第3回
子ども園大地の、秋と冬
2023.03.15更新
秋の大地 お父さんデー
10月を迎えた秋の北信は格別に美しい。たわわに実った稲穂が一面に広がり、黄金色の絨毯がずーと見渡せる。朝の散歩で近所の新生病院のお庭を息子と歩いていると
「え、たかちゃん! なんで草食べてるの!?」
彼は、野に咲くクローバーを摘みながら、むしゃむしゃと茎のほうから食べ始めた。
「うん。美味しいよ。パパも食べる?」
彼は平気な顔をして、僕にクローバーを差し出した。その後も、たかちゃんは、「ノビル」を発見。掘り出しては、その小ぶりな球根を美味しそうに食する。
文京区育ちの、公園の砂場でしか土に触れなかった彼が、大地に通い始めて2ヶ月。毎日の山歩きのせいか、いよいよ散歩中、草葉をむしって食べはじめた。日々、野生の力を身にまとっていく彼の変化は見ていて面白い。
秋には、大地の味覚がさらに豊かになる。自分たちの田んぼの新米の収穫に、子ども達自ら軽トラで出かけていく。そのお米を、薪で炊いたおにぎりの給食を頬張る。たかちゃんはおにぎりを3個も4個も平らげて、味噌汁を3杯も飲み干したという。おやつには、大地で育てられた葡萄。これまた、果物が大好きなたかちゃんは大喜び。園をぐるりと取り囲むリンゴの木々も美味しいそうな実をつけてきた。
近所から大量の渋柿を仕入れてきたあおちゃんから、各家庭20個ずつの柿の皮むきの宿題がでた。遊びに来た友人に手伝ってもらい、皮をむいた柿を大地に持っていくと、ガンガーの軒先から園舎の軒先にかけて、柿を紐で吊るして、雨だれのようにかけていく作業に、親たちで取り組んだ。干し柿づくりだ。冬にはうまい干し柿になるという。
「本当に楽しいことは、決して楽なことではない」
あおちゃんが保護者会でよく話すセリフだ。秋の大地の催しもののひとつ、「お父さんデー」は、このセリフを実感する日になった。まず集合時間が朝の6時。眠気まなこで、なんとかたかちゃんとボクシーを走らせて大地へ。お父さんと、子ども達が集合していた。年中、年長のお父さんたちはガンガーのキッチンでお弁当づくりに取り掛かる。
年少のお父さんたちは、子どもたちを引き連れて朝の散歩に出発した。まだ薄暗い山道を、歩いていく。しかも天気は雨だ。でも子どもたちは雨の中の散歩なんていつものこと、とカッパ姿で元気そのもの。小一時間ほどアップダウンの道、林の中をくぐり抜け、園舎に帰り着く。お父さんたちの弁当作りはほぼ完了していた。今日のテーマは「駅弁」だそうだ。いよいよ大地を出発する。
今回のお父さんデーの目的地は、なんと新潟、上越の海だ! しかし、天気は雨である。それでも僕たちは海へいく。しかも電車で。あおちゃんから、出発前の注意事項が述べられた。まず、大地から最寄りの牟礼駅までは、子どもたちと歩いて往復すること(片道、アップダウン3キロの道のりだ)。電車に乗り遅れても、救済措置は特にないこと。だから、序盤は時間を稼ぐために、駆け足か早歩きを推奨すること、など。またスマホの使用も強く注意された。見つかった場合は、速やかにあおちゃんが日本海にスマホを放り投げると言った。
8時前に、みんなで大地をスタート。冷たい雨が降りしきっている。みんな時間に間に合わないと置いていかれると散々言われたので、のっけから小走りで駆け出した。しかし、3歳から6歳の子どもたちと一緒である。小走りは3分から5分ほどしかもたず、いわんや、たかちゃんから「抱っこ抱っこ!」の要請が早くも飛んだ。時間に遅れるわけには・・・と、僕はたかちゃんを担いで、ひーひー言いながら駅までの道を急いだ。途中、一組の親子が道に迷ってあわや! というシーンがあったものの、最終的には全員が時間内に駅に到着した。上越の海への電車に乗り込むことができた。車内でのつかの間の休息ののち、電車は上越のとある無人駅に到着した。雨脚が強くなり、風が吹きまくる荒れた日本海が目の前に広がっていた。僕はひるんだ。
「さ、さむい!!!」
「ようこそ〜!」天気に似合わない明るい声が響く。駅前には、車で先回りしたあおちゃん夫妻が、なんと旅館の夫婦の出で立ちをして、「いらっしゃい」という看板まで持って出迎えてくれた。あおちゃんの案内で、ビーチへ。と、言っても雨である。
しかし、ここからが大地の親子の本領発揮だった。何人かの子どもたちとお父さんは水着に着替え、海へ突撃(そのビーチは、ブロックによって波から守られていて、遊べる水面が確保されていた)。あるお父さんはスコップ片手に砂場を掘って、砂風呂に入り出した。そして、年少さんの子どもたちとお父さんたちは、屋根のあるところから見守った。「海の中のほうがあったかいよ〜」と子ども達の嬌声が上がる。あおちゃんたちから、おやつのおにぎりと枝豆の支給があり、僕とたかちゃんは寒さに震えながら枝豆を食べまくった。
その後、波・雨ともに強くなってきたので、ついに撤退。海に入っていた子どもたちが、海から出た後の寒さにブルブル震えて、泣き出す子もでている。僕たちは駅まで引き上げると、電車の時間まで、駅の地下通路にビニールシートをひいて休息した。いよいよ雨、風ともに強くなり、海は東映映画の開幕時のような波が打ち寄せている。
「どこでも休めるって大事だよね! 俺ならここで野宿だってできるわ!」とあおちゃん。あおちゃんは野宿のプロフェッショナルで、寝袋ひとつでどんなところでも野宿ができる。時々、屋根のないところで寝るからこそ、ふだん、屋根があってシーツのかかった布団で眠るありがたさがわかるという。やっときた電車に乗って、直江津駅へ。改札を出ると屋根のある大きな通路に出た。
ここでも先回りしていたあおちゃん夫婦が、今度は駅弁売りの出で立ちで登場。朝、みんなでつくった駅弁を配ってくれた。水筒から容器にいたるまで、昔の駅弁そっくりに仕立ててある。蓋をあけると、うまそうなそぼろ弁当だ。みんなでビニールシートをしいて、さっそく弁当に取り掛かる。これがうまい。それもそのはず。料理長は、板前でもある藤田さんパパなのだ。父と子どもたちが十数組、弁当をがっついている迫力ある風景に、通りかかった女子高生たちはぎょっとして驚く。僕たちは1.5人前あるであろうそぼろ弁当をきれいに平らげた。
しばらく休憩して、帰路につく。朝5時起きからの、早朝山岳散歩、大地から駅への競歩、荒れる日本海での戯れと、体力的には限界が近づくなか、なんとか牟礼駅に帰り着いた。しかし、ここからまた大地へのアップダウンの3キロが僕たちを待っていた。これは応えた・・・学生時代に早稲田大学の特殊イベント、100キロハイク(2日間で本庄早稲田から高田馬場まで歩き通す催し)に参加したときの感覚を思い出す。僕とたかちゃんは、ゾンビのように園までの道を歩んだ。
しかし、ゴールである大地の丘が見えたとき、不思議な現象が起きた。なぜか疲労困憊の状態なのに、駆け出したくなってきたのだ。他の親子も同じようだ。最終盤のラストスパートで、みんなテンションがおかしくなったように、早足、駆け足で丘を登っていく。
僕たちはついにゴールした。大地の丘を登りきり、園舎に到着した。早く解散して家に帰りたい、と思うも集合がかかった。「まだ何があるというんだ!」という気持ちで、ガンガーに集まると、でっかいお鍋からもくもくと湯気がたっている。青ちゃんたちは、あったかいうどんを料理して僕たちの到着を待ってくれていたのだ。
僕も、たかちゃんも、他のお父さんたちも子どもたちも、体は冷え切っていたので、大きいおわんに向き合って、ずずっとうどんをすすりまくった。その野菜たっぷりのうどんのうまいことといったら。その日1日の情景が、朝もやの集合から、駅までのダッシュと強行軍、電車の中での語らい、大荒れの日本海、駅でのホームレスのような時間、駅弁、最後の強行軍とフラッシュバックした。
「なんてうまいうどんだろう!!!」
この時、ふだんあおちゃんが言っていることがわかった。確かに人間は、少しくらい不快な思いや不便な思いをしないと、普通であることのありがたさを実感することはできない。もしこんなに寒い思いをしなかったら、歩きまくって疲れていなかったら、このけんちんうどんはここまで美味いだろうか。そのうどんはあまりに美味しくて、僕もたかちゃんも3杯食べたのだった。
あおちゃんは笑いながら言った。
「どう税所さん? 東京の高級レストランに負けないくらい美味いでしょう!?」そう。うどんの味は、東京のどんなレストランよりも美味しくて、一生忘れられない味になったのだった。
「本当に楽しいことは、決して楽なことではない」
冬の大地 べんさんコンサート
冬の大地では、あるゲストを迎えた。高橋べんさん。子どもたちに向けて歌い続けて41年。72歳のシンガーソングライターだ。僕が中学1年生のころ、山中湖の自然教室に行き、ライブをしてくれた時にべんさんに出会った。初めての宿泊行事でホームシックにかかりそうな夕暮れ時に、べんさんの歌を聞いて、その面白おかしく、でもジンとくる歌のファンになった。それからも、僕たちの学年では2年生の時の塩原自然教室、3年生のときの卒業記念イベントと、べんさんのコンサートが開催され、彼の歌を聴き続けることができた。
中学を卒業してからも、僕はべんさんの歌を聴き続けた。時にはバングラデシュのダッカで、英国のロンドンで。特に気に入っているのが、べんさんの「息子に」という歌で、べんさんが、自分の息子がいたとしたら、こんなことを伝えたいということを歌詞にこめた(実際のべんさんには娘がいる)。
「学べ学べこの世の中のお金で買えない美しいもの君に残してあげたいものは生きるための知恵と勇気」
僕もいつか子どもができたら、ぜひべんさんの歌をプレゼントしたいと思っていた。今回、小布施に引っ越して、大地の図書館で偶然、べんさんの本を見つけた。あおちゃんに「べんさん知っているんですか!?」と聞くと、あおちゃんもべんさんとの交流があることがわかった。「ぜひコンサートを企画したいです!」という僕の申し出に、あおちゃんが快諾して実現の運びとなった。
べんさんが埼玉の川越からスタッフの並木さんとやってきたのは、冬の嵐が夜から予報されていた日だった。僕はべんさんと再会を喜ぶ握手。車から機材を大地に運び込み、会場のセッティングをする。延長保育で残っていた、たかちゃんと、なおちゃん、さとちゃん姉妹のためには、前夜祭としてべんさんから歌の披露があった。その日の夜ご飯は、あおちゃん夫妻とべんさんら、僕とたかちゃんでちゃぶだいを囲んでお鍋を食べた。宮沢賢治の話から、日本全国にいる物語の語り部さんたちの話へと話題は尽きない。気がつくと、外は雪と強風の嵐が吹き荒れていた。信濃町のインター付近では、車の立ち往生も起きているという。
「税所さん、この嵐のなか小布施に帰るのは無理だよ。泊まっていきな」
こうして、僕とたかちゃんは、冬の嵐が吹きすさぶなか、べんさんと一緒に大地の居間に布団をしいて一晩ご厄介になることになった。外は寒いが、薪ストーブがしっかり炎を上げている。たかちゃんはすぐに眠りこけてしまった。僕とべんさんはしばらく、中学1年で出会ってから約20年のあれこれをべんさんとしゃべっていた。べんさんは、北海道出身。学校を卒業してから、電電公社でサラリーマンとして30歳まで勤めた。その後、歌手デビュー。41年間、子ども達のために歌い続けた。その歌は、自身では「ほとんど知られていない」と語るが、全国各地にべんさんのファンがいて、日本中を行脚している。
べんさんが、僕の通っていた中学の先生である石川節先生に出会ったのは、足立区で女子高生コンクリート詰め殺人事件が起こった1989年ごろだった。犯人の卒業した学校で当時教えていた石川先生は、「子どもたちに命の大切さ、生きることの素晴らしさを伝えることができる人」を探していた。石川先生の奥様がべんさんの噂を聞いて、石川先生に伝えたことが、べんさんと石川先生のご縁になった。以来、べんさんの歌に聞き惚れた石川先生は、チャンスがあるごとに、自分の担当する学年の生徒にべんさんのコンサートを開き、歌を届け続けた。
余談だが、石川先生自身も、伝説の教員として語り継がれている。弁当を持ってこれない貧乏な家の子には、自分の弁当と一緒に、その子の弁当を作り続けたり、高校入学の入学金を払えない生徒のために、そのお金を石川先生が立て替えて支払ったり。とにかく、家庭状況がタフな子どもたちに優しかった。自分自身が、子ども時代に貧しさに苦しんだことを時々授業でも語ってくれた。
中学1年、12歳のころの僕は、まさか20年後、大地でべんさんと一緒に泊まることになるなんて想像もできなかった。しかも、僕には、べんさんが歌う「息子」が2人もいるのだ。
翌朝、まだ降り止まぬ雪のなか、コンサートの参加者たちが集まってきた。さすが大地のファミリー。ちょっとやそっとの雪では、びくともしないのだ。大地のホールでコンサートがはじまる。アメリカの寓話をアレンジした「ハエを飲み込んだおばあちゃん」、べんさん流の「大きなかぶ」、何にでも「い〜の!」と答える女の子の歌「さっちゃん」。歌のたびに子どもたちの笑い声がはじけて、45分は瞬く間にすぎた。僕が大好きな「息子に」がはじまると、思わず涙が出てきてしまった。
「一応僕は親だから
君に少しは財産を残してあげたい気もするがやめておこう君のために
あの日君が道端にうち捨てられた自転車をもったいないねって言った言葉
その気持が僕はうれしい
学べ学べこの世の中のお金で買えない美しいもの
君に残してあげたいものは生きるための知恵と勇気」
この20年間に見てきた風景が次々に胸のなかに立ち現れていくような不思議な感覚だった。40年歌い続けるべんさん、保育園を立ち上げて30年のあおちゃん。共通しているのは30代の前半で、具体的な動きを始めていることだった。そう僕と同じぐらいの年である。僕はこれから一体何を始めるのだろうか。
12月23日、年末の締め会の日がやってきた。この日は、午前中は保護者会で午後は大掃除。たかちゃんを園庭に送り出すと、園舎の中の保護者会会場へ。もう開始時刻を5分ほど過ぎている。ガラッと戸を開けると、あおちゃん夫妻を20名ほどのお母さんと1人のお父さんが囲んで、和やかな笑い声が上がっていた。部屋の片隅では、薪ストーブが火を上げていて、その上でみんなお弁当を温めている。
あおちゃんから、保育の報告があり、子どもたちの雪遊びの様子が語られた。年中さんからはじまるクロスカントリースキーも始動。みんなたくましく雪のなかを闊歩しているという。我らがたかちゃんの年少さんは、そりあそびをスタート。でも大地のそりあそびは半端じゃない。目の前のダイナミックなスロープがすっかり小型ゲレンデと化しているので、そりを滑るのも下手したら、大怪我につながる。滑走途中に、体を横回転させてそりから抜け出す「脱出」を、そり遊びのためのマストの習得技として、それぞれが励んでいるという。
休憩時間に外にでると、一面のりんご畑が真っ白に雪化粧している。丘の上を見上げると、子どもたちのカラフルなスキーウェアが見える。雪原が、陽の光を浴びてキラキラ輝き、その後ろには、飯綱山も真っ白な雪をかぶり、その山容がそびえている。
「なんて美しいんだろう・・・」と思わずため息が出た。
保育士のガーくんが、子どもたちの中心にいて、干し柿を雪の中へ何個も投げ入れている。ガーくんの合図で、年少の風組さんのメンバーたちが雪の中へ、干し柿めがけて走り出した。子どもたちは雪のなかをたくましく走り抜け、干し柿に向かってダイブ。満足そうな顔をしながら、みんなのもとへ戻り、干し柿に噛み付いている。
たかちゃんは、ひときわ大きい干し柿を美味しそうにむしゃむしゃとしている。僕はなんだか涙が出るのを感じた。世界にはこんなにも美しい風景がある。僕の脳裏には、文京区の保育園でお迎えのときに見た、部屋の片隅で、プラレールでひとり遊んでいる後ろ姿がよぎった。
「この世界はこんなに豊かで美しい。たかちゃん、よかったね・・・」
この雪景色、冷え込んだ空気と風の匂い、干し柿の味を彼は将来覚えているだろうか。もしかしたら、覚えているかもしれない。もしそうだとするならば、僕は親として彼に渡せる最大限に豊かな原体験をプレゼントできているのかもしれない。そんな気持ちでいっぱいになった。
僕は帰り際、あおちゃんにある相談をしていた。
「来年から、大地で保育を手伝えませんか」
来年から、お手伝いとして、もっと大地と、子どもたちと時間を過ごしてみたい。そんな思いがおさえきれなくなったのは、12月に入ってからだった。せっかくこんな面白い園に出会えたのだ。僕はもっと踏み込んで、自分自身で体験してみたくなってしまった。いや、それは、自分がただ純粋に子どもたちと遊びたいだけなのかもしれない。
「いいじゃない! 子どもたちの成長が間近で見れて楽しいよ!」
あおちゃんは快諾してくれた。
べんさんが、歌い始め、あおちゃんが保育園を建設しはじめた32歳の年。僕は大地で保育士見習いになる。
参考書籍:『しあわせの種―ほんとうのさいわいを探して』(サンパティックカフェ)たかはしべん
編集部からのお知らせ
税所篤快さん『僕、育休いただきたいっす!』
(こぶな書店)のご紹介
小布施に引っ越す前、長男のたかちゃんが生まれてからの1年間、育児休業を取得した日々をつづった『僕、育休いただきたいっす!』は、2021年のこぶな書店から出版されています(元の連載はスタジオジブリ「熱風」)!