第30回
妻ゆかこと大地 前編
2024.10.01更新
この連載もいよいよ終盤に入ってきた。今までは、僕の視点から多くを語ってきた。今回は、妻のゆかこは、大地での経験をどう感じているのだろうか。彼女にインタビューした内容を僕がまとめてみた。
彼女は僕と同じ1989年の生まれで茨城県の水戸市出身だ。大学では薬学を勉強し、薬剤師免許を取得。卒業後は、地域医療に関心があったので、高知県高知市の薬局に就職した。高知の自然に囲まれながら、仕事も遊びも楽しんでいた時に、彼女の前に現れたのが、僕である。僕は、当時アフリカの未承認国家ソマリランドでのプロジェクトに取り組んでいた。帰国した際に、高知県に引っ越した友人を僕が訪ねた時に、友人が仲間たちを集めた講演会を開いてくれた。その時に会場運営を手伝っていたのが、ゆかこだった。
出会ってからまもなく、僕はゆかこを誘って食事に出かけると、「一緒にソマリランドに行かないか」と尋ねたことがある。
すると、ゆかこは目を輝かせて、「行ってみたい!」と答えた。僕はその時に、直観的に「この人は気が合うかもしれない」と思った。出会ってから、しばらく僕は、ソマリランドやイギリスを飛び回っていたため遠距離の付き合いをしていたが、2017年に結婚する。2018年には、長男のたかちゃんが誕生。2020年に、次男のひろくんが誕生。2021年に、小布施に引っ越したときに「大地」に出会ったのは、この連載でも書いてきたとおりだ。
小布施に引っ越した当時、ゆかこは東京の医療系ベンチャーでフルタイム勤務で働いていた。引っ越してからも、現地のコワーキングスペースで、オンライン勤務を続けていた。ゆかこの大地の第一印象は「なんて緑豊かで、広い所だろう! ここに、子どもが通えたら素敵だろうな」と感動する一方で、「服は毎日泥だらけになるだろうし、洗濯が大変そう。保育時間が9時半から14時半って短くない? フルタイムで働いてる人はどうするのだろう。しかも、毎日お弁当をつくるのだって楽ではない」と現実的な課題が頭をよぎっていた。しかも、住んでいる小布施町から大地までは車で片道15分から20分の距離だ。東京の保育園は、歩いて15分の距離だった。送迎もハードルに感じたという。
「無理無理!」
その不安を口にすると、僕はこう言った。
「俺が面倒なことは全部やるから、大地に通わせよう」
僕としては、当時こんな面白い園との出会いを見過ごすことはできなかったのである。こうして、僕が押し切る形で長男たかちゃんの大地入園は決まった。
入園から半年ほど、我が家は「税所さんのところは、お父さんばっかり大地に来てて、ゆかこさんはほとんど顔出さないよね」と保護者仲間から言われていた。ゆかこ自身も、入園当初は自分でも「部外者だった」と答えるほど大地と距離をとっていた。そもそも、ゆかこは9時には、小布施のコワーキングスペース「ハウス北斎」に入り勤務を開始すると、夕方の17時まではオンラインで働きづめだった。送迎や大地の催しの準備も、僕が中心になって担っていたので、ゆかことしても距離感を掴みにくかった時期が続いた。
ゆかこが、たまに大地のお祭り準備の打合せに参加すると、その打合せのスピード感に驚いたという。普段彼女は、東京のベンチャー企業で30分刻みの打合せをこなしているのに、大地での打合せはゆっくりじっくり進む。みんなで持ち寄ったおやつをつまみながら、1時間、2時間かかることもザラだ。雑談も多いし、のんびりしているのだ。今となっては、この一見意味のなさそうな「雑談」や、のんびりしたペースが、たいせつな意味を持つことはわかる。しかし、入園当初のゆかこにとっては、無駄な時間にしか感じなかった。あまりに、進行がゆっくりした会議に参加した時には、しびれを切らして、途中で帰ってしまった時もあったという。
そんな仕事に励む毎日のなか、ゆかこは大地のお母さんたちが、「豊かな顔」をしていることに気づかずにはいられなかった。毎日を自分のように、セコセコせずに、子どもたちとの「時間」を味わっているように感じられた。ゆかこが好きな一冊にミヒャエル・エンデの『モモ』がある。ご存知の通り、時間泥棒の灰色の男たちに、時間をどんどん奪われていく世界を描いた作品だ。ゆかこは、まるで自分自身が灰色の男たちに時間を吸われているかのような気持ちになったという。
「せっかく長野に引っ越してきたのに、東京での働くスピードを維持していたから、違和感があった」と当時を振り返って、語っている。フルリモート勤務は、地方に引っ越す際の大きなメリットのはずだった。しかし、ゆかこは、ベンチャー企業のリズムと大地の昭和的のんびりリズムに挟まれて、悩んでいた。
またゆかこは、園長あおちゃんとの距離感も掴めずにいた。9月のある日、自宅でひろくんが沸騰するやかんに手を伸ばして、やかんがひっくり返った事件があった。ひろくんは両腕を火傷。包帯でぐるぐる巻きにするという痛々しい出来事だった。あおちゃんは、僕たちに対して、
「たいてい、こういうことを子どもがしでかすときは、親が落ち着いていないときだよ」と、一刀両断、たしなめられた。たしかに、あおちゃんのおっしゃる通りなのだが、東京の保育園の先生たちから、そんなことを言われたことはなかったので、驚いた。この園長と一体どんな信頼関係を築いていけばいいのだろうか。
大地に入園してはじめての冬がきた。僕は初めての雪国での冬に大はしゃぎ。仕事もそこそこに、大地の送迎が終わると、毎日近場のスキー場に出かけて行った。そんな様子を、横目で見ながら、一日をコワーキングスペースの中で終えるゆかこは、
「なぜ私の世界は、この六畳一間で終わっているのだろう」
「これは、豊かといえるのか」と違和感が頂点に達した。そんな状況に、地殻変動を起こしたのが、三男ふみくんの妊娠である!
(後半へ続く)