僕の老い方研究僕の老い方研究

第20回

ぼけから寿がれる

2024.12.30更新

 行きつけとなった可愛いパン屋さんがある。ときおり出会う中年の男性がいる。彼を見て「オジサンもこんな店に来るんだ」と思った。その直後、ハッとした。かくいうオジサンは年下で、そういう自分は爺さんではないか。歳を重ねるほどに、自意識は年齢不詳となっていくのであった。

 今年で還暦を迎えた。70歳に至るこの先10年は、とても大切な時間になるような気がしているのだが、そのように考えてまたハッとする。僕の思考には過去→現在→未来というベクトルが染みついているのだと。

 その一方で、お年寄りの死に立ち会う度に「明日のいのちを保証された人は誰もいない」ことにも気づかされてきた。もっと厳密に言えば1秒先すらである。きっと未来というものはなく、「いま、ここ」の連続なのだ。

「いま、ここ」を生きる。実はそれが老い方研究の結論である。ところが「言うは易し、行うは難し」とあるように、未来志向満載の現代社会において、どうすれば「そのように生きることができるのか」が僕の課題となった。今年のしめとして、考えきたことをごく簡単に整理しておきたいと思う。

 まず、老いを衰退として観ない。この世に登場した赤ちゃんは、幼年、少年、青年、壮年、中年と、それぞれのステージを生き、老人となって死を迎える。その過程を成長後の衰退と捉えず、変容として受け止める。

 赤ちゃんから就学するまでの期間を非言語期、就学し社会人として生産に携わる期間を言語期と呼んでおく。老いが深まることで生産活動からお役御免となり、お迎えを待つ期間を非言語期に還ると仮定する。

 非言語期の主体は体で、それは有限である。そもそも体は「いま、ここ」を生きていて、過去や未来を問わない。いま食べたい。いまうんこが出る。いま眠りたい。いま、ここが嫌、あるいは好きといった具合に合理的な意味や価値に拠って立たない実感で成り立っている。時間は春、夏、秋、冬が巡り続けるがごとく円環的に流れ、空間は変化し続ける無常の領域で、季節や陽の光によって姿を変える山のように、常に同じものなど存在していない。この領域では「一緒にいる」ことでしか集団への帰属は生まれない。

 言語期の主体は概念を基にした意識で、それは無限である。概念は世界にある事象をざっくりと定義し固定化する。時間も空間も概念と言葉によって固定されることで、私たちは他者と協力し合える。「2025年1月1日の午後12時に富士山山頂に集合」のかけ声ひとつで、全国から集まることを可能にするように。それを頼りに、まったくバラバラの実感をもつ個人を束ねて、社会は創られる。この領域は時と場を共にしなくても集団への帰属感を計ることができる。

 注意すべきことは、時間というものは「過去→現在→未来にむけて一方向へと流れている」と観念化している点だ。この時間軸だと時系列的な記憶力がより問われることになる。つまり、そういった観念から離脱できれば、記憶力の低下に対する恐怖を無効化できるような気がする。

 上記の整理をとある人に話した。その人は寺を持たぬお坊さんで「私は禅に学んでいるのですが、通底したものがある。言語期の領域が禅でいう分別智にあたり、非言語期の領域は無分別智にあたる。無分別の状態を悟りともいうんです」と教えてくれた。

 お坊さんの話しを聞いて、なるほどと思った。仏教は非言語期に無分別という知性があると説いているが、言語期を生きる私たちは、そこに知性があることを認めようとはしない。

 このふたつの智は異なる知性の体系といえる。分別は「分ける」ことから生まれる知性、無分別は「分けない」ことから生まれる知性ということなのだろう。思うままに書き進めるなら、言語期は理性、そして科学的である。非言語期は野性、そして直感的である。さらに、科学は客観性、実証性、再現性、予見性に拠っており、直感は主観性、偶然性、一回性、事後性に拠って立つ。

 老いるとは言語期から非言語期に還ることであり、お坊さんの言葉を借りるなら、分別智から無分別智への移行といえる。移行に対して抗いが強ければ強いほど不安や混乱が伴うのだと思う。その時に生じる哀しみや苦しみが深刻化しない手立てを模索することが、僕にとっての老い方研究なのだ。老いに対して抗うよりも、受け止める力を養うこと。そうすれば、多幸感のある老人になれはずである。その状態を「ぼけから寿がれる」と呼びたい。

 考えてもみれば、前近代においては、非言語期に還ることができる場所があった。農村には鎮守の森があり、農作業のできなくなった老人はそこに仕えた。武家にあっては、家督を譲った後に出家して仏門に身を置いた。それは、神や仏といった非言語的世界との交流の場ともいえる。現代社会には、移行を支える場がない。介護現場は、そのような場になりうるのだと考えている。僕個人としては、現在開拓中の爺捨て山が非言語期への移行を助ける場となる予定である。

 最後に気になることがある。現社会における言語期には目的を達成するために手段化された言葉が溢れている。目的達成のためだけに言葉が使われ始めると、ひいては人も手段化され始める。それが、どんなに尊い目的であったとしても、人を達成の手段にするために言葉を使うことは避けたいと思う。そのように自分を戒めておきたい。

 3歳の孫娘の言葉は実に生き生きしている。それはきっと、「いま、ここ」から言葉が生まれているからだと思う。僕もあのような言葉を話す老人になりたい。

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に 『ぼけと利他』 (伊藤亜紗との共著、ミシマ社)『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

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