僕の老い方研究僕の老い方研究

第14回

耄碌記念日

2024.06.10更新

 このことを老い方研究に加えるか、否か、少しばかり悩んだ。書き出した今も気持ちに迷いがある。今から記そうとしていることは、僕の耄碌のなにものでもないからだ。多くのお年寄りの耄碌ぶりを筆に落としてきたのだから、自身の耄碌を伏せるわけにはいかない。赤裸々という言葉は今回のためにあるのだと思う。

 老いるとは、当たり前に出来たことが、当たり前に出来なくなることだ。「かつては、できた自分」と「今は、できない自分」を比較して嘆くことは、泣きっ面に蜂のようなもので、悲しみが悲しみを呼び込んでしまうのではないか。そう長くもない余生を深刻になるなんて、深刻にさせるなんて、なんだか、悲しいのである。

 とはいえ、老いとは失うことの連続であって、その喪失、あるいは喪失の始まりを受けとめるのは容易ではない。ある意味、仏に近づくのだから畏怖を感じるのもしかたがない。

 老いは自由意思による選択など許してくれない。望むと、望まざるとに関係なく僕らは老人へと変容する。であるならば、ちゃんと老成したい。そんな気持ちで老い方研究を始めた次第である。

「老成」とは、いい言葉だ。辞書を引くと「経験を積んで熟達すること。また、そのさま。老練」とあった。できなくなる経験を積んで熟達する。老人になるにはそのプロセスをちゃんと踏むことが避けられないということか。

 現在、介護中の母の顔には老練ぶりが現れているように感じる。寝たきりの状態となって3年になろうとしているが、ベッドに横たわり天井を見つめている母の顔はかなり変である。

 ふたつの瞳は鼻柱に向かって寄り目気味。母の顔を覆うように、僕の顔を近づけてみるが、焦点が合っているように思えない。母の視線は僕の顔の先にあるかのようだ。あの表情は、かつての母とは別物である。少しばかり人間離れした感じもする。

 母は好きで天井を見ているのではない。寝返りを自力でできない以上、天井を見る以外に選択肢がない。望んでもいない状況を、なすすべなく受け止めざるを得ない時間を過ごすことの凄みが顔に現れているのかもしれない。一般的には、あんな顔に出くわした家族は悲しみに暮れるのだろう。

 僕はあの顔が好きだ。「動」から「静」へと存在そのものが変容した人間の顔。時間と空間の概念など無関係に等しい世界を当てなく生きるなんて、並大抵ではない。それでも母は生きている。生きることを可能にする境地を母は熟達することで得ようとしているように感じる。自分の意思を発動させることもなく。

 僕が仕事から帰ってくると、母はやっと座ることができる。面白いことに、座ると母は僕の知っている「いつもの顔」に復帰する。あの様子に触れると、生きながら、あの世とこの世を行ったり来たりしている感じもするのである。大げさかもしれないが、寝たきりの達人となりつつある母に畏敬の念が僕の心に芽生えつつあるのかもしれない。

 老成に至る熟達とは、自意識による選択と努力によって育まれるものではないことを感じさせる。この老い方研究も「健やかに老いるために」とか「ぼけても穏やかであるように」といった自意識の目論見を達成させるために始めたわけではなかった。僕の体がどのように変容し、営みが変わることで、どんな境地が生まれるのかを堪能することにあった。そのことを改めて考えるに至った出来事が僕の身に起こったのである。

 ある日のこと。便所で用を足した。母の介護から久しぶりに解放されて帰ってきた自宅のトイレである。我が家の便座にはウォシュレットがない。なので、冬は便座が冷たいし(とりあえず市販のシートを貼り付けているので問題はない)、お尻の穴を直接洗えない。

 基本的には、ウォシュレットは贅沢品だと感じてきた。けれど、実家では母のお尻を洗うのに大変重宝している。介護する僕にとっては無くてはならないものとなった。そんなこともあって、ウォシュレットありきの生活に慣れ切っていた。

 自宅では、薄いチリ紙を丁寧に重ね、慎重に拭きとる。1回では気が済まず、3回は繰り返す。それが、僕のパターンであった。この日もいつものように用を足し、台所で手を洗い、手ぬぐいで手を拭いた。(念のために記しておくが、我が家は極小賃貸住宅のため洗面所がない)

 その足でシャワーを浴びていた。すると、激しく飛び交う水音の合間に、何かを訴える強めの声がした。つれあいのものだった。シャワーを浴びながら、耳を澄ます。なんとか聞き取れたのだが、その内容を、にわかには信じることができなかった。

「ウンコ、ついてる!」

「えっ!」

「ウンコがついてるの!手ぬぐいに!」

 いやいや、そんなことがあるものか。

「チョコレートじゃないかなぁ」

「いいや、ウンコ」

「嗅いでみた?」

「いいや、嗅いでない」

(嗅いで確認する必要がないほどに、ウンコなのか)

 

「ウンコなんかつけていない!」

 言い返したい気持ちを、自らいなして、叫ぶのは心の中だけに収めた。ここで、どんな態度をとるかで、今後の僕の老い方が決まる大きな節目であるように感じたのだ。シャワーを浴びながら思いを巡らす。

 頑なに自分ではないと主張するのか。それとも、あっさりと認めるか。認めたとして、謝罪する必要があるのか、ないのか。老いによる不手際を謝罪の対象にすると、今後の人生は謝り通しである。かといって、清潔を保つための手ぬぐいにウンコをつけておいて、当たり前然とするのも、不遜であるように思う。

 自分の意思をもってウンコをつけたのではないことは明白だが、これからは、自分の意思に反した、コントロール不能な事態が当たり前のように起こるのだ。かつての自分とは違う自分が立ち上がってくるだろう。その連続を、ただ、ただ、受け止め続けることが、結果として僕を大人の老人にする。老成させるはずだ。

 とりあえず、笑うことにした。声を出さず、にっこりと満面の笑みで応答した。つれあいが僕の顔を見たのか、見なかったのか、定かではないが、「水洗いしたけど、落ちなかった」と言った。彼女の声色に責めのトーンはなかった。肯定も否定も感じさせない感情のコントロールは見事だった。

 当事者に知らせずに、そっと処理しておくという手もあったのではないかと、少し思ったが、それは求めすぎというものだ。彼女も衝撃的な光景を静かに受けとめているのだから。

 それにしても、ウンコというものは、どうしてこんなにも忌み嫌われるのだろうか。直腸に収まっているうちは意識もされないのに、いったん、外に出るものなら、やれ臭いとか、やれ汚いなどと囃し立てられる。

 他の生き物であれば、好んで首に擦りつける犬だっているし、食して命を生かした後、さらに小さなウンコにして、他の命を生かす昆虫だっている。人間の界隈以外では人気者なのだ。(大人に染まっていない子どもはウンコが大好きだし)

 あろうことか、介護業界には「便汚染」なる言葉もあった。漏れたウンコを処理したことを記録するときによく使われていた。僕はあの言葉が嫌いで、自分の職場では使用禁止にしたほどである。

 それはともかく、(とうとう、こんな日が僕にも来たのだなあ)としみじみした。

 恥ずかしさでもない。情けなさでもない。怒りでもない。ましてや喜びでも。どこにも着地せぬ感じで事実を受けとめた。

 母のことが思い出された。

 介護の必要を感じて、足しげく実家に顔を出し始めた頃だった。家族の間には「うかつに手すりを触らない」という暗黙の了解があった。ときおり、ウンコが付いていたからである。

 排泄の後始末が上手くいかなくなったようだった。もちろん母の場合は、80歳を超えていたし、寄る年波の敵わなさによるものに間違いはない。僕はまだ、60歳だから、かなり早すぎる。ただの不注意といっても差し支えないと思うが、それにしてもあり得ない不注意である。おりしも還暦を迎える年に起きたのだから、これも何かの啓示であると思いたい。

「手ぬぐいにウンコがついている」と君が言ったから6月1日は耄碌記念日

 そんな心境である。

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に 『ぼけと利他』 (伊藤亜紗との共著、ミシマ社)『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

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