と<私達>って、ダブルがいいなぁ」と感じることが増えていた。その「どっちか」ではなくて「両方」が、必要だと感じてしまう。そう考えるだけで、ずいぶん気軽になる。
その中で思い浮かんだのが、僕が修行している真言密教の金胎不二(こんたいふに)という世界観だ。これは真言密教の根底にある思想である。成立の時代も地域も異なる金剛頂経系の金剛界曼荼羅と大日経系の胎蔵曼荼羅が、つねに「不二」であることが、密教の建築や思想のあらゆる場面に配置されている。
僕は、この不二の思想も、どこか雑に「ダブル」の意味でさらっと捉えてしまっていたようだ。もちろんこの不二とダブルは、違うどころかまったく逆とも言える世界観だろう。「ふたつに認識してしまうその対象は、ふたつではなく、瑜伽(ゆが、融け合った・結びつける)の存在なのだ。
「私」と「私達」が分かれている認識は、生活を送るうえで必要だ(ではないと他人の便所に無断で入りかねない)。しかし、同時にこのIとWEが溶け合って、結びついて瑜伽している現実にもそっと目を向け、感じる。もともとふたつではないことを見る。
それも小さくて大きな場所にある仏教の修行だろう。
そしてそれは、ありふれたこの日常の中でも見つめることのできる世界であると思う。
「燈光一にあらざれども
冥然(めいねん)として同体なり
色心無量にして
実相無辺なり
心王心数(しんおうしんじゅ)
主伴無尽なり
互相(たがい)に渉入して
帝珠(たいしゅ)錠光の如し」
(弘法大師 空海『吽字義』書き下し)
(現代語訳)
「燈光は無数であるけれども、
その光は融け合ってしまい、区別することができないのである
ものと心ははかり知れず、その真実のすがたも果てしがないのである
総合的な心のはたらきと個別的な心のはたらきは、
互いに、主となったり従となって尽きることがなく、
相互に入り合い、
帝釈天の宮殿を飾っている網の一つ一つの結び目につけられた珠玉に反映する燈火の如くである」
私と私達、この世界、草木。全部あるけれど、各々が孤立してあるのではなく、瑜伽としてあることを僕は見つめよう。
編集部からのお知らせ
白川密成さんが岡田武史さんと対談(『今治からの小さな革命』)! ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号が10/20(日)発刊!!
『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』 ミシマ社編(ミシマ社)
密成さんが住職を務める栄福寺は、愛媛県の今治市にあります。その今治市にあるサッカーチーム「今治FC」の代表を務めているのが、元日本代表監督・岡田武史さんです。(密成さんは2019年6月7日掲載分の『感じる坊さん』、「世界はもっと面白くなれる」で今治FCについて書かれています)
密成さんを聞き手に、岡田代表が今治に来てから今まで5年間、街に愛されるチームをつくるまでの活動について、そしてチームの監督・代表として組織を率いるなかで考えてきたことについて語られました。
その話は、スポーツの世界にとどまらず、日本が直面する課題、そしてそれを乗り越えるための生き方と知恵そのものでした!