第36回
のんたん母さんの人生(後編)
2025.04.01更新
大地をあおちゃんと一緒に切り盛りしてきたパートナー、のんたん母さんこと、青山伸子さん。インタビューの前編では、その幼少期から語ってもらった。後編は、伸子さんの青春パートのお話だ。僕の手元に一枚の写真がある。1978年、あおちゃんが大学4年生、伸子さんが3年生のころに初めてであったときの写真だ。あおちゃんがオーストラリア一周バイクの旅に出かける前に、友達の家で偶然、伸子さんが居合わせたのだ(詳しくは本連載の第16回をお読みください)。写真の二人は、当然若々しい。あおちゃんは、にっこりと笑い、伸子さんは、穏やかに微笑んでいる。この時、大地の誕生の可能性が芽吹いた。
伸子さんは、京都府立の高校に進学し、剣道部に入って、自由な高校生活を謳歌した。高校3年生の時には、原付バイク「ラッタッタ」を手に入れ、バイク乗りとしてのデビューを果たす。当時は、ノーヘルでバイク通学していた高校生も少なくなかったという。お昼休みには喫茶店に出かけたりと、時代的にも、規律より自由があった。
伸子さんが、小さい時から、世界に目を向けていたことはインタビューの前編でも書いた通りだ。「大学では、英文科を受けよう!」と、大学受験に挑戦するも、軒並み不合格に。伸子さんは、浪人を覚悟し、現役受験の最後に、今まで受験していた外国語系ではなく、法学部を受験してみた。すると、合格通知が届く。こうして、伸子さんの京都での大学生活がはじまる。偶然にも、一個上の学年に、あおちゃんがいた。伸子さんは、もし英文科に受かっていたら、「あおちゃんと出会わなかったから、大地はなかったかもしれない」と笑う。
伸子さんにとって、大学での専門は法学部だったが、「大学は、いろいろなことをしにいくところだ。やりたいことをやろう」と気合を入れていた。京都イングリッシュセンターで週3回英語の勉強をして、アルバイトをしてお金を貯めた。大学3年20歳のとき、人生初めての海外へ。3カ月間のアメリカ留学だ。当時は、今ほど手軽に、海外留学があった時代ではない。
初めてのアメリカは、全てが大きかった。西海岸のバークレーで英語の研修を受け、その後、東海岸の港町ポーツマスへ。アメリカ人家族の家でホームステイした。ステイ先のお父さんは、キャンピングカーで旅に出かけるのが好きだった。伸子さんも、キャンプに連れて行ってもらい、湖のほとりで一晩を過ごす。この時の星空の美しさは今でも忘れられないという。僕は、大地の「夏のキャンプ」で、満点の星のもとでの伸子さんのお話会を思い出した。この時、僕が体験した大地での星空と、伸子さんがアメリカで魅せられた星空がつながっている気がした。
初めて実家を離れてアメリカで過ごした伸子さんには、雄大なアメリカの景色と日本とは違う価値観のなかで、「自分には、できる!」という自信が生まれた。自分の殻が破れていくのを感じたという。「人生、やりたいことをやろう!」という想いを強く帰国した。
アメリカから帰ってきた時に、一個上の先輩で「バイク乗りの、変な人がいる」という噂を聞いた。それが、あおちゃんだった。伸子さんも、本格的にバイクに乗りたいと思っていたので、話が聞けたらいいなあと思っていたそうだ。そんなとき、伸子さんが友人の家を訪ねると、偶然、オーストラリアに出国前のあおちゃんが「テーシャツに寄せ書き書いてくれ」と訪ねてきた。冒頭の写真のシーンである。あおちゃんは、友達と伸子さんに、オーストラリア横断計画を勢いよくしゃべり倒すと、「じゃあ、卒論書かないと!」と言って、風のように去っていった。当然、連絡先の交換もしなかった。しかし、伸子さんは、30分弱の初対面の中で、「赤い糸」のようなものを感じたと振り返る。
当時、伸子さんは、理想の男性のイメージを友人に聞かれると、「バイタリティのある人!」と答えていた。現れたあおちゃんは、今までに出会った男友達のなかで、「こんな人はいないな」というエネルギーに満ちた「ギラギラした」存在感だった。友人によると、そのころの、あおちゃんは、車を運転するときも、前のめりの前傾姿勢だったというから、相当である。まして、オーストラリアに出発する前の、「行くぞー!!!」という勢いは、「たまたま、そこにいた」伸子さんに鮮烈な印象を残した。
その後、あおちゃんは、無事に帰国。伸子さんは、帰国報告会で、あおちゃんに再会する。こうして、友達付き合いがはじまった。あおちゃんの実家である長野に友人とスキーに出かけた。当時の長野は、道が土の状態の所もあったり、電話がオペレーター経由だったりと、京都とは違う様子に驚いたという。伸子さんも、バイク乗りとして、大学4年の夏に長野までツーリングの旅へ。この時にも、あおちゃんを訪ねている。
4年生の夏が終わると、就職活動がスタート。当時、伸子さんは添乗員になることを志望し、旅行会社に行きたかった。しかし、当時は、四大卒の女性より、短大卒の女性の方が就職率が高かった時代だ。伸子さんの就職活動は、難航した。
「ぷーたろうをやるわけにはいかないなあ」と思っていたとき、友人がコネクションを活用して、いい就職先を決めてきたと聞く。伸子さんは、「いいなあ!」という悔しさと、「コネクションずるい!」という憤りを感じた。
伸子さんは、「こうなったら、私も負けないような会社へ就職しよう!」と発奮する。
当時、最難関だった「日本航空の客室乗務員」が、伸子さんの目標になった。それから約半年間、伸子さんは、人生で一番努力したという。英語の勉強はもちろん、体力テストを突破するための毎日の縄跳び。視力が悪かったので、視力回復センターへも行った。「この時ほど、勉強したことはない」と振り返る。伸子さんは見事に合格を勝ち取る。
「人間やれば、できるんだ!」と、22歳で学んだ。
こうして、小学生の時に、「将来は、世界をまわれるような人になりたい」と書いた夢が実現した。
日本航空に入社し、見習いの時に乗ったのは、グアム線だった。先輩に付きっ切りで、客室乗務員の仕事を教わった。一人前になったときの初フライトは、アムステルダム便。東京から、アムステルダムに飛び、一週間滞在する。その間に、アムステルダム、パリを一回往復する仕事以外は、自由に時間が使えた。同じグループの先輩たちと、美術館、コンサート、ミュージカル、教会と色々な所へ出かけて行ったという。これまで、身体を動かすことが大好きだった伸子さんにとって、文化的な出会いに目覚めた時間だった。
「楽しくて、楽しくて。寝てなんて、いられなかった」と当時を振り返る。
このころ、あおちゃんとの付き合いも、順調に続いていた。結婚したのは、25歳。入社3年目のとき。「一緒に苦労してくれ」というのが、プロポーズの言葉だった。
その後も、客室乗務員の仕事は楽しく、世界のあちこちに仕事で出かけた。フライトはいつも夜の出発で、伸子さんたちは自分たちを「夜間労働者だね」と笑いあった。
夜中に働き、重いものを持ち、お客様にサーブする仕事は決して楽なものではない。
「ずっと続けたら、身体しんどいな」とも思っていた。結果的に、あおちゃんが長野に帰り、親戚の保育園に就職するタイミングで、伸子さんは、日本航空を退職する。約6年間の勤務で、29歳のことだった。
「華やかな職場から、長野の保育園という地味な職場へ」と、友人たちに言われることもあったが、伸子さんは、自分の今の状態を、一番いいと思う性格だ。あおちゃんと、退職後の海外旅行もたっぷり楽しみ、長野に引っ越した。こうして、大地がはじまる土壌が整っていった。伸子さんは、日本航空を退職して、飛行機を降りたときに、「地に足がついたな。」という実感を持ったという。
それから、約35年の月日が流れた。伸子さんは、大地をあおちゃんと創業し、4人の子どもたちの母となる。そして、今は7人の孫のおばあちゃんでもある。伸子さんは、「子どもたちが、自分たちが幸せだと思えていたら、それが私たち、親の幸せ」だと語る。お金があろうとなかろうと、地位があろうとなかろうと、関係ない。他人がどう思おうと、本人が幸せだと思っていることが、親にとっての幸せだと。
その想いの原点には、京都の母親の存在がある。あおちゃんと出会う前、伸子さんは結婚に夢を抱かず、「お寺を継いでくれる住職の人と結婚してもいいなあ」とドライに言っていた。実家を継いでくれる人と結婚すれば、母たちも喜んでくれるのではないかと思っていたのだ。その手前、あおちゃんと付き合い始めた当初、その存在をお母さんに言えないでいた。
ある日、伸子さんが実家に帰ってお化粧をしていると、お母さんが言った。
「あんた、なんかいい人いるんと違う?」
「え・え・え・・・」
「わたしは、のんちゃん(伸子さん)が幸せなことが一番のことやから、そういう人がいたら紹介してね」
その時、伸子さんは、「ああ、そうか、この母は私の幸せが、幸せなんだ」と感動したという。
「世の親はみんなそうだと思う。子どもの幸せが、親の幸せ。これが私の、いまの4人の子どもたちへの思いでもある」
これが、伸子さんの子どもたちへの基本姿勢である。