第5回
ヒノキの骨
2023.09.13更新
爺捨て山に休憩小屋をつくりたい。そんな思いで、ヒノキを物色していた。お目当てはすでに枯れてしまったものたちだ。
朽ち果てたヒノキでも、鋸の刃を入れると、とてもよい香りに包まれる。その匂いを知らない人に、どんな言葉を以てすれば伝えられるだろうか。やはり、それはヒノキの香りとしかいいようがない。
爺捨て山のヒノキは強靭なものをわずかに残して、やがては消えていくのだろう。木立の中は、わずかな太陽光でも育つ広葉樹が広がりつつある。まっすぐに天を衝くヒノキと違って変幻自在に枝をくねらせ、小さな木洩れ日も逃さずに、目いっぱい葉を広げて太っていく。
ひとつの幹の根元から何本も枝を伸ばす広葉樹もいて、蔓に巻きつかれても息を切らしている感じがしない。年数をかけて育つうちに、細かった枝もどれが最初の幹なのか見分けがつかぬほど分派して立派になるものもいる。
ところがヒノキときたら、頑固一徹の親父のごとく一本気だ。ひとつしかない幹に大蛇のような蔓が巻きつくと、首を絞められたみたいに窒息し、葉に吸い上げられる水たちの脈路を失う。枝という枝、木という木に絡まりながら、横に広がる蔓の葉っぱの下で、お日様が拝めなくなると、徐々に勢いを失っていく。引き倒されたかのように横たわるヒノキに接すると、その断末魔が聞こえてきそうだ。
衰弱し自重に耐え切れなくなったヒノキは、どれも南側を向いて倒れていた。北から南へと吹く強風に、根っこごと持って行かれるのだ。巨木は足元にある樹々をなぎ倒して着地するが、細いものは他の木にもたれかかったまま死んでいく。僕はその死んだヒノキたちの中で、どれが、小屋の柱として使えるのかを見て歩く。
枯れた幹の断面を見ていると、ふたつの層を成していることが分かる。かつて水を吸い上げていた木の外側と、すっかり水分を失って生きながら枯れた内側である。水分が豊富だった外側は柔らかいこともあって、虫の住まいとなっている。
手で触るだけでボロボロと崩れ去る木くずに交じって、虫たちが這い出してくる。その筆頭である蟻は天と地がひっくり返ったかのような勢いで右往左往する。そんな、虫たちの慌てぶりをみていると、僕はビルをなぎ倒し、家屋を蹴散らす大怪獣へと変容した気分になる。全長163cmの小柄な体も、関わる対象が変わると伸び縮みする。僕の体は致命的な脆さと、破壊的な強さを持ち合わせている。
さすがに、あの右往左往を見せつけられると、彼らの住まいを奪い去るのも気が引けてくる。彼らの住居と化したヒノキには手を付けない。それらは、分解の第1段階にあるものだ。僕が欲しているのは第2段階のもの。外側の縁が分解しつくされ、カチカチに硬い内側が露わになっているものである。僕にはそれが骨のように見える。木は、幹の中で生きながら死んだものたちが骨となって全体を支えているのかもしれない。その骨は固すぎて、虫も歯が立たないらしい。そんな骨を探していた。
目の前におあつらえ向きの骨が現れた。それは完全に倒れきっていなかった。幹回りが4メートルほどあるクスノキに、寄りかかって死んでいた。木としては死んでいるのだが、虫も寄せつけぬあの硬い木肌に触れると、このヒノキは骨となって生きているのだと感じてしまう。このような姿になるには、どれくらいの時間を要するのだろうか。この骨がさらに分解されてしまう前に小屋の柱の一つにしたいと思った。
腰にぶら下げた鋸を手に取り、お目当てのヒノキに刃を入れた。数センチほど刃が入ったところで、メリメリと音を立て始める。倒れていた方向にかかる張力に耐えきれず、骨となった幹が張り裂けようとしている音だ。
危険を感じて逃げ出そうとしたが、予測よりも早く幹は断裂し、弾みで跳ね上がった木の元口が親指をかすめて倒れて行った。慌てたこともあって、僕は転んでしまった。これは、伐採時に人が死ぬパターンである。枯れ木の伐採は生木より危険なのだ。
幸いなことに大きなケガはしなかったが、木が当たった親指は血が滲んでいた。痛みでジンジンする指先を感じながら、爺捨て山の開拓は死と隣り合わせであると、改めて実感した。
林業・木材製造業労働災害防止協会の災害事例研究には様々な事故が公開されている。そこには、多様な死があって、読めば読むほど、恐ろしくなる。
倒木の下敷きになったり、跳ね飛ばされたりと、木との接触による死も恐ろしいのだが、もっと怖いのは機械やチェンソーによる事故事例だった。読んでいると体が得体のしれないモゾモゾに襲われ、胸がキューっとなる。僕のすぐ傍で死神が笑っている感じがする。あの死が凄惨に感じるのは、道具や機械によるものだからだと思う。
鋸がなければ、骨のように固い幹を切断することなど、はなからできない。ひ弱な体ひとつであれば、自ら切った木にぶち当たることなど起こりっこない。自然が人に死をもたらすのは自明なことだが、そのリスクをより高くし、残酷なものにしているのは、人が作り出した道具や機械だった。
爺捨て山は、あらゆる死で溢れている。バッタを狩るカマキリ。カマキリの幼虫を襲う蟻。蟻を糸に掛けるオオヒメ蜘蛛。蜘蛛をぶら下げて飛ぶオオモンクロクモバチ。オオモンクロクモバチはオニヤンマに出会うと姿を消し、オニヤンマはシオヤアブの奇襲にやられる。シオヤアブは小鳥から追われ、小鳥はカラスの群れから身を隠す。カラスが海を渡って都会に出向くと、小鳥たちは待ってましたとばかりに顔を出し、高らかに歌い出す。都会から帰ってきたカラスは僕が近づくと逃げていく。下手に出会うと死に直面しかねない。彼らは常に、すれ違う努力をしている。それでいて、互いを必要としている。
僕がうっかり踏みつけてしまったシデムシの死骸を、蟻の小隊が列を組んで運んでいた。目論見どおり、ここで野垂れ死にすることができれば、踏みつぶされたシデムシの子孫たちに僕の体が食われることになる。
虫たちの営みと僕の体が決して無関係でないことを感じさせてくれた。死が生を育み、生が死を生む。ヒノキの幹が外側へと生を広げ、その内側に死を内在させて生きているように、この森の営みは生と死を対峙させたりしない。
僕は今、爺捨て山にある自然がいかに、人を生かしてくれるかを堪能している。酷暑の熱気の中、森の木陰は穏やかな冷気で包んでくれる。大地から湧き出る水は、喉を潤し、火照った体を冷やしてくれる。汗ばんだ体を触る風は冷房に勝る。強い風に耐え切れず折れた枝を燃やせば、ご飯を炊くこともできるし、寒い日は冷え切った体を温めてくれる。電気やガス、水道がなくても、それなりに生きていけることを感じさせる自然の恵みは、僕に楽観をもたらした。そして、僕が死んだあとも、時間をかけて跡形もなく始末してくれるだろう。