第16回
体一貫の時間
2024.08.15更新
午前5時を過ぎると空が白々とする。同じころ合いに「チーチー」「チュン、チュン」と声がし始める。小鳥たちの声に誘われて目を覚ます。
少し遅れてスマートフォンのアラームが鳴り出す。寝床の中で起きる上がるタイミングを計っていた僕は、慌てて目覚ましの音を消しにかかる。その瞬間は、スマートフォンに設定された日常に引き戻されてしまう。
爺捨て山の掘っ立て小屋から外を覗くと、朝日が樹々の隙間から差し込んでいる。あの少し黄色味を帯びた陽の光は目に柔らかい。日差しがやりやりとする前に草を刈りたい。
草むらと見紛う畑に立って本日の計画を立てる。始める前は脳だけが勇ましく、午前中で大方の草を刈るつもりでいる。その取らぬ狸の皮算用をあっけなく御破算にしてしまうのが体である。
真夏の日差しは殺人的で、わずか15分の作業であっても息が切れる。集中豪雨に見舞われたかのように汗が噴き出るのであった。
汗の出方が尋常ではない。これを更年期というのであろうか。毛穴のすべてが全開状態。急上昇する体温が拍車をかけて、汗というより蒸気である。目を保護するための作業用メガネも曇ってしまい、前が見えない。研究員3名の中で、僕だけが茹蛸のように湯立っている。
無限に続くかのような草の海にのまれながら刈り続ける。体はオーバーヒートの様相なのに、脳が「あと少し、あと少し」と煽る。「せめて、あそこまで」と後ろ髪を引く脳の叫びを断ち切るのは意思ではなく体の限界だった。
「ハァ、ハァ」と息を切り、灼熱の太陽から逃れるように木陰へと入る。太い枝を椅子代わりに体を休ませた。とにかく酸素が足りない。鼻は役不足となり、口が空気を吸い込みまくる。吸う量が増えれば、吐く量も増える。息を整えるゆとりなどない。暴れまくる息づかいが鎮まるまで、じっとする。
ほどなくすると、顎の力が抜け口に涎が溜まってくるのが分かった。もしかして、これは死ぬパターンではなかろうか。
呼吸の荒ぶりは収まりつつあったが、汗はこんこんと湧き続けた。ボタンを外し、胸を外気に曝すと、風も吹いていないのに、ひんやりとした空気が皮膚を撫でる。その冷たさに「これが気化熱か」と感じ入る。この満ち足りた感じはなんだろう。なんとなく、排泄をした時に通ずるものがある。
パンパンの膀胱から尿道を通っておしっこが溢れ出す瞬間。直腸の収縮に揉まれながらうんこが顔を出す瞬間。そして、汗が皮膚の上で蒸発する瞬間。これら、一瞬の恍惚に浸る至福。なんと、ささやかな至福だろうか。
爺捨て山で、もうひとつの至福を感じたことがある。
この土地が小さな谷に位置することもあり、平らな所など何処にもない。けれども、なだらかな傾斜のおかげで、さほど歩くことに苦労はない。作業もしやすく、ここが丘陵地であることを忘れるほどだった。
そんな爺捨て山に掘っ立て小屋を建てた。そこで休んだときのことだった。床に寝そべった瞬間に得も言われぬ喜びが溢れてきた。僕の体は、僕が感じている以上に、この土地の傾斜に疲れていたのだと思う。この喜びは、今まで感じてきたものと異なっていた。
疲れた自分に、ご褒美として買い求めたエクレアを、ゆったりとした椅子に腰かけて食べる時の喜びでもない。入眠を誘う枕やフカフカのマットに包まれる心地よさとも違う。
噴き出した汗が深部体温を守ってくれる、意識されない安堵のような、原初的な喜びと言ったらよいだろうか。
それは「水平」の喜びだった。
そんな喜びがあるなんて知りもしなかった。人類が水平を意識したのは、いつの頃だろうか。その人は誰だろうか。「水平」に気づいた最初のひとりは必ずいたはずである。まだ毛むくじゃらだったかもしれない人類が感じたであろう「水平の喜び」を、時空を超えて共にしているのだと夢想した。
それにしても、脳は能天気な計画を立てる。体の疲れや消耗ぶりなど考慮しない。性懲りもなく「午前中の内に大方の草を刈ってしまおう」などと、毎回、考えついてしまうのだ。この勇み足は何だろうか。
案の定、計画の3分の1も達成することなく、一日を終えるのであった。それでも不満は生じない。計画が遂行されなかったことを脳が悔やむ気配はまるでない。
全身汗まみれの体が得る「瞬間の至福」のおかげだと思う。過剰な有酸素作業による疲れがもたらす「やり切った感」にも脳は満たされている。得意な計算高さを手放して、脳は肉体の一部に還る。そんな「体一貫の時間」に喜びを感じるのだった。
太陽が山の尾根に沈んでいく。大都市での採取を終えたカラスたちが海を渡って帰ってくる。それを知らせでもしているのか、爺捨て山は途端に騒がしくなる。
小鳥たちも、一斉に鳴き始める。朝はさえずりに聞こえる声が、黄昏時は会話しているように感じる。朝の爽やかさとは、打って変わって気忙しい。やがて、申し合わせたように一斉に静まり返る。
陽が落ちて、暗闇につつまれると、嘘みたいな静けさの中でフクロウは「ホウ」と呟き、猪が「ギュ―」と鳴く。