第22回
天の岩戸に空いた穴
2025.02.27更新
母は前歯が2本抜けている。厳密に言うと、奥歯は左右上下とも無いし、抜けはしなくても欠けている歯も多い。本来なら歯科通院をして然るべきだが、僕の都合を優先し半ば断念している。なぜなら、寝たきりの母を抱きかかえ、愛車である軽バンの助手席に乗せるだけでも骨が折れる。37年間、介護を生業としてきたからこその熟練度で、母を車に乗せてはいるものの、さすがに還暦を迎えると、難儀を感じるようになった。これまでに仕事で抱え、支えたご老体の述べ人数が、いったい何人になるのかと計算してみたが、自分でも恐ろしくなる数字が叩き出されるのであった。よって、僕はいつ爆発してもおかしくない腰痛という爆弾を抱えているのである。
母には特殊な持病があるので、車で小一時間かかる専門病院に定期受診している。これに、歯科受診が加わると思うだけで気が重くなる。訪問歯科を利用する手もあるのだが、往復4時間かけて通勤している僕にとって、診療に立ち会うために在宅することはままならない。
さらに、老人の歯科治療には終わりがない。完治というものがなく、へたをすると、死ぬまで治療およびメンテナンスの対象となるのである。その「終わりのなさ」というものに、いささか戸惑ってしまう。僕としては、すべての歯を失ってあの世に逝きたいと考えているのだが、歯を大切にすればするほど、お別れができないというジレンマをすでに感じている。
歯茎一貫になったご老体の生活歴を紐解くと、かなり若い時分に歯を失い始めている。娘さんが物心ついたときにはすでに、総入れ歯だったというお婆さんすらいる。公衆衛生による啓蒙や医学的観点からの口腔ケアが叫ばれている世代ではないことから、歯の手入れはいい加減であったと思われる。今はそのようなワイルドな環境になく、簡単に歯を失うことができない。
これまでに、入れ歯もしていない歯茎一貫のご老体たちと遭遇してきた。歯が全くないという、あの潔さというか、爽やかさというか、人間の原点回帰的な口内に一種の憧れをいだいてしまう。皺くちゃの顔が大あくびをしたときに垣間見せる、赤ちゃんにも負けないピンク一色の口内に出会うと、不覚にもかわいさを感じてしまうのであった。
歯を失うことへの不安も、彼らは緩和してくれた。ある婆様は外出先で取り寄せた弁当に入っていた唐揚げを歯茎だけで平らげてしまった。歯がないと食べることができない、入れ歯をしないと嚙み切れないという、固定観念をいとも簡単に覆して見せた。
あの光景は、歯を失っても、何とかなるという漠然とした安堵を僕に与え続けている。歯を失った歯茎は鍛えられ、咀嚼することに熟達していくのである。体というものは、何かを失っても別の何かが代替えしてくれるのだと、信じることもできた。欠損を慌てて補完しないで、待つことから生まれる地平なのだ。
昨年は右下顎あにある第二小臼歯を抜いて、さよならするか、それとも、治療するのかという決断を迫られた。母ではなく僕の話だ。治療に治療を重ねてきた第二小臼歯は、これまでの延命措置も叶わず歯根が折れてしまっていた。抜くよりほかに選択はない。迫られたのは、部分入れ歯をするか否かである。迷わず何もしないことにした。目指すところは歯茎だけで唐揚げを食べる婆様である。
第2小臼歯を失った違和感は半端なかった。ぽっかりと空席となった歯茎を暇さえあれば舌で確認した。傷として残った深い穴は、ゆっくりと肉を盛り返していく。失って1年が経った。慣れたといえば、慣れたのだが、慣れないといえば、慣れないのである。それが新感覚でもあった。ただ、あったはずの歯が、今はもう無いことが当たり前にはなった。このように、歯を大切にしながらも、1本また1本とお別れすることができれば幸いである。
話を母に戻そう。歯を治療しない理由はもうひとつあった。母は老いを深めるとともに、食事に時間がかかるようになった。眠っては起き、起きては眠る。その合間に食事をする。眠っているのか、食べているのかが曖昧なのだ。いや、混然一体と言ったほうがよいだろう。口の中に食べ物を迎え入れたまま眠りに入ったりもする。口内に残された食べ物たちは咀嚼されることもなく、ほったらかしになる。口を開けると漏れ出てしまうので、それを防ぐためか、さらに開かなくなる。時には蛸の口のように唇を尖がらせて頑なに開こうとしない強い意思を伝えてくる。それはもう天の岩戸のような口である。
そのような口にあっても、前歯の同じ位置に上下の歯が抜けていることから、そこだけはぽっかりと穴が空き、岩戸の出入り口のようになっている。その穴こそが、簡単には開かない口の取りつく島になっているのであった。
母は食欲に波があり、食べないにモードに突入すると、死を予感させるほどに食べなくなる。その時に備えてパウチ式の容器に収められた水分を用意している。
パウチ式の先っちょを唇の間に滑り込ませ、岩戸の入り口に挟み込むと、まるでそれが約束された合図であるかのように口を開く。そのことを発見した時、ホッとするような喜びがあった。攻略できずに堂々巡りをしているゲームのステージを抜け出して、次のステージへと進めたときのささやかな喜びと似ている。
同時に、うしろめたさを感じていた。なんだか、手を抜いている気持ちになる。スプーンだとパウチのようにはいかない。立ち並ぶ歯が砦のようにスプーンを拒絶する。前歯に空いた穴に滑り込むこともできず、退散せざるを得ない。難攻不落のような城壁を攻略するには、母のペースにタイミングを合わせ、ともにリズムに乗るという努力が求められる。そのプロセスを放棄しているような、うしろめたさであった。
とはいえ、その調子で水分を摂っていると時間がいくらあっても足りない。時間だけでなく、体に必要な水分量が足りなくなる。脱水だけは避けたかった。そのような理由からパウチ式の水分摂取に頼るようになった次第である。
本当は母にお迎えが来ているのだと思う。おそらく、僕が介護による創意と工夫で延命しているのだ。やがて、お互いのペースにタイミングを合わせてリズムに乗るという共同作業が叶わなくなり、スプーンを使った食事介助が無力になると、パウチ式を使用した栄養摂取に手を出すだろう。それでも、パウチ式はパウチ式なりに、タイミングを合わせる共同作業があって、それはそれで奥が深い。いずれにしても、口の中に入った食べ物に、母がいっさいの関心を寄せなくなるまで、僕の食事介助は続くのだ。
余談ではあるが、天の岩戸に空いた穴で母は生きているという話をある人にしたところ、「私の母はインプラントだから、そのようなことは起らないのね」と呟いた。