第13回
「ちゃんとしたうんこ」をする
2024.05.10更新
母の下痢が数日続いた。下痢の匂いはピ~ンとくる。形のあるものと違い、少し酸味を感じるというか。匂いとともに舌にくる。腸が弱っているのだろう。下痢止めの服薬を考えたが、急ブレーキをかけるようで躊躇いがあった。
「早く良くなれ」と励ますより、しばらく弱っていた方がよいと思う。「弱る」は元気になるための準備のようなもので、回復の初期段階ではなかろうか。母は休むわけにはいかない労働もない。1~2食抜いて様子を見ることにした。
漏れ出た下痢の後始末は、やはり大変だ。ウエットティッシュ、ポリ手袋、ビニール袋、ペットの排泄用シート、清拭用品などを、事前に用意して事に当たらないと後悔する。碌な準備もしないで慌てておこなったときは、自分の愚かさを呪うことになる。
この日は突然の下痢に動揺してしまい刹那に母の尻を拭き始めた。あまりの準備不足に、にっちもさっちもいかなくなって、手にうんこが付いていることにも気がつかず、いろんなものを触ってしまった。「あっ、こんなところに、うんこが付いてる、あっ、ここにも」と後処理に追われる始末。(おい、おい、おまえは介護のプロだろう。何をやってんだ)と嘆いた。
排泄は避けて通ることのできない人間の営みである。生まれてすぐと、死ぬ前は人の手を借りて排泄することになる。思えば僕の人生は、うんこと共にあったといっても過言ではない。初めて爺様や婆様のオムツに出たうんこをさらったときは、意外にも抵抗はなかった。
それどころか、お年寄りからお出ましになった「今日のうんこ」の話を仲間としながら、昼食がとれるほどに熟練した。
さらに熟練すると、便秘のお年寄りが難産の上に排出したうんこと対面したとき、自分の直腸が空になったと思えるほどの体感を得ることができる。水洗トイレの中に収まるうんこの立派さを目の当たりにして「いいのが出ましたね」と思わず呟くこともある。目利きの古美術商のような物言いに「そうですかねぇ」と謙遜しながらも、まんざらでもないお年寄り。そんな時間はわりと好きだ。
うんことの関わりは、実生活においてより深まりつつある。開拓中の爺捨て山では、どのようにうんこをするのかが課題だった。都市生活が板に付いたせいか、もよおしたときは、車に乗って麓の公衆トイレに駆け込んでいた。
トイレに行く猶予がなく、直腸が待ったなしの状況に陥って、初めて野ぐそ体験をした。それは意外にも気持ちがよかった。トイレという定められた空間では得ることのできない爽快感というか、自由というか。ほのかな背徳感にワクワクした。
掘った穴に収まる出来たてほやほやのうんこ。少し観察した後、土をかける。なんと、一瞬にして臭いが消える。どんな消臭剤も敵わない。し終えた後は完全犯罪をこなしたような達成感があった。
しみじみ思ったのはトイレ掃除をしなくてもよいことだった。トイレを始めとして、水回りは掃除を怠ると、途端に不潔となる。ところが「野ぐそ」は水を一切使わない。場当たり的で、その場しのぎであるにもかかわらず、極めて合理的だった。
とても嬉しかったのは、うんこが土に変わっていたことだった。さらに嬉しかったのは、うんこを土に還した虫、糞虫と遭遇することができたこと。
「なんて、美しいんだろう」
黒光りしながらも、観る角度によっては紫に変色する。まるで金属であるかのように輝く甲羅に見とれてしまう。10匹ちかく蠢いていた。触ると手足を伸ばして死んだ振りをした。いつ動き出すものかと、しばらく眺めていた。いっこうに動き出さない。本当に死んでしまったのではないかと心配するほど、じっとしている。なんとも平和的であった。
「やった! ここには糞虫がいるんだ!」
新たな分解者を目視することができた。シデムシの存在はすでに確認していたので、心強さが倍増した。よって、僕の課題は彼らが生息し続けることのできる環境を維持すること。というより、彼らの生存を脅かさない、営みを阻害しない存在になること。
それともう一つ。「ちゃんとしたうんこ」をすること。「ちゃんとしたうんこ」って何だろう。よく分からないが、とにかくそう思えた。僕の体は食べたもので成り立っている。であるならば、僕のうんこも彼らの体を成り立たせているもののひとつである。糞虫たちが喜んで集まるうんこをしたい。彼らから「いいのが出ましたね」と褒められたい。
春から初夏へと向かう季節は2週間ほどで、うんこを土に還しているようだ。盛夏はもっと短いだろうし、冬はみんなお休みぎみなので分解も滞るだろう。つまり、分解にかかる時間が、僕とこの小さな森の接点になるのかもしれない。ここに住まう生き物にとって、時間の概念などあるはずもないのだけれど、僕にとっては森との関係を考える上で何らかの基準になるような気がする。
僕から排泄されたものを一か所に集めすぎると分解が滞る。分解の速度に合わせて、おしっこやうんこの仕方を考えたいと思った。
新たに、挑戦していることもある。紙を使わずにお尻を拭くことだ。紙によっては分解しにくいものもあるので、安易に埋められない。拭いた紙を持ち帰ったり、燃やしたりするのも難儀だった。
5月は蕗の盛りである。葉は大きくて拭きやすい。摘み取って少し時間を置くと、しんなりとしてくる。その、くたっとしたときが拭くのによい感じだった。
破れはしないかと及び腰で拭いていたが、思いのほか強い。あまりに蕗の葉が手になじむので、お尻の穴を直に指で触っている感じがして、初めて拭いたときは抵抗感があった。けれども同時にひんやりとして薄い鞣し革で拭いている様な上質感がある。(これは癖になる)と感じてしまった。
拭き終えた蕗の葉は埋めてしまえば、生き物たちが分解してくれる。茎は料理して食べた。食べた蕗は、僕の体の一部になり、やがてうんこになる。
都市生活ではゴミとなってしまい、お金をかけて処分されるものが、ここでは命を育む。ゴミがないなんて、なんという循環のシステム。土に還るまでの行程に様々な生き物がすれ違いながら関わり合っていることを感じることができる。僕もその中に入れた気がした。うんこをするだけで、孤立とは無縁の世界があることを知った。
今年の課題がささやかに新たに加わった。季節折々の尻拭き葉っぱを見つけていくことである。