第17回
あおちゃんの大地創業までの物語(社会人編・前編)
2023.10.16更新
前回は、園長あおちゃん誕生から、大学卒業までの話を聞いた。驚くべきことに、まだ幼児教室をやるという輪郭すらない。20代のあおちゃんは一体、どうなっていくのだろうか。大地の夏の風物詩である「親子登山」を翌日に控えた、昼下がりの大地で、話を聞いた。
大学時代の集大成である「バイクでのオーストラリア一周」を終えて、卒業前の3月に帰国したあおちゃんは、教授の斡旋で手に入れていた大手銀行の内定が取り消しになっていたのを知る。オーストラリア一周中に、銀行の新入社員研修があり、それをすっぽかしたのが理由だった。教授の面子を潰したあおちゃんは、教授から大目玉を食らう。4月にあおちゃんは、長野市の市場の卸売をする企業マルイチ産商に本社採用の営業職として入社する。
奇しくも、大手銀行から内定をもらったあと「やばいよな。多分、俺、銀行行きたくないよな」と内心思っていたあおちゃんが、バックアップのために用意していた選択だった。このころのあおちゃんは、「自分が大好きなバイクで食っていく!」と夢を抱いていた。
入社し、市場での営業職の朝は早かった。朝4時には出勤し、様々な商材の売り買いに携わった。持ち前の企業家精神で入社早々にあおちゃんはトップセールスを達成する。市場の仕事仲間やお客さんたちにも大いに可愛がられて、社会人生活は幸先のよい滑り出しだった。
しかし、そんな会社員生活は、わずか半年で幕を閉じる。当時、馬肉を商材のひとつとして扱っていたあおちゃんは、どうにも馬肉の品質が良質でないと感じていた。上司に相談するも、「いいから、売ってこい」という。仕方なく、顧客に馬肉を売るのだが、客先からは「ろくなものじゃない!」とクレームになってしまった。一連のことを上司に報告すると、その上司は、「ああ、やっぱりそうだったか」と言った。上司自身も、馬肉の品質がよくないことを知っていたのだった。
あおちゃんの堪忍袋の緒が切れた。
「あなたみたいな上司の下では働けない!」
こうして、あおちゃんはそのまま退職したのだった。
あおちゃんは、「バイク屋をやるために修行したい」と、クリエイティブな改造で名前を知られていた長野市のバイク屋「スピードショップエース」の門を叩き、アルバイトとして働き始めた。エースは当時、あおちゃんが一番好きなバイク屋だった。1年半ほど、バイク屋修行に熱中する。ある日、エースではバイクだけではなく、車も取り扱うようになった。「俺、車じゃねえんだよな」と違和感が湧き、その違和感はいつしか確信に変わった。
「これを生業にするのは違う」
であれば、これからの人生何をしていこうか。あおちゃんの迷いは深まっていった。
そんなある日、市場のお客さんとして知り合った業者の人から「仕事を手伝わないか」という声がかかった。方向転換の必要を感じていたあおちゃんはこの仕事を受けた。市場のアルバイトとして、配送を担った。市場で朝一に、肉や野菜などをトラックに満載すると菅平高原のペンションやホテルに運んだ。朝から晩まで働いて、日給8千円。20日間働くと、16万円になり、当時の新卒の平均給与以上に稼げた。飯綱の実家から、市場までバイクで通っていたのだが、雪が降ると通勤が難しくなる。長野市の市場のそばに、住むことはできないだろうか。そんなとき、親戚の叔父さんと叔母さんの家が長野市にあることを思い出した。聞いてみると、居候OKという。こうして、あおちゃんは、叔父さん叔母さん宅の二階に居候しながら、市場の仕事に通うことになった。この叔父さん、叔母さんの家の一階が保育園だったのである。
保育園の二階で居候することになったことが、あおちゃんにとっての「星の時間」になった。「星の時間」とはミヒャエルエンデの作品「モモ」に登場する、その人にとって物語が大きく展開するきっかけになる時間のことだ。あおちゃんは、当初子どもたちのことなど、興味を持っていなかった。しかし、当時の保育園の設計上、居住空間の二階スペースへの階段を上るには、一階の保育園の敷地を通る必要があった。子どもたちは、若いお兄ちゃんが通過するたびに興味津々。あおちゃんも子どもたちを茶化したり、一緒にふざけているうちに、子どもたちと顔見知りになっていく。
当時、平日休みだったあおちゃんは、休みの日に子どもたちと遊ぶようになっていった。ある日、遊びながら子どもたちと手をつなぐと「子どもの手って妙にあたたかいな」と感じた。これまで、バイクや食品など、無機質なものを相手に仕事をしてきたあおちゃんにとって、子どもたちとの触れ合いは、人間、生き物に触れる新鮮で面白いものだった。だんだんと「コイツらおもしろいじゃん!」という思いが強くなるに連れて、あおちゃんは子どもたちとの触れ合いにのめりこんでいった。さらに保育園の二階に住むなかで、経営の事情がわかってきた。
「なんで、男の保育士がいないのだろう」
「園の跡継ぎに自分が立候補したらいいんじゃないか」
「勉強して、免許をとらないといけない!」
あおちゃんは自分のなかで方向が定まっていくのを感じた。
「まずは保育士の免許を取る」
あおちゃん24歳の秋だった。
翌年、1月に東京教育専門学校を受験する。2年間で保育士免許を取得できるこの学校に照準を合わせたのだ。生まれて初めて触るピアノを特訓するために、夜な夜な、保育園のピアノで練習した。無事に合格届けを手にすると、4月に上京。代々木で親戚が営む両替商の二階の屋根裏部屋に引っ越した。
学校に入学すると、同級生の大半は18歳の女性たちだった。あおちゃんは、卒業後に東京都で3年働くと学費が減免される奨学生になった。同級生に「絶対勉強は負けない!」と気合をいれて勉学に臨んだ。苦手だったピアノの習得には特訓が必要だった。学校のピアノ室にこもり、連日夜22時の閉館までピアノに向き合った。そのころは、晩御飯は学校からすぐのアパートに戻り、卵かけ御飯をかき込むなどして済ませていた。
さて、このころ東京に移ったあおちゃんは、JALの客室乗務員として就職したのんたんかあさんこと、伸子さんと再会する。かつて、オーストラリア一周に旅立つ前に、寄せ書きをしてもらったご縁は続いていた。その後、あおちゃんが市場で働いていたころに、日本半周をバイクでしていた、のんたんかあさんが長野を訪ねたりして友人としての付き合いが続いていた。互いの上京のタイミングが重なり、東京の友人がほとんどいないという共通点もあり、早速東京で初デートをした。原宿で待ち合わせると、お洒落なレストランでご飯を一緒に食べた。そのころ、あおちゃんは学生の身分に戻っていたが、奮発してご馳走したという。帰りに、あおちゃんが住んでいた屋根裏部屋を見学したのんたんかあさんは「すごいところに住んでいるな・・・」と感想を持ったという。
「また、次も会いましょう」
こうして、二人のお付き合いははじまった。のちに大地を創業する5年まえのことだった。
「勉強は一番になる」という目標のため、あおちゃんは学校の勉強に励み、夏休みなどの長期休みになると、生活費を稼ぐために長野に戻り死ぬほど働いた。長野市の寿司の老舗「鮨仁(すしじん)」の配達の仕事は日給8千円で、配達の合間に寿司食い放題という恵まれた職場だった。こうして学資を稼ぎながら、このころの学費、生活費などは親に頼らずやり抜いた。
「勉強は一番」の言葉通り、学年最優秀の成績で、卒業。晴れて保育士免許を取得した。のんたんかあさんとのお付き合いも順調に進み、結婚することに。卒業前に、あおちゃん夫婦は、ハネムーンでヨーロッパ周遊の旅へ向かう計画を立てた。「卒業式は出ません」と学校側に伝えると、学校からは「卒業生の総代だから、卒業式に出てほしい」と懇願された。
ヨーロッパを満喫して帰国した3月31日。長野に戻ったあおちゃん夫婦は、めでたく結婚式を挙げる。場所は、飯綱町の公営結婚式場だ。衣装や食事、場所代込みで10万円で式を挙げることができた。参列者もひとり3500円の会費で参加できる。安いだけあって、会場は無機質で地味だった。
「自分たちで企画運営も全部やろう!」と、テーブルクロスをお手製でつくるところからはじまった。本場の結婚式場のようにテーブルを並べ、招待状も作った。当日は、あおちゃんが紋付袴で居合いでウェディングケーキを切った。のんたんかあさんと客室乗務員の同僚たちが、仕事着で現れ、参加者にフライト気分を味わわせた。そして最後には、赤いバイクヴェスパーにまたがったあおちゃん、サイドカーに乗ったのんたんかあさんが会場を走り回るというフィナーレ。今の大地につながる、「自分たちで、工夫して、おもしろく」の精神の原点のような結婚式だった。