第5回
スキーをしながら海を思う
2023.04.13更新
リモートスキーカラオケとは、僕が信州にきて、勝手につくった造語である。その心は、スキー場でリモートワークをしながら、時々滑り、滑りながらカラオケのごとく歌を歌いまくるという楽しみ方だ。東京にいたころ、スキー場は、距離的にも気持ちの上でもあまりに遠い存在だった。新幹線で1〜2時間かけて移動し、道具をレンタルして、宿泊して、悪天候に当たった場合は、雪の中滑るしかない。ところが、小布施に引っ越してきたらどうだろう。いくつものスキー場がわずか車で30分から40分で行けてしまう。
近所のハンバーガー屋のマスターあきさんは、その日の風を感じて、滑り場を決めるという贅沢さ。小布施からよく見える北信五岳は、かつて修験道の修行場として賑わったが、現代ではその五山すべてにスキー場が開発されている(畏れ多いことですが)。そのどのスキー場へも、小布施からは1時間以内でアクセス可能だ。飯綱山のいいづなリゾートスキー場まで30分、戸隠スキー場、黒姫スキー場へ40分。斑尾スキー場、妙高のスキー場まで50分。オーストラリアの人たちを中心に、海外勢に大人気の野沢温泉スキー場までも1時間かからない。スノースポーツを愛する人たちにとって、信州は最高の環境だ。
僕のスキー歴は、小学生のころ家族旅行で何回か行って、滑り方を習った。そして、高校生の時にスキー教室で何泊かしてスキーを習った。以上、という感じで、初心者に毛が生えた程度のもの。それでも、信州にやってきて、ここまでスキー場へアクセスがいいと、ついつい滑りたくなってきた。知人からスキー板とストックを借りて、ブーツとヘルメットは新調して、スキーウェアは大地のあおちゃんから安く譲ってもらったパタゴニア「大地スペシャル」。こうして僕は信州にきて、「にわかスキーヤー」に変身した。そして、そんな僕が体験したのが「リモートスキーカラオケ」の愉しみだ。
リモートスキーカラオケの1日を紹介してみる。まず9時半に、たかちゃんを大地に送り届ける。そこから黒姫スキー場へ。10時ごろスキー場に到着する。10時からは、小布施の環境チームの打ち合わせにリモートで参加。スキー場のWiFiを利用して、場所は時に休憩所から、時に車のなかから。いま執筆している小布施グリーンマガジンの記事について相談、共有する。時間通り、11時に打ち合わせが終わる。目の前はリフト乗り場だ。11時10分には、第一リフトを降りて、黒姫山の中腹から雄大な信州の山々を見渡せる。そこから90分ほど滑り、12時半にはスキー場そばのレストラン茶房主へ。薪ストーブの焚かれた暖かい店内で、店主の美味しい昼ごはんに舌鼓をうつ。店主も滑り手だ。13時半からリモート打ち合わせをもうひとつ行い、また滑る。そして、15時半に大地へお迎え(延長保育)、たかちゃんをピックアップして小布施に帰る。
こんな感じでリモートでの打ち合わせをスキーと組み合わせるとめちゃくちゃ楽しい。気のおけない仕事仲間とはリフトの上で、ライン通話して雑談しながら新しい構想を広げている。これこそ信州の新しいリモートワークのスタイル!?
では、「リモートスキーカラオケ」のカラオケとはなんなのか?
黒姫の第一リフトを降りると、晴れた日には、野尻湖、信濃町の街並み、そして地平線いっぱいに信州の山々が壮大に広がっている。左手にはうっすらと日本海まで見渡せる。その風景を全身に楽しみながら、耳元のイヤホンからはMr.Childrenの「名もなき詩」のあのイントロが聴こえてくる。これはもう、歌い出すしかないでしょう。
しかも平日のスキー場、人出はそんなに多くない。周囲に人影がないことをちらりと確認して、そっと歌い出す。スキー板は雪上を滑走する。だんだん歌声を張り上げていく。雄大な自然の景色をみながら、ミスチルの歌が鳴り響く。身体はけっこうなスピードで山を駆け下り、風を全身で感じている。これは埼玉スーパーアリーナでの本物のライブに負けないくらい、アドレナリンが出る。
ミスチル以外にも、滑走にグルーブすると思ったのは、テンポのいい懐メロたち。モンゴル800「小さな恋のうた」、BUMP OF CHICKEN「天体観測」、CHAGE and ASKA 「YAH YAH YAH」。そして往年のアニソン。スラムダンク、WANDS「世界が終わるまでは」、デジモン、和田光司「Butter-Fly」、るろうに剣心、JUDY AND MARY「そばかす」など。
中島みゆき「銀の龍の背にのって」、さだまさし「風にたつライオン」、小沢征爾・大西順子「ラブソディインブルー」らの雄大系もとっても合います。世界と一体となる最高の時間です。
(くれぐれも休日など人出があるスキー場では音楽を聴きながらの滑走はお控えください)。
さて、こんなにも信州に来てスキーを楽しむようになったのは、信濃町・野尻高原大学村の田中克さんの影響が大きい。田中先生は、僕のカヤックの師匠であり、僕が大学村の山小屋を譲り受けるきっかけをくれた方だ。僕にとっては北信三メンター(小布施町の市村良三さん、飯綱町のあおちゃん、そして信濃町の田中先生)のひとり。
「夏はカヤック、冬はスキー」で理性と感性の融合を求める田中先生は、全国各地での講演会、研究会、フィールド調査などで信州をあけることもしばしばだが、大学村にいらっしゃる時は、ほぼ毎日黒姫スキー場を滑走している。大学村から黒姫スキー場までは車で約10分ほど。自転車生活をしている田中先生はいつも大学村のスキー仲間の車に同乗し黒姫へ行く。人気の第一リフトではなく、端の玄人好みの第五リフトが田中先生の滑り場だ。
みなさんもきっと、冬の黒姫の第五リフトに行けば、79歳とは思えない俊敏な滑りの田中先生を見つけることができる。僕も、時々第五リフト周辺で田中先生をお見かけすると、一緒に滑らせてもらう(僕の履いているスキー板は田中先生から拝借しているものだ)。ちなみに、スキー場にシーズンパスがあるというのを信州に引っ越して初めて知った。黒姫スキー場のシーズンパスはとてもリーズナブルで、10人以上で早めに申し込むと1シーズン1万4千円で滑ることができる。信じられない安さだ・・・大学村の人々はみんなでこの集団割を利用し、冬場は徹底的に滑りまくる。
田中先生と一緒に滑ると、滑走のアドバイスをもらえる。
「両腕をもっと広げたほうがいい」
「谷側の足にもっと重心をおいて」などなど。カヤックの時のように指導してくださるのが、とてもありがたい。そして、リフトに一緒に乗っているときは、田中先生の研究や人生の話を聞かせてくれる。田中先生は、とてもユニークな79年の歳月を生きてきたので、話がおもしろくてしょうがない。
田中克(まさる)さんは1943年、滋賀県の大津市で生まれた。1943年は、日本軍がガダルカナル島から撤退し、山本五十六の国葬が実施され、イタリアが連合国に降伏し、ソ連軍がキエフを解放した年だ。現代でも話題の国葬が行われ、79年前にもウクライナは戦争真っ只中にあったのか、と嘆息してしまう年に田中先生は生まれた。
生まれ育った家の周りには水田や畑が広がり、まさる少年は小川での魚採りや雑木林でのクワガタ採集など、身近な野生の生きものと触れ合いながら育った。特にまさる少年の原体験になったのは、小学校5年のころ、担任の中嶋先生が木の小さな小舟(伝馬船)を操って、琵琶湖に連れ出してもらったことだ。
まさる少年にとって初めての魚釣り体験。最初に釣り上げたホンモロコの大きく膨らんだお腹が朝陽に輝く姿が、まさる少年の一生を決めた。まさる少年は魚の研究の道を志すことになる(ホンモロコは琵琶湖固有種で、かつては琵琶湖に広く生息したかわいい小魚。現在は絶滅危惧種。冬場は琵琶湖の北側の深い場所(北湖)で越冬し、子孫を残すためにかつては南の浅い水辺(南湖)に集まり水草に産卵したが、今では数少ない内湖に集まって産卵する)。
その後、田中先生は京都大学を拠点に、魚の子どもたち(稚魚)の生態を研究の主軸に据えた。魚の子どもたちが、どうやって大人に変化していくか、「魚類の初期生活史」が田中先生のライフワークとなる。そして、ヒラメやスズキ、タイなどなじみの深い魚の稚魚が生き残るために発達させた知恵を40年間追い求め、その最後に
「東北、白神山地のブナ林が日本海のヒラメ稚魚を育む」
「九州、九重・阿蘇山系が有明海の稚魚を育む」
という海と陸(森)の切っても切れない関係がいのちの循環の大元であることに気づいた。こうして田中先生は、2003年に森から海までの多様なつながりを解きほぐし、崩してしまった自然や社会を再生するための統合学「森里海連環学」を研究仲間たちと立ち上げる。
そのような研究者の発想よりずっと早くから森と海のつながりを再生する取り組みを進めていたのが気仙沼の牡蠣漁師である畠山重篤さんだ。漁師が海の再生を願い、森に植樹をはじめた「森は海の恋人」運動の中心人物で、小・中・高校の教科書にも紹介されているからご存知の方もいるかもしれない(ちなみに僕の育休本を手がけてくれたこぶな書店の小鮒さんは、長年、畠山さんの書籍をてがけてきた編集者でもある)。
こうして田中先生は京都大学の教授を定年退職されたあとも、ますます精力的に、「森里海を結ぶ」をテーマに活動してきた。最近では「海遍路の旅」という、人力のシーカヤックで仲間と日本の沿岸をめぐり、海から陸とのあいだをみつめ、漁村を訪ねて海と生きる人々の本音を探る旅にも最高齢で参画している。小学校の初めての魚釣り体験から、稚魚の研究、そして海と森を結ぶ大冒険、「魚と水」を貫いた生き様だ。
そんな田中先生がいま一番絶滅を気にしているのは「水辺で遊ぶ子どもたち」の存在だ。田中先生の原体験のときのように、手漕ぎ船で魚釣りを体験させるなど、いまの安全第一の学校現場では実現は簡単ではないだろう。子どもはもとより、地域の人たちも川に触れることができないようにフェンスなどが至る所で張り巡らされている。
「個人としての研究の旅は時間的限界に近づきつつある」と田中先生は、リフトの上で僕にいった。隣に座っているのは壮健な79歳の、しかし心は少年のような人だ。これほど濃密な歩みをしてきた人生に、僕は嘆息する。
今日、田中先生に、2シーズン、スキー板を借りたお礼にランチをご馳走した。信濃町インターそばの道の駅のレストランで僕たちはソースカツ丼890円とソフトクリーム390円を食べた。
「田中先生。僕は79歳になっても、あなたのように元気に滑走できるでしょうか。」ソースカツ丼とソフトクリームをぺろりと平らげる田中先生を見て思った。
僕はいま33歳だから、あと46年後。一体世界はどうなってるのだろう。この黒姫の山に雪は積もっているだろうか。イスラエルのガザの封鎖は終わっているだろうか。ソマリランドは未承認国家から独立国家になっているだろうか。北朝鮮と韓国はひとつになっただろうか。長男のたかちゃんは、50歳! 元気にやっているだろうか。僕は生きてる? 僕の仲間たちは?
田中先生を車で大学村にお送りする。管理棟の北村管理主任に二人で今日の雪具合を報告する。僕は、昨日降った雪がサラサラで、滑ると雪が空気中にぱっと散る美しさとその上を滑走する気持ちよさを熱心に語った。田中先生は、「こんなに大学村(信州)での生活を楽しんでいる人がいるといいよね」と北村主任と笑った。
そう、僕は信州での生活が楽しくてしかたなくなっているのだ。
(参考書籍 ACADEMIA No188号 招待論文「森里海の連環 ふるさと創生文化を見据えて」田中克)
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小布施に引っ越す前、長男のたかちゃんが生まれてからの1年間、育児休業を取得した日々をつづった『僕、育休いただきたいっす!』は、2021年のこぶな書店から出版されています(元の連載はスタジオジブリ「熱風」)!