第25回
まもりの編集
2020.11.05更新
大阪都構想住民投票の結果が、反対多数となったことの意味はとても大きい。
この都構想議論に関して、多くの人たち、特に関西以外に住む人たちは「革新派VS保守派」の戦いのように見ている人が多く、この結果を前に、大阪の人はどうして変化を恐れるのか? というような意見をよく目にする。
都構想に賛成すること、すなわち「市」をなくすことは、未来への新しい世界を開く提案で、都構想に反対し、「市」を残すことにこだわるのは、変化を恐れているか、もしくは既得権益を守ろうとしているというふうに映るのだろう。
しかしそれがいかに当事者意識のない一方的な視点であるかに気づいてもらいたい。見る方向を変えるだけで、それが逆であることに気づくはずだ。
どういうことか?
今回の住民投票は、大阪維新による政治のままでいいのか? それとも松井市長にやめてもらって市政に新しい風を吹かせたいか? という視点であり、つまりは多くの人が変化を求めた結果でもある。
どうだろう?
冒頭のような意見を持った人たちも、考えが変化しないだろうか? こうやって視点を変えるだけで、ものごとの周りにある風景が一新する。これが「編集」の魔法であり、だからこそ僕は多くの人が編集視点を持つべきだと考える。
物事を多面的に見る癖は、そう簡単に身につくものではないし、人はみんな自分が立っている位置から見える景色でモノを言う。それが人間だ。だからこそ、違った視点で物事を見る努力をして、そこにある本質になんとかたどり着こうと足掻くことが編集行為で、その過程で議論しあうことの尊さは計り知れない。
視点を変化させることで、多くの人が見逃している意図や思惑に出会うこともある。そういうときはそれをそのまま机上に乗せて議論を促す。そういった対話の場面をつくることが地域編集者の仕事だと思う。自分のルールを押し付けるのではなく、郷に入れば郷に従いつつも、ちょっとした違和感をぶつけることで、小さな風穴をあけていく。その穴を拡げるも塞ぐも土地の人の価値観だ。これは地域における僕自身の所作としてとても大切にしているところ。
つくづく編集は魔法だ。
都構想という新しい概念を、旧態依然とした社会に風穴をあける英雄にもっていくこともできるし、我々が守るべき大切な何かを破壊しようとする化け物にもできる。しかし、そういう「編集意図」の鎧を取りはらったところに、いったいどんな生身が存在するのか、それを見極めるために、編集力を身につけてほしいと思う。
そもそも、賛成か反対かという二極論であること自体がファンタジーだ。
大阪はこれまで多くをスクラップアンドビルドし続けてきた。既存の常識を破壊してくれたおかげで、いまの時代にフィットしたこともあれば、大切な文化や建物をスクラップし、脆弱な新品をビルドしてしまったことも多い。そんな経験を繰り返し、取り返しのつかない損失を重ねてきたその実感を、橋下市政以降、多くの府民が感じていたように思う。だからこそ急な変化に慎重なのだ。
かつての小泉政権のように、変化こそ正義という短絡的なイメージで、いまもなお過剰な自己責任論が幅を利かせている現代で、自己顕示欲が強く、手柄アピールが上手いとされる大阪維新の政治は、未だ魅力的に映ることもよくわかる。しかし地元では、その魅力がいま急速に失われているのかもしれない。
イソジンや雨合羽で混乱した現場の人たちは多くいても、あのことで救われた人がいったいどこにどれだけいたのだろう? マスメディアで拡散されるヒロイズムに酔いしれ、熟考する胆力をなくした政治は、現場の小さな声をつぶす。そこに加担してしまうような編集を僕はしたくない。
今回の結果に、現状維持バイアスがかかったとかいう、選挙コンサルタントなる方の記事を読んだけれど、それはやっぱり的外れだと僕は思う。何度も言うけれど、維新による市政、府政という現状維持に対して、変革を求めたのが反対票だろう。
いよいよ僕は、即効性が高い「せめる編集」よりも、熟考の末の一手を探る「まもりの編集」の方が、現代には効果的だと感じる。議論なく拙速に変化を進めようとする前に、しばし待つことが出来るかどうか。前回書いた、編集にとって大切な「待つ」について、より深く考えた大阪都構想住民投票の結果だった。